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毛皮を着たヴィーナス(改竄)

「神、彼に罰を下して 一人の女の手に与えた給う。」 ユディトの書 16章7

原画というのはドレスデン美術館蔵のティツィアーノ作になる有名な「鏡に向えるヴィーナス」の見事な模写であった。
「で、これがどうしたとおっしゃるのです?」
ゼヴェリーンは立ち上り、ティツィアーノがその愛の女神に着せかけた毛皮を指でさし示した。
「ここにも〈毛皮を着たヴィーナス〉がいる」と彼はかすかな笑みを浮べて言った、 「といって私は別に、あのヴェネツィアの老画家が意図的に毛皮を着たヴィーナスに仕立て上げようとしたのだとは思わない。ティツィアーノはただ誰か知らないが身分のある淫奔な貴婦人の肖像を描いただけのことで、彼女はその帝王のように堂々たる魅力を冷ややかな悦楽の身ぶりとともに鏡のなかで確かめているけれども、その鏡を愛の神に持たせて、しかも当の愛の神がいかにもいやいやながらお役目を果しているのがご愛嬌だね。 この絵は一幅の描かれたお愛想のようなものです。後になってロココ時代のだれか 〈わけ知り〉がこの貴婦人にヴィーナスの名を冠せたのでしょう。ティツィアーノの美しいモデルが慎しさからというより風邪を引く心配がないように羽織った女暴君の毛皮は、こうして女と女の美のうちにひそむ呵責なさと残酷のシンボルになったのです。でもこの絵がげんにそうですが、われわれの眼にはそれがわれわれの愛を諷するまことに辛辣な戯画として映りかねませんな。ヴィーナスは、この抽象的な北方、氷のようなキリスト教的世界にあっては、風邪を引かないためには大きな重い毛皮を引きずってあるかなければならんというわけで――」

原稿の余白には『ファウスト』の有名な詩句のもじりがモチーフとして書き込まれていた。
「官能を超越した官能的な自由人よ、一人の女がお前の鼻先を引き回す!」 
             メフィストフェレス

「以下の物語は、筆者がその当時の日記をもとにしてまとめ上げたものである。なぜなら人は断じて自分の過去を率直に書くことはできないからである。そのかわりにすべての出来事がその生々しい色合いを、すなわち現在の色合いを帯びている。」

「真の喜劇の美神は、笑いの仮面をつけながらさめざめと涙を流している美神である」素晴らしい格言ではあるまいか!

私は自分の物語を書きながら思わず知らず笑い出さないわけにはいかない。それもけたたましい笑い声を上げて、それでいながら私がこれを書くのに使っているのは世のつねのインクではなくて、私の心臓から滴り落ちる真紅の血なのだ。そう、もう久しい昔に癒着していた傷口という傷口がすっかり口を開いて、ぴくぴくふるえながら痛んでいるのだ。そして時おり涙の滴が点々とノートの頁の上に落ちる

この牧草地に大理石製のヴィーナスの像が一体立っている。オリジナルはたぶんフィレンツェにあるのだと思う。このヴィーナスこそは私がこれまでに生涯で相まみえたことのあるもっとも美しい女性なのである。

すると月が昇り それはいままさに満ちかけている。
樹々のあわいを遊弋して、牧草地が銀の輝きにいちめん浸されると、女神の姿が清らかにすすがれたようにすっくと立ち、月の和やかな光のなかに浴みしているように見えるさまは、何とも名状し難い。
ある夜、ヴィーナス礼拝の儀式をおえて館に通じる並木道の一つを戻ってくると、ふいに、緑の遊歩道で隔てられたわずかな距離のところに、石のように白く、月光にあかあかと照らし出された女の姿が見えた。美しい大理石の女が私を憐れんで現身と化して後をつけてきたのではあるまいか、ふとそう思い すると名付けようのない恐怖に捉われて、私の心臓はいまにもとび出さんばかりであった。

そなたは情熱の焔をかき立てながらみずからは凍えている。願わくばその暴君の毛皮に身を包まれよ。そなたに適わしくないなら、この暴君の毛皮は何人に適わしいだろうか、美と愛の残酷な女神よ

愛の神に捧ぐ
「双の翼は作りもの、つがえる矢はおそろしい爪、月桂冠には小さな角が隠されている、愛の神こそはまぎれもなく、ギリシア神々の通例に洩れず、仮装をこらした悪魔なのだ」

「神、彼に罰を下して、一人の女の手に与え給う」と私はくり返しつぶやく。では、神に罰されるには、私はたとえばどんな悪を仕出かせばいいのか?
どうとでもなれだ!ちょうどこのとき館の女主人がやってくる。一夜のうちに彼女はまた一回り小さくなっている。すると階上から蔓と鎖に絡まれた露台にまた白いドレスが見える。ヴィーナスだろうか、それとも例の未亡人だろうか?今度こそは未亡人である。

