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等価交換の話

【鍬海 政雲】

四方山話?です。

 等価交換という言葉がありますが、流儀と我々にとってもそれは同様のことが言えます。
 私達は流儀保存のために必死になって今まで活動してきました。

 それまで天心先生のご自宅など、整った稽古環境とは言えない状況、不定期の稽古だったため、天心先生の定年後にほどなくして稽古場を借りて定期的な稽古を行うようにし、天心先生のモチベーションを高めるため、出来るだけ知人友人に声をかけて門人を増やしたりもしました。

 無理やり説得して天心先生の動きを出来るだけ保存するため稽古風景を定点撮影してもいました。
 (当時はスマホなどは無く、またそもそも気軽に個別の技法を撮影出来るような関係は構築出来ていなかったというのもあります。)
 ホームページを作るのにも一年がかりで説得しました。
 稽古環境をより良くするため、各支部を作り、門人の稽古機会を増やしましたし、私を筆頭に天心先生に学びやすい環境づくりのために引っ越した門人もいます。
 
 私も井手先生も天心流のため仕事を辞めてもいます。
 滝沢先生も一時居酒屋勤務になりましたが、それも天心流のための事業の一環でした。
 (提携会社側の怠惰で空中分解しましたが)

 今では生活文化としては不必要となった伝統文化という意味で、一つの流儀を継承保存するには、驚くほどにたくさんのものが必要になります。
 我々は楽しんでやっていますが、言い方によってはこれはひとつの犠牲、サクリファイスです。

 そこでこの等価交換の法則に至ります。

 流儀、つまり天心流に等価交換を求めるということです。
 例えば流儀としてメイド抜刀を披露するのもその一つです。
 宗矩公が見たらなんと思うかと思うと、面白くて仕方ないですが、まあ普通に考えれば流儀の沽券に関わることです。
 そして秘太刀の公開もそうです。
 特に生活文化的な背景にある抜刀術などは、本質的には初見殺し、つまり知らないと対応できないような技法が多いものです。
 そういう意味では知られると終わりなものであり、まさしく秘匿すべきものであるからこその秘太刀、秘剣なのです。

 天心流は生き残りたかったら、我々の生存戦略に乗っかって、現代に活かす伝統文化として新たな価値を見いださなければいけないのです。

 先日、下記のようなツイートをしました。

https://twitter.com/kuwamimasakumo/status/1338711443902922752

https://twitter.com/kuwamimasakumo/status/1338712052156678144

 すると現代で実戦と言っても、せいぜいバットを振るとかになるのではないかというような反応をいただきました。
 そうではないのです。
 私達の兵術が求めている実戦は、江戸時代の実戦であり、刀で切り合う時の話しかしていません。
 現代でも戦うなら真剣での命のやり取りです。
 もちろん現代ではそんなことは間違っても起こってはいけないことです。

 つまりナンセンスな求道精神に基づいているわけで、ただその側面だけでは、到底生き残ることは出来ません。
 忍辱の精神で耐え忍び、理不尽に耐えて徳川の世を守り、士としての存分、家を守り家名を守り、仕える主君に忠義を立てる。
 そのために学ぶ兵法が本来の天心流であり、その精神を基軸にして現代の門人に求めてもどうにもなりません。
 先代のように、三度教えて出来ない奴は莫迦だと叱り、雑巾をぶつけるような指導では、天心先生を除き誰も継続しなかったのは、すでに半世紀以上前の話です。
 半世紀以上前の人々ですら無理なのですから、現代ではさらに無理です。

 流儀保存のために必要な努力、レベルの維持向上も、形骸化させずに継承するだけの価値あるものとするために必須でありつつも、同時に門戸を出来るだけ開き、人々が集うことにより流儀保存のために必要なエネルギーを得る。
 そのためには天心流にも等価交換を求めなければいけません。

 これは擬人化というか法人化です。
 天心流は以前はNPO法人格を持っていましたし、今は社団法人です。
 法人とは、何らかの組織・グループを「権利と義務に関する主体となれる人としての資格を有する『人格』として法的に認められている」存在を指します。
 ちなみに普通の我々人間を法律的には自然人(しぜんじん)と言います。

 そういう意味では、法人などまさしく擬人化そのものいとも言えます。
 昨今のネットスラングでは受肉と呼んだりしますが、兵法の人格でまさしく法人格といっても良いでしょう。

 だからなんだという話ですが実はこの感覚はとても大切です。
 流儀を伝承して活動する中で、どこまでは有りで、どこからは無しなのか?
 こういう不文律というのはものすごく判断が難しいところです。

 メイド抜刀や広報で猫を使うなども、実は相当に神経を使って段階的に行ってきています。
 演武に対しても同様です。
 どこまで演出として有りかなしかなど、たえず境界線を見極めていかなければいけません。

 そしてその時は駄目でも後になれば問題ない、というものもあれば、逆に当時は良くても今は駄目だということももちろんあるわけです。
 めちゃくちゃわかりやすい例を出すならば、生きた人で試斬したり、死体でも試斬することは当時は必須で今は絶対に駄目です。

 そういう判断の時に、流儀というものの存在に対しての意識というのをより明確にすることはとても大切になります。

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