切れる切れない論
切れる切れない論
時折「そんなのでは切れない!」という感想をいただきます。
残念ながらそのすべてが、無知や無理解、偏った認識に由来したものです。
しかしこうした切れる切れない論は、稽古場では指導しますし、時にはTwitterなどでも書くことがありますが、基本的にあまりSNSなど公では頻繁には言及しません。
なぜかというと、表現がストレートだからです。
私達の伝承する教えは、とても生々しい人殺し、命の駆け引き、命のやり取りを流祖や代々の継承者の実戦経験や工夫、修業から具象化し、武藝として大成したものです。
この平和な時代に、刀槍での闘争術は基本的に不必要なものです。
応用としては護身術的な側面もありますし、スポーツとしての健康の役割もありますが、原則的には実戦活用が憚られるメルヘンであるからこそ保存が許される存在です。
ですから、生々しい部分をある程度ぼかして、あたら闘争心を駆り立てて世上を騒がせるようなことはすべきではないと考えています。
実戦的、比喩的表現ではなく実際の場面として血湧き肉躍るような話は稽古の中で、または閉じた世界で収めておくべきだと思うのです。
実戦を声高に叫び、血みどろなスプラッタを好んで表現するのは、エログロを喧伝するようなもので、やはり世間、社会と共生していくことを考えれば一定の線引はあったほうが良いと思います。
Twitterでは性的表現などは一定の制限が設けられていますが、私達の場合は実際に人や動物を切るなどしない限りは、技法も表現も規制はされません。
システム上での制限が無い以上、自主的規制を情報を伝える側が主体的に行っていくことが、モラルハザードを保つことに繋がります。
このあたり、どこが境界線なのかそれぞれ考え方がありますから明確にするのは無理でしょう。
同じ流儀内でも各々に境界線が異なりますし、その時の状況によっても異なります。
子供の頃に、自分勝手を通した時、大人から諭されました。
「そんなに自分の好き勝手にやりたいのなら、自分独りでやりなさい」と。
社会的影響を理解し、意図的に境界線をきちんと引いて、律するべきところは律すること。
これが出来ないとなると、本当に強制的に隔離されるか、存在を社会的に排除、抹殺を受けてしまいます。
刀や時には素手もそうですが、こういったものを自分の我を通すために用いる人々が残念ながら存在します。
私達はそうではない。
といくら言っても、日頃の言動や行うが伴っていなければ、「同じ穴の狢」として扱われ、相応の接し方を取られるのは至極当然のことです。
刃物は刃物であり、たしかに刀が切れるように包丁も切れます、ハサミも切れますしカッターも切れます。
しかし用途以外にも凶器として用いることが出来る生活用品と、美術的価値があるとは言え、基本的に武具である刀ではそれを持つ者に求められる道徳、モラルが異なります。
生活必需品で普及率と使用率が高いもので起こる事件事故と、レアアイテムで不必要品による事件事故では、当然より厳しい目で見られるのは後者なのです。
武道、武術で人格が磨かれるというのは嘘です。
これは「健全な精神は健全な肉体に宿る」という俗説と同様です。
orandum est ut sit mens sana in corpore sano.
強健な身体に健全な魂があるよう願うべきなのだ。
これが古代ローマの詩人デキムス・ユニウス・ユウェナリスの本来の詩だそうです。
同様に「刀槍を振るう者には健全な道徳心とモラルがある必要がある」と言えます。
人間同士が殺し合うという性質に由来する武藝は、危険性、狂気性を備えたものです。
それも重要な伝統であり、武藝においては根幹とも呼べます。
しかしだからこそ、その扱いについては刀を扱うのと同じように、慎重でなければなりません。
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