牧草地は、さながら鏡のように、池の水面のように、なめらかに光っている。そこにヴィーナスの像が御姿も神々しく燦然と聳え立っている。

「それにしてもマダム、どうしてそんな恰好を思いつかれたのですか?」
「あなたのご本のなかに挟んであった、小さな複製画を拝見したからですわ」

その人の天衣無縫の生の歓喜が私たちには悪魔憑きか残酷さに思えて、至福のなかに悔恨の種になるほかない罪の影を見るのです。

ではあなたも近代女性の、あの哀れなヒステリー女どもの鑽仰者ですのね。あの女たちは、空想じみた男の理想を夢遊病者のように追い回して、最高の男性の値打ちも分からず、涙を流して戦いながら欺し欺されつつ毎日のように我と我がキリスト教徒の義務を犯し、探し求め、選んでは捨てのくり返しで、一度たりと幸福だったことはなく、人を幸福にしもせず自分もヘーレナやアスパシアが生きたように愛しかつ生きたいのだ、と心おきなく揚言するかわりに運命の非をなじる。そんな手合い。

かつて一度愛したことがあるというだけの理由から現在愛してもいない男の所有になるですって?ごめんですわ。私は断念などいたしません。好きになった男なら誰でも愛しますし、私を愛してくれる男なら誰でも幸福にしてあげます。それが厭らしいのですって?いいえ、私の魅力がかき立てる苦脳を残酷に楽しんだり、私のためににやつれる哀れな男どもから美徳家ぶって身を退くより、少なくともずっと美しいことですわ。

失礼ですが、マダム どうしてそんな、そんなお考えをなさるようになったのですか?

簡単な話ですわ、私の父は教養のある人でした。揺籠のなかにいる時分から私は古代美術の複製品に取り囲まれていました。私は十歳で「ル・ブラス」を読み、十二歳で「オルレアンの処女」を読みました。他の子供たちがその歳項に一寸法師や青髯やシンデレラと仲良しになるように私はヴィーナスやアポローン、ヘラクレスやラオコーンを友達扱いしました。夫となった人は、天衣無縫の、向日性の性質の持主でした。結婚してからほどなく不治の病に罹りましたけれど、病気でさえ夫の額を一瞬たりと曇らせることなどできませんでしたわ。死の前日まで夜は私をベッドに誘ってくれましたし、半死半生の有様で車椅子に埋れていた数箇月の間にも、よく悪戯半分に言ったものでした。〈なあ、もう情人の一人ぐらいできたんだろ?〉私は恥で真赤になりました。〈嘘を吐いちゃいけないな〉夫はそう言葉を継いで〈嘘を吐くのは厭らしいと思う。だが様子のいい男を一人見つけるのはいい。いや、一度に何人もの方がいいな。きみはすばらしい女だ。それでもやはりまだ子供だ。玩具がいるよ〉あらためて申し上げる必要もないでしょうが、夫が生きている間は情人は持ちませんでした。でもそれで充分。私の今日あるのは、つまりギリシア女に仕立ててくれたのは、夫の教育の賜ですもの

「私の奴隷になりたいのでしょう?」
「愛に平等はありません」私はうやうやしい厳粛さをこめてそう答えた、「支配するか征服されるか、二つに一つの選択を迫られれば、即座に美しい女の奴隷になる方が私には魅惑的に思えます。といって、しみったれた泣き言で男をとりなそうとするのではなくて、平静にさめた態度で、いや厳格ですらある態度で男を支配するすべを心得た女が、どこを探せば見つかるでしょう?」

毛皮を着たヴィーナス
「そなたの奴隷の背を踏み敷かれよ、悪魔のごとく気高き神話のなかの女よ、桃花嬢と竜舌蘭の花々に埋れて大理石のその身ものびやかに」
いや この後も作ったのだ!今度ばかりは第一聯の先まで漕ぎつけたのである。だが、あの夜彼女の命じるがままに詩を献上してしまい、写しを取っておかなかったので、今こうして当時の日記抜萃を作る段になると、この第一聯だけしか思い浮ばないのである。

私に畏怖の念を起こさせ、彼という人の力で私を打ち負かすような男でなくてはね。

ところが男という男は 私の知る限り 悩殺されるが早いか たちまち弱々しく、御しやすく、滑稽になってしまう。女のいうなりになって、跪いて哀れみを乞うの。私が一生涯愛せる男は私のほうから跪くような人だというのにね。
私は真面目に理性的に扱われれば、悪い女じゃないわ。でも相手があんまり身を捧げてくれると傲慢になるの

私には理想の女性のタイプが2つあります。かりに自分に忠実に優しく運命をともにしてくれる、高貴の心の、明るい女性が見つからなくても、それでも中途半端になまぬるいのはご免です!それくらいならいっそ婦徳のかけらもない、不実で無慈悲な女の手に渡されたいのです。
私は愛する人を見下したのでは幸福になれない人間です。一人の女性を崇拝する立場に立ちたい。それにはしかし、その女性が私を残酷に扱ってくれるのでなければだめなのです。
「でもゼヴェリーン」とワンダはほとんど激怒の表情を浮かべて答えた、「あなたのように愛してくれる殿方を、それも私の方も愛している殿方を、私が虐待できるとお思いになられて?」
「勿論です。 虐待されれば此方はそれだけあなたを崇拝するのですからね。人はたぶん自分の上に立っている者しか愛することはできないのです。つまり美によって、気質や精神や意志の強さによって私たちを凌ぐような女、 当方の女専制君主になるような女をしか愛せないのです」

