十二、

気がつくと雨は止んでいた。息子を連れ出して外を散歩するのもいいと思ったが、そういえば先週から続いていた雨のため洗濯物ができておらず、妻から今朝出かけるときに、もし雨が止んだら子供服だけでいいから洗濯をしてほしい、と言われていたことを思いだした。時計に目をやるともう既に午後の四時を過ぎていた。しかし、この国では、特に夏の間は日が長く、夜は、大体九時半ぐらいまではまだ明るい。日差しも強いので、おそらく今から干しても三時間あれば乾いてしまうだろう、そう思った私は洗濯機を回し始めた。息子も最近は、おむつから漏れてしまうほどいっぺんに用を足すこともなくなり、洋服は大して汚れていないので、三十分ぐらいで済む設定にした。洗濯機が回る音を聞きながら、私は、ああ、婦人に、婦人の家に初めて行った時も、洗濯機が回っていたなぁ、と思い出した。

夏の暑い日だった。図書館の中にいて、一日中雨が降っていたことをすっかり忘れていた私は、傘を置き忘れて外に出てしまった。慌てて戻ると、夫人が受付で私を呼びとめた。

「これでしょう?」

と優しい笑顔とともに言った。

私は、ありがとうございます、とだけ答え傘を取ろうとししたが、婦人は傘から手を離さなかった。婦人は私がその月末に帰国するということをすでに知っていた。「私なしの世界」と呼ばれる著者のない作品の写しを取り終えた私にーービザの関係もあってーーこのままあの国に残る理由はなかった。

「五分だけ待ってくれる?」

と婦人は言った。私は「もちろん」とだけ言い、実際は、十五分ほど待ち、現れた婦人は、「仮病を使って来ちゃった」と入り口で待つ私に軽く舌を出しながら言った。私はそこに婦人の、少女のような幼い表情を見出し、少しだけ悪いことを考えた。大学から歩いて十五分くらいのところにある、一軒家の二階に、婦人は住んでいた。

「どうぞ上がって」

と夫人は言った。

「ここはね、大家さん、といっても私よりも更に随分年上の女性だけど、住んでいるの。もう、長くここに住んでいて、長い付き合いになるけど、私が、あなたのような、若い人、連れ込んだと知れたら、少し、笑われちゃうかしらね」

と、今度は、少し妖艶な雰囲気の表情で言った。私は、不思議なくらい動悸がして、喉の渇きを感じ、苦しそうな表情をしていたのだろう。夫人は、寝椅子の上で待つ私にすぐ水を持って来た。私が水を飲み終わる頃、夫人は部屋着に着替えていた。いつもは大きめの洋服で体の線を隠すような格好をしていた婦人だったが、その時は麻の薄い白いブラウスから黒い下着の肩紐が露出し、下は、短い黄色の、これも麻の、ショートパンツを履いて、綺麗に処理された艶めかしく少しだけ血管の浮かび上がった白い両足が私の隣で美しく交わっている。夫人は私のことを静かにただ見つめ、私に決定を委ねていた。私は、

「寂しくなります」

とだけ言った。

婦人は私に寄り添い、まず軽く口づけをし、私の顔を両手で抱え、自分の胸に埋めた。私は不思議と、動揺なく、気持ちがただ穏やかになり、それは、今まで私が経験してきた肌と肌のつながりとは大きく異なっていた。そのまま私たちはお互いを按摩するように愛し合った。私は深い眠りに落ちていった。気がつくと、まだ深夜と思っていたのが、すでに翌朝、天気の悪いあの国ではよくある天気だった。私は婦人に何かを言って家を出たかったが、そこには婦人の書き置きだけがあり、婦人の姿はなかった。

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