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間違いさえなければ

 『稿本天理教教祖伝逸話篇』(以下、『逸話篇』)に103「間違いのないように」というお話が収められている。明治15年、小松駒吉先生が泉田藤吉先生に連れられて、初めておぢばがえりしたときの話である。このとき教祖は、駒吉先生に向けて「大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られた。年は十八、未だ若い。間違いのないように通りなさい。間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで」と仰せられたという。そして、この逸話は「駒吉は、このお言葉を自分の一生の守り言葉として、しっかり守って通ったのである」という一文で締めくくられている。
  
 では、駒吉先生が守って通られた「間違いのないように」とは具体的に何のことなのだろうか。どういった間違いをしないように教祖はこのお言葉を駒吉先生にむけられたのか。高野友治『天理教伝道史Ⅰ』を読んでみよう。


たしかその年(明治十五年)だつたと思うが、泉田藤吉氏につれられて、おぢばに参拝し、教祖様にお目にかかつた。この時、教祖様は小松氏を御覧になり、「いくつになられました」とおたずねになられたそうだ。小松氏は「十八才でございます」と申し上げると、教祖様は「若いなあ、若いなあ、若いなあ」と三たび歎息され、そして、その後で「慎しみなされや」と仰せられたということである。慎しみとは、後で山澤氏(為造氏か)が、色情のことを仰せられるのだと説明されたという。

高野友治『天理教伝道史Ⅰ』(111頁)


 『逸話篇』と比較して、教祖のお言葉の相違、為造先生の補足があるものの、この二つのエピソードは同じ事実によるものだと私は思っている。たしかに〝駒吉先生が初めて参拝した時〟という状況説明が『逸話篇』にはあるが『天理教伝道史Ⅰ』にはみられない。しかし、高野友治『御存命の頃』316~317頁にも、酷似した内容の記載があり、そこには「小松駒吉は、初めてお会いする教祖の前で」と記されていることが、同じエピソードだという最終的論拠である。


 だとすると、駒吉先生が守って通られた「間違いのないように」の正体は〝色情的あやまちを起こさないように〟という意味に理解できる。さらに注目したいのは、為造先生が教祖のお言葉を「色情のこと」だと説明している点である。〝若い〟という理由からの思案だと思っていたが、実は為造先生自身も駒吉先生と全く同じ体験をされた史実がある。かもしれない。

 
先生(山澤為造先生のこと:引用者注)が二十四、五歳のときに親につれられて初めて教祖にお目にかかった。山沢先生という方は細手の大和男で、「大和男に京女」と言うて大和にはええ男前がおった。年寄られてからでも想像するところ、なかなか背は高いしええ若い衆やったようですねえ。
そうしたところ教祖が初めて会うて「若いなあ/\、慎しみなされや」とひとことおっしゃったんですね。そしたら山沢先生は何を慎しんだらええのかさっぱり判らない。それで教祖のところから下がってきた。そしたら仲田さよみさん(儀三郎)、取次の先生がおられて「なあ、あんた新泉の良助はんの息子はんかい、よう帰ってきはったなあ、神さん今あんたにな、『若いな/\、慎しみなされや』とおっしゃった、あれ何言うてはるか判りましたかな」と言やはった。「いや、そりや何言うてはるかさっぱり判らん」と言うたら、取次の先生が「あれはなあ為造さん、あんたまだ若いしなかなか男前や、あんたがどうっちゅうことなかったって、若い女の方からほっておきよらん」と。(中略)
それで山沢先生は「それが、私が教祖にお会いしたときの最初の言葉やった。『若いな/\、慎しみなされや』。それから私は一生涯きょうの年まで、一度も女間違いしたことありません」と、先生の口から私は聞いた。三年間お勤めをしている間に。そのひとことを後生大事に守られた。

西村勝造「先人の話」,天理教教義及史料集成部史料掛,昭和55年7月,『史料掛報』第278号,13―14頁


 『復元』22号所収の「山沢為造略履歴」を読んでも、為造先生が初めて参拝されたのは七、八才であり、勉学に励んでおぢばへの参詣は「永らく御無沙汰」であったとしても、明治11年6月に発病した「脚気に神経痛」のため、同年10月「改めて参拝」している。為造先生の出生は安政4年1月であるから、当時は21歳頃ということになる。「初めて教祖にお目にかかった」日に疑問が残る。一つでもフェイクがあればその逸話全体を懐疑的に捉えてしまいがちになる。しかし、先生の結婚ついてまとめられている高野友治『先人素描』を読むと、色情の間違いをせぬよう導かれた教祖の態度とそれを実直に守って通られた為造先生の信仰姿勢が垣間見られる。


為造はもう二十七、八歳になっていました。普通の百姓家の青年なら、もう、とっくに嫁さんをもらっていなければならない年だったのです。それで、それ以前から、 「もう年にもなりましたから、嫁をもらって身をかためたいと思いますが」 と教祖におたずねすると、教祖は、いつも、 「まだ早い」 と仰せになりました。 村の人たちは、 「山沢さんとこの為さんは、どうしたんや、二十七、八にもなって、まだ嫁さんないのか」 と陰口をいっておりました。 (中略) そのうちに年もだんだん過ぎて、為造はとうとう三十一歳になりました。それでも、教祖のお言葉を守って独身でありました。 その年、すなわち明治二十年陰暦一月二十六日、教祖は御身をおかくしになられました。その後、本席に神様のおさしづがありまして、道はまたまた発展したのであります。その年の四月、山沢為造は梶本ひさと結婚いたしました。               

高野友治『先人素描』(30―31頁)


 仲田儀三郎先生と取次人の解釈をガイドラインとした「慎みなされや」という教祖のお言葉が常にむねにあったからこそ、周囲に比べて結婚が遅くとも、色情の間違いを起こすことなく、親神様のお導きやお引き寄せを信じて通られた山澤為造先生。さらには、その経験や信仰姿勢が駒吉先生へと伝わり、駒吉先生もまた「自分の一生の守り言葉として、しっかり守って通った」のだと捉えることができよう。


 
教祖の口伝や先人のお話の中には、色情についてのお諭しが散見する。以下にその一部を列挙して、筆をおくことにしたい。

「若いときにはなあ、女と欲でしくじるから気をつけや」(高野友治『御存命の頃』,388頁)
「御教祖様は「此の世の中に一番美しい一番奇麗なものは色情と金銭である、此一番奇麗なものに一番むさくるしい埃が溜るのや」と御諭し下されたと聞かして頂いたことが有ります」(澤田又太郎「よく」,『みちのとも』大正五年九月号,35頁)
「言葉とか、金とか、物や品で失敗したことは取り返しができますが、色情関係で失敗したことは取り返しがつきません。これが一番つまらない。うらみの理になってきて、繰り払いをしなければならない」(吉福ヤス『病いと心』,229頁)
「色情の誘惑に克った人だけが本当の道をつける」(関粂治先生の言葉,上田和興「先輩に学ぶ 色情とぜいたく」,『みちのとも』昭和五十一年十月号,1頁)

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