ある夜のこと、私はベッドを抜け出してヴィーナスに会いに行きました。私は三日月の光を浴び、月光は女神の姿を蒼白い冷い輝きのなかに浮かび上がらせていました。私は女神の足元にひれ伏して、その冷たい足に接吻しました。農夫たちが死せる救世主の足に口づけするのを見たことがありますが、あれとそっくりのしぐさをしていたのです。
私はやみくもな欲望の虜になっていました。
立ち上がるとその美しい冷い肉体をひしと抱擁し、冷い唇にわれとわが唇を押しつけました。すると身体の奥の方からぞっとするような戦慄が襲ってきて、私はその場から逃げ出しました。その夜の夢のなかでは、あの女神が枕元に立って、片腕を高々と上げて私を嚇していたような気がします。

「その頃のことでもう一つ、忘れられない情景があります」と私は続けた、「遠い親戚筋に当るゾボール伯爵夫人という女性が私の両親を訊ねてきました。魅力的な微笑を浮べた、堂々とした婦人でした。私はしかし彼女を憎んでいました。というのも家族ではゾボール伯爵夫人は淫奔な貴婦で通っていたからです。ですから私は、彼女にたいしてはこれでもかとばかり不作法な、意地の悪い、邪険な振舞いをしたものでした。
ある日両親が地方庁所在地に出かけました。わが遠縁の婦人とはその留守の間を利用して決着をつけることにしたのです。ゾボール伯爵夫人は毛皮のカツァバイカを着たいで立ちで、料理女に女中、それにいつも私が邪険にしている猫まで引き連れて、突然私の部屋に闖入してきました。ろくすっぽものも言わずに彼女は私をつかまえると、じたばたあがき回るのも構わずに私の手足を縛り上げ、それからうっすらと邪悪な笑みを浮かべながら服の袖をたくし上げて、大きな鞭で私をはげしく打擲しはじめました。その打ち込み方たるや大層見事なものでしたので、血が流れ出し、歯を食いしばって我慢したのについに私は苦痛の叫び声を上げ、泣きくずれて、ご免なさいと許しを乞う態たらくでした。するとゾボール伯爵夫人はようやく縛めを解いてくれましたが、私は跪いて懲罰に感謝し、彼女の手に口づけをしなければなりませんでした。
ご覧なさい!これが超官能の痴れ者なのです!毛皮のジャケットを着たその姿が激怒した女専制君主のように思えた、美しい豊満な女性の鞭の下で、私のなかにはじめて女にたいする感覚が目覚めたのです。それからというものこの遠縁の婦人がこの地上でもっとも魅力的な女性のように思えたものでした」

ある朝、またしてもあの理想の女が空想の金色の靄のなかからあふれんばかりの華やいだ魅惑を湛えて浮び上ってきた後でゾボール伯爵夫人の家を訪れると、彼女は愛想好く、心から嬉しそうに私を迎え、ようこそとばかり歓迎のキスをしてくれましたが、そのキスに私はすっかり感覚が狂ってしまいました。彼女はこのとき、四十に手が届くか届かぬかの齢頃でしたが、あの常夏の有閑婦人連の例に洩れず相変らず肉感をそそる風情でした。このときもやはり毛皮つきのジャケットを着ていましたが、しかし今度は褐色の貂の毛皮襟の緑の天鵞絨地のもので、その昔私を彼女に恍惚とさせたあのいかめしさの気配はどこをどう探しても微塵も感じられませんでした。
それどころか私にたいしてすこしも残酷ではなくて、私が愛を乞うのを四の五の言わずに許してくれるのでした。
彼女は私の超官能的な痴愚も世間知らずの無垢もとうに見抜いていて、私を嬉しがらせては楽しんでいるのでした。

「存じてますとも。でもあなた、どうしてそんなに毛皮が好きになってしまったの?」
「生れつきです」と私は答えた、「子供の頃からその気が見えていました。そうでなくても毛皮製品というものは、押しなべて神経質な性質の人間には刺戟的な効果を発揮するものです。これは自然の普遍的でもある法則に適った効果なのですよ。すくなくとも妙にちくちく刺すような感じの生理的魅力があるから、誰だってこれには抵抗し切れません。 最近の科学は電気と熱との間にある種の親和力があることを証明しましたね。人間の生体に及ぼす毛皮の効果だって同じようなものです。熱帯地方には情熱のはげしい人間が生れますし、温い部屋の空気は情欲を掻き立てますね。電気もそうです。だからこそ猫族どもは刺戟に感じやすい精神の活発な人間に魔女の慈しみにも似たふしぎな影響を及ぼすのですし、そのためにこのかわいらしい、火花散るような充電器のような動物界の貴族は、 マホメッド、リシュリュー卿、クレビヨン、ルソー、ヴィーラントのような人の愛玩物となったわけです」
「すると毛皮を着ている女は」とワンダが大声で言った、「何のことはない大きな猫なのね。
強力充電器というわけなのね?」
「そうですとも」私は答えて、「さればこそ毛皮が権力と美をあらわす装身具となった象徴的意味も説明がつくのです。 昔の専制君主や尊大な貴族たちが服装の位階秩序を制定して毛皮を自分たちのために独占したのも、大画家たちが美貌の女王を描くときにかならず毛皮を着せたのも、そのためです。だからラファエルのような人がフォルナリーナの神々しい姿を描くときにも、ティツィアーノが恋人の薔薇色の肉体を描くときにも、暗色の毛皮ほど貴重な道具立ては見つからなかった」
「エロティシズム論の大講演ご苦労さまでした」とワンダは言った、「でも全部言って下さったわけじゃない。あなたは何かもっと特殊なもので毛皮に結ばれているでしょう」
「もちろんです」と私は叫んだ、「もう何遍も申し上げた通り、私には苦痛のなかに奇妙な魅力があって、暴虐や残酷さほど私の情熱の火を煽り立ててくれるものはまたとないのです。 それもとりわけ美しい女の情なさに勝るものはない。この女、醜の美学から生れたこの奇妙な理想、妖婦フリーネの肉体に宿ったネロの魂を、私は毛皮なしには考えることができません」
「分るわ」 ワンダが口を挟んだ、「毛皮は女に何か威風あたりを払うような堂々とした風情を授けるものですもの」
「そればかりではありません」と私は続けた、「私が〈超官能的な人間〉だということはご存知ですね。私という男にあってはすべてのものがむしろ空想に根ざしていて、空想を糧にして生きているのです。 私は早熟で、 十歳の頃殉教者列伝のような本を手に入れたとき異様な興奮に襲われました。いまでも覚えていますが、私はそれを、実は恍惚にほかならないぞっとするような戦慄を感じながら読みました。 殉教者たちは獄屋につながれて呻吟し、火焙り器に掛けられて拷問され、矢に射抜かれ、ぐらぐらと煮えたぎる瀝青のなかに放り込まれ、野獣どもをけしかけられ、十字架に釘付けされ、しかもこの怖ろしい苦痛を一種の歓びとともに味わっていたのでした。苦痛に耐え、残忍な責苦に耐えることが、このとき以来私には享楽のように思えたのです。その執行者が美しい女性ならまた格別です。もともと私にはあらゆるポエジー、それにあらゆるデモーニッシュなものがことごとく女のなかに集中しているように思えたのですから。私は女を荘重な礼拝の対象にしたのです。
私は官能のなかに何か聖なるものを、何ものにも代えられない聖性を見、女とその美しさのなかに神聖なものを感じとりました。女の使命こそはとりわけ存在のもっとも重要な課題、つまり種の維持だからです。私は女のなかに自然の擬人化たるイシス神を、男のなかにはその司祭、奴隷を見、女が男にたいして自然のように残酷だと考えたのです。自然は、おのれに奉仕するものがもう役立たずになったと見るや、情容赦もなく払いのけてしまいます。ところが男にとってはその虐待さえも、いや彼女の手ずから下す死でさえもがこよなく情欲をそそる至福となるのです。
私は逞しいブルンヒルデに婚礼の新床で縛められるグンター王を嫉妬し、気まぐれな女王に狼の毛皮のなかに縫い込まれて野獣のように犬に追い回される哀れな吟遊詩人を嫉妬しました。剛胆なアマゾネスのシャルカにプラーハの森のなかで奸計の罠に掛って捕えられ、 ディヴィンの城に拉致されて、しばし暇つぶしの種に弄ばれてから車裂きにされたあの騎士スチラードが羨望に耐えませんでした

お気をつけた方がよろしいことよ。理想の女を作り上げるのはあなたでも、ひょっとしたら相手の女はあなたのお好み通りより残酷に扱う羽目になるかもしれなくってよ。

「じゃあ、この私をあなたの理想の化身に仕立てるおつもりなのね?」 今日庭園で遭ったとき、ワンダはいきなり悪戯っぽい表情でそう言った。最初私は何と返事をしていいのか分からなかった。いくつもの食いちがう想念が私のなかで闘っていたからである。

もう一度お願いします、結婚してください、私の忠実な、貞淑な妻になってください。それができないのでしたら、私の理想の女でいて下さい。それも容赦のない、手加減をしない、完全な理想になって下さい。

あなたが私の求めている男性なら一年以内に御意の通りにいたします。ワンダはおそろしく真面目な表情で応じた、「でも、どうやらあなたは、私が空想の女を演じて差し上げる方が有難そうね。さあ、どちらがいいの?」
「私が想像の世界でとりとめなく考えているものがあなたの天性のなかに実際にあるような気がするのです」
「買い被りね、それは」
「確信があります」と私は続けた、「あなたはきっと一人の男を完全に牛耳っていじめてやるのが大好きなはずだ―」
「とんでもない!」彼女は撥刺とした叫び声を上げて、「でもねえ」―としばし思いに耽った。
「もう自分で自分が分らないの」と彼女は言葉を続けた、「あなたに白状しなきゃならないわ。あなたのおかげで私の想像力はすっかり堕落してしまったし、血の騒ぎが止まらなくなってしまいました。そういうことがだんだん好きになりはじめたの。あなたが熱を上げて。ポムパドゥール婦人だの、エカチェリーナ二世だの、そのほかいろいろな、自己本位で、淫蕩で、残酷な女たちのことばかりまくし立てるものだから、熱気に当って、お熱が私の魂のなかまで押し入って来て、そういう女たちの真似をしてやろうという気になってしまったの。ああいう女たちは悪行にもかかわらず長生きをして、人々にうやうやしくかしずかれて、そのうえ死んでからまでも不思議な影響力を及ぼしつづけているのですものね。
でも結局のところ、あなたは私を女暴君のミニチュアール、家庭用のポムパドゥール夫人に仕立ててしまうのが関の山ね」

私が本当にその気になって実験のお相手にまずあなたを選んだら、どうなさるおつもり?
ディオニシウスがそうでした。ディオニシウス帝は鉄の牡牛の処刑具を発明した男をまず真先にその牡牛に閉じ込めて火炙りにして、その男のあさましい苦悶や断末魔の叫び声が本当に牡牛の吼える声とそっくりに聞こえるかどうか納得しようとしたじゃありませんか。

そうとも、本気じゃないのをお前は承知しているんだものね。
私がお前を痛めつける気が毛頭ないと、先刻ご承知なのだものね。下手な猿芝居はむかつくよ。私が本当に奴隷を鞭打つ女だったら、お前はさぞかし怖がるだろうね。でもねえ、あなた、女にそんなことができるのは滅多にないことなのよ。男のように天衣無縫に官能的になることも、精神の自由を与かることも、女にはできないの。女の愛はいつも官能性と精神的欲求がごちゃまぜになった状態なの。女心というものは男をいつまでも鎖に縛りつけておこうとしながら、それでいてご本人は秋の空のようにくるくる変わるもの。だから女のやることなすこと、女という存在には、本人にはそのつもりがないのにという場合がすくなくないのだけれど、分裂が、嘘や欺瞞が生じて、当人の性格が不具にされてしまうのだわ

女なら誰だって、自分の魅力を利用してやろうという本能や欲望を持っているものよ。愛もなければ享楽もないのに身を任せるということは、もうそれだけで素晴らしいことなのよ。身を任せながら冷血そのものでいられて、しかも自分の美点を思い知ることができるのですもの
女って、女を崇拝したり弁護したりする人たちが考えているほど善良でもなければ、女の敵が考えているほど悪くもないのよ。最良の女でさえときとして汚濁に身を落とすこともあるし、そうかと思うと最低の女が思いもかけず偉大な善行に走って、彼女をないがしろにしていた人たちを恥じ入らせることだってある。どんな女も悪そのものでもなければ善そのものでもないのだから、女の思想、感情、行動ときたら、一瞬のうちに悪魔的な性質のものになったり、そうかと思うと神聖なものになったり、ものすごく穢らわしいものにも、いちばん純潔なものにもなりかねないものなのよ。女はまさに、文明がどんなに進歩しようが、自然の手から生み出されたときの姿のまんまでいるの。女には野生のままという性格があって、それが女を、そのときどきにどんな感情に支配されているか次第で、忠実にも不実にも、傲慢にも残酷にも見せるのよ。…だから男ならいくら自己中心的でも、悪意に満ちみちていても、どんな男も原理に忠実です。でも女が忠誠を誓う相手はいつだって感情だけ。これだけはお忘れなくね。だから愛している女に絶対に気を許してはいけないことよ

あなたはもう私の恋人じゃなくなるのよ。だから私はあなたにたいしてもう何の義務も負わなければ、どんな思いやりを掛けてやる必要もないの。これからは万一私が好意を示したとしたらあなたはお情けを掛けられたと見なくちゃいけないわね。あなたにはもう権利なんぞ一切ないの。だから権利を振り回すこともご法度なのよ。一方、あなたにたいして私の方はいくら権力をふるっても構わない。あなたは何物でもなくて、私がすべて。お分かり?

あなたが絶対に私から離れないこと、まずそう契約書に書き込まれるのを確かめたい。それから、あなたの崇拝者の誰かさんの暴力の餌食にしないこと
でもゼヴェリーン、本気で信じているの?私があなたに、私をこんなにも愛していて、こんなにも私の言うなりになりきっている人にそんな ―

誰もが奴隷を持っているところで奴隷を所有して、それが私にとってどれだけの価値があるでしょう。奴隷を持つならこの文明人の、まっとうな、俗物たちの世界で持ちたいの。私一人が奴隷を持つのよ。それも法のためでも、私の権利や力ずくのためでもなくて、私の美しさと私という人間の力だけのために唯々諾々と私の言うなりになるような奴隷をね。

もはや明晰な思考も自由な決断も不可能にしてしまうあの情熱の大歓喜の虜となって、私は突然叫んでいた。

愛は美徳にも手柄にも無縁である。それはひたむきにすべてを愛し、すべてを赦し、すべてに耐えるのだ。そうしないわけにはいかないからだ。判断力も道しるべの役に立ってはくれない。これこれの美点や短所が相手の中に見つかったからといって、それが理由でよろこび勇んて身を任せるわけでもなければ、驚いて尻込みするのでもない。私たちを駆り立てているのは、甘い、悲しい、謎めいた力なのだ。私たちはもはや考えることも、感じることも、欲望することも止めてしまい、ひたすらその力に駆り立てられて、果てはどこへ行きつくのか訊ねようともしない。

彼女は物静かに言った。私は悲痛な思いに駆られたが、それというのも彼女は激怒しているどころか、ついぞ心を動かされさえしていなくて、むしろまことに思慮深く私に言って聞かせているのだったからだ。

お前という人間が今度こそよくわかった。足元に踏んづけられると憐れみを乞い、邪険にされるとそれだけ頭を低くする犬の性質ね。私はお前という人間がわかったけれど、お前のほうはこれから私をいやというほど知ることになるんだよ。

私を試験するこの重苦しい期間を延ばすも縮めるもあなたのお気持ち次第なのです。もう私を苦しめるのはいい加減にして下さい

ではわかっていらっしゃらないのね、こんな無理をしているのは私だって苦しいことに変りはないのよ。
私の妻になって下さい。滅相もないわ、ゼヴェリーン。あなたは私の夫という柄ではありません

本音を言わなくてはいけないのですか、ワンダ?
そう、言うの。
本音を言えばまたあなたに悪用されるけど。

前よりあなたに骨がらみになってしまっている。あなたに邪険にされる度に、ますます狂信的にあなたを尊敬し崇拝するようになる。つらく当たられるとあなたに火を点けられて血が騒ぐんです。官能がいっせいに陶酔させられるんです。

氏はドゥナーエフ夫人の奴隷としてグレゴールなる名を名乗り、夫人のいかなる願望をも無条件に充し、いかなる命にも服従し、女主人にたいするヘリ下りをもって遇し、その恩恵のいかなる徴候をも只ならぬ恩寵と見做すのでなくてはならない。ドゥナーエフ夫人はその奴隷をたとえいかに些細な過ちや失錯であろうと随意に処罰して差し支えないが、のみならず気分次第もしくは単なる気晴らしのためにすら好むがままに虐待し、もしその気なら殺しても一向に構わない。要するに、氏は夫人の無制限の所有物なのである。フォン・ドゥナーエフ夫人がその奴隷に自由を付与すべき暁には、ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー氏は、奴隷としてみずから体験もしくは忍辱した一切を忘却し、絶対に、いかなる事情の下においても、いかなる方法においても、復讐もしくは報復を意図してはならない。

何はさて今度こそようやくお前に本気で鞭をくらわせてやらなきゃね。お前が悪いことをしたかどうかは問題じゃない。こうしてやれば、へまをしたり、言うことをきかなかったり、刃向かったりしたら、どういうご褒美が頂けるかが身にしみて分かるだろうよ。
お待ち、いまに鞭の雨で犬のようにクンクン泣かせてあげるから。

一人の人間をいいようにおもちゃにするってのは、本当に面白いことだねえ。それもその男ってのが私を愛していて だって愛しているんだろ?ええ?おお!いまにずたずたにしてやるからね、一打ちする度に嬉しみが湧いてくるじゃないか。さあ、もっと体を丸めて、ほら、吠えるがいい、泣くがいい!私に情容赦を乞おうというならとんだお門ちがいさ。

跪いて、私の足にキスしなさい。

げに平手打ちは百の説法に勝るのではあるまいか。一発食った方が、物分りが早いのである。特に教えてくれるのが、肉づきの好い小さな女性の手である場合には
酷いことにあなたに虐待されればそれだけ、裏切られる度に、いよいよ気ちがいじみた愛をあなたに感じてしまうのです!おお、苦痛と愛のあまり、嫉妬のあまり、死んでしまいそうです。

でも、あなたを裏切ったことは一度もなくてよ、ゼヴェリーン

そんな酷い冗談はやめて下さい

天地神明にかけてこれだけは誓います。私はひたすらあなたのために、あなたの夢想を叶えてやるためだけに、あんなことをしたのよ

でもそのうち一人は崇拝者を受け入れましょうね。そうでないと中途半端なことになって、とどのつまり、それじゃ残酷に扱ってくれたことにならないとあなたに非難されそうですもの。

お前は私のお望みのものなのさ、人間なり、物なり、獣なりね

彼女のことを話題にするグループが三々五々にでき上る。だが一人として彼女の側からの注視を浴びる人間はいない

とこのとき、ふと従僕たちが彼の話をしているのが耳にとまる。
あれは男でもあれば女でもある人で、自分が美しいことを知っていて、そういう振舞いをする。日に四度か五度、派手好きの娼婦のようになまめかしい装いを替える。
パリでは最初女装をして現われた。すると殿方が恋文を持っていっせいに殺到した。歌の技でも色事熱心でもともに音に聞こえたイタリアの歌手が住居まで押し入ってきて、彼の前に跪いて、靡いてくれなければ死んでしまうからと脅迫した。
「残念ですねえ」にっこりと笑いながら彼は答えたのだった、「お気持ちを叶えてさし上げたいのは山々なのですが、あなたの死刑宣告は執行するほかありません。なぜって私は男なのですから」

奥さまにマントだ。と男の方が命じるが、彼とてむろん自分でマントを着せてやろうなどという気はさらさらない

男の氷のように冷やかなまなざしを浴びていると、私はまたしてもあの戦慄的な、死ぬほどの不安に捉えられる。この男が彼女を金縛りにし、眩惑し、制圧するのではあるまいかという予感、その野性的な男臭さにたいする羞恥、羨望、嫉妬の思いに捉えられるのである。
自分がまるでねじくれた卑小な人間のように思われるのではあるまいか!真に恥ずべきことは、私は彼を憎悪したいのに、憎悪することができないのである。それに何というめぐり合わせだろう、彼の方も押している従僕の群れのなかから選りに選ってこの私を見つけ出したのである。
彼が独特の高貴な身ごなしで頭を傾けて傍にくるように合図をする。すると私はあろうことかその目くばせに唯々諾々としたがっているのである。
「毛皮を脱がせてくれ」と彼が静かに命じる。
私は憤怒のあまり身体中がぶるぶるふるえている。しかし言われた通り命にしたがうのだ、奴隷のように従順に。

牝獅子は牡獅子を選んで一緒に暮らしていても、その牝獅子が別の牡に攻撃されますとね、牝獅子は静かに寝そべって戦いを見ているんです。そうして自分の夫が斃されても助けようとしません。平然として夫が敵の鉤爪で血まみれになるのを眺めていて、勝った方に、一番強い者について行く。これが女の性質というものですね。

宵の明星が青い大気のなかに燃え立つ頃彼女が庭園を横切って行くのが見え、遠くからそっとつけて行くと、ヴィーナスの神殿のなかに入って行くのが目にとまった。忍び足であとを追って、扉の隙間からのぞき込んだ。
ワンダは祈るように手を組んで神々しい女神像の前に立っていた。愛の星の聖なる光が彼女の上に一条の青い光線を投げかけた。

悲しいわ。あなたのことがとっても悲しい。でもあなたを助けてあげることができないの。どう考えてもあなたを助けるお薬は見つからないの

あなたのなさっていることには強さがあって、その強さは尊敬するしかないの。もしもあなたが異常な環境に、つまり偉大な時代に生れ合わせたとしたら、いまあなたの弱さと見えているものを奇蹟的な力として開顕することになるのじゃないかしら

あの人から受けた印象がどんなものなのか自分でもわからないし、そのために私自身も苦しく身体中がふるえているの。詩人たちが書いているのを読んだことはあるし、お芝居の舞台では見たことがあるけれど、空想の産物とばかり思い込んでいた、そんな印象なの。ああ!あれは獅子のような男、強くて、美しくて、誇り高くて、それでいてやさしくて、北方の男たちのように粗野じゃない。あなたのことは悲しいわ、信じてね、ゼヴェリーン。でもあの人はどうあっても私のものにしなければ。いえ、何を言っているのかしら、私は?あの人がそうしろと言えば、こちらから身を捧げなければ

あの人がその気になって下されば あの人の妻になりたい
ワンダ!あの人の妻になりたいだって、ああ!私を離さないでおくれ!あの男はあなたなんか愛してはいないのだ。
誰からそんなことを聞いたの!あの人が私を愛してないと言うのね。いいわ、せいぜいそう信じて自身の慰みにでもするがいいわ(いいわ、それをせめてもの気休めにすることね)
お願いです、あなたは血も涙もない女なのですか!私と同じ血の通った人間じゃないのですか!
私は石でできた女、〈毛皮を着たヴィーナス〉、あなたの理想。さあ、跪いて、私を拝むがいい

それから私は浴槽の準備にとりかかったが、手足が思うように言うことをきかなくてヘマばかりした。美しい女は赤天鵞絨のクッションに身を横たえ、その愛らしい肉体がときおりちらりと黒い毛皮の間から輝き出たが、それを目にとめなければならない羽目になると というのもこれは私の意思ではなくて、磁気を帯びたある力が強制していたのだ。 その都度、その半裸の、きわどい裸身のなかにさえありとあらゆる肉感、あらゆる色気が宿っているのが如実に感じられるのだった。浴槽にようやく水が満されて、ワンダがたとえようのない身ごなしで毛皮を脱ぎ捨て、トリブーナの女神像さながらに目の前に立ったとき、その感情はいよいよ生彩を帯びた。この瞬間、一糸まとわぬ美となった彼女が私には大そう神々しく、大そう純潔なもののように思え、思わず私は朝の女神像の前でしたように彼女の前にぬかずいて、その足元に熱烈に唇を押しつけたほどであった。最前まで荒々しい高波となって波打っていた私の魂もいちどきに静かな流れと変り、ワンダはもはや私にとっていささかの残酷の陰さえともなわぬ存在であった。彼女はゆっくりと階段を降りて行った。私は露ほども苦悩や憧憬の混じり気のない、純粋に静謐な喜びとともに彼女が水晶のように澄んだあふれんばかりの水のなかに浮き沈みし、彼女自身の立てている波がいまはうっとりとその身のまわりに戯れているさまを眺めることができた。現代のニヒリズム美学者の言い分はたしかに肯綮に価する。すなわち物質の林檎は描いた林檎より美しく、生身の女は石像のヴィーナスより美しいのである。浴槽を出て、銀の滴と薔薇色の光がその身体にまつわりながらさらさらと流れ落ちると 無言の恍惚が私を捉えた。

たまたま私の視線がすべって向いの壁際のどっしりとした鏡の上に落ちた。すると思わずあっと叫び声を上げた。というのもその金箔の額縁のなかには、絵のなかの人物のように私たちの姿が映っているのが見えたからである。そのイメージは息を呑むほど美しく、大そう奇妙で、大そう幻想的だった。それかあらぬか、その線も色彩も霧のように溶けうせてしまうのだと考えると、私は深い悲哀の念にとらわれたのである。「どうしたの?」とワンダが訊ねた。私は鏡を指さしてみせた。
「あら!本当にきれいだこと」と彼女は嘆声を上げて、「残念ね、この瞬間は絵には残しておけないのね」
「どうしてでしょう?」と私は問うた、「だってどんなに高名な芸術家だって、おのが絵筆であなたを永遠化してよろしいとお許しを得たら光栄に思うのにきまってるじゃありませんか?」
「この非凡な美しさが」と私は恍惚として打ち眺めながら言葉をつづけた、「この顔の素晴しい作り、緑の火に燃えるこの妖しい眼、魔霊じみた髪、肉体のこの豪奢が、やがて地上から消えてしまう運命にあると思うと、愕然とします。 そんな考えが、死だの、破壊だののありとあらゆる忌まわしい戦慄感と一緒になって襲ってくる。でも芸術家の手はそんな考えからあなたを奪還してみせるでしょう。あなたはわれわれとはちがって、永遠に、まるで没落とは無縁にご自分の存在の痕跡を残して行ける人だ。 あなたご自身がとうに塵と砕けていても、あなたの肖像は生きているにちがいない。あなたの美は死を立ち越えて凱歌を上げるにちがいないのです!」
ワンダはにっこりと笑った。
「残念ながら、いまのイタリアにはティツィアーノもラファエルもいないわ」と彼女は言った、「そうは言ってももしかすると愛が天才の代役をつとめることもあるかもしれない。そうだわ、あのドイツ人の三流画家はどうかしら?」と考え込んだ。
「そう あの人に描かせてみることだわ そうして愛神があの人にその色を混ぜてやるよ
うに、私が接配してやればいい」

さんさんたる日光の輝く冬の日である。木立の葉叢も、牧草地の緑の面も、黄金のようにふるえている。
回廊の軒下の椿の花が花蕾の飾りをいっぱいにつけて弾けていた。ワンダは歩廊のなかに腰を下ろしてデッサンを描いている。ドイツ人画家の方はしかしそのワンダの真向かいに立って両手を祈るように組んで、彼女の方を眺めやっている。いや、彼女の顔を食い入るように凝視し、魂を奪われたかのようにその姿にすっかり溺れきっているのである。

奥方さま!私は狂人のようにあなたを愛してまいりました。これまでに一人の男が一人の女にかくまで身を捧げたことはないほどあなたに身も心も捧げつくしてまいりました。それなのにあなたは、私の最も神聖な感情を悪用して、私を破廉恥な桃色遊戯の玩具にされたのです。あなたが残酷で無慈悲であるだけなら、まだ愛していることができましたものを、いまやあなたは卑俗になろうとされている。私はもはやあなたの足に踏みにじられ、鞭で打たれる奴隷ではありません。あなたご自身が私を自由にして下さったのです。私は憎悪と侮辱の対象でしかない女のもとを去ります

私は大声を上げて笑いながら水のなかにすべり込む―だがその瞬間、私は黄色い河波の上に垂れている一本のしだれ柳の枝にしがみついている 目の前に私をこんなにみじめにした
女の姿がまざまざと見えたのである。彼女は太陽にくまなく照らし出された水鏡の上を透明体のように漂って行く。顔と頸のまわりには赤い髪。そして私の方にその顔を向けてにっこりと微笑むのである。

忌み嫌いながらも同時に崇拝している女のところへ

ご主人様を見つけたのよ。女には主人が必要なのよ。そうして主人を崇めたてまつりたいの
それであの人を崇めまつっているわけだね、ワンダ。あの粗野な男を
あの人を愛しています。いままでこれほど愛したことがないほど
私は拳を丸めた。だが、はやくも眼には涙があふれ、情熱の陶酔、甘い狂気に捉えられているのだった。ではあの男を選び給え。私はあなたの奴隷でいたいのだ
そうなっても私の奴隷でいたいのかい?それはさぞかし刺戟的だろうねえ。でもあの人が我慢していられるかしら

彼が我慢する?

そうよ、いまだってあなたに嫉妬しているんだから。

このときはじめて私はハイデの高貴な、ほとんどヨーロッパ風の顔立ち、見事な、黒大理石で彫り上げたような、彫像のような胸に気がついたのである。美しい女悪魔は私がハイデに気があると見てとると、歯を剥いて冷笑し、ハイデが部屋を退出するやたちまち怒りに燃えて跳び上がる。
おや、よくもまあ私の前で他の女に色目を使ったね!ハイデの方が私よりお前さんの好みというわけか。彼女はもっとも魔霊じみてるものね。
青天の霹靂で、私はこんな彼女を見たことがなかった。突然唇まで真蒼になって、身体中をがたがた震わせているのである。毛皮を着たヴィーナスが自分の奴隷たちに嫉妬しているのだ。彼女は掛釘から鞭を外すと、私の顔面に発止と打ち込み、それから黒い下女どもを呼びつけて、私を彼女たちに縛り上げさせると地下室に引きずって行くように命じる。すると黒人女たちは、そこの暗い、じめじめした地下の穴蔵、まぎれもない地下牢に私を放り込むのである。それから扉の錠前が閉まり、閂ががちゃりと掛けられ、錠前に鍵の回る音がする。私は囚われの身、生きながら葬られた人間である。私はいまそこに横になっている。どのくらい時間が経ったのか分からない。屠殺場の俎の上に引きずってこられた仔牛のように縛められて、じめじめした藁の束の上に、灯もなく、食う物も水もなく、眠りの安らぎもない
彼女が全権を握って、私を餓死させようとしている。その前に凍え死にしなければの話だが。寒気に身体中ががたがた震えている。それとも熱があるのか。どうやら私はあの女を本気で憎悪しはじめているようだ。

そんなことをするのも、あなたを刺戟するためなのよ。あなたを失わないためには、崇拝者を持たなくてはならないわ。あなたを失いたくないの、絶対にいや、ねえ、だって私が愛してるのはあなただけなのですもの、あなた一人だけ

このとき細身の癪の強そうな黒馬に乗った一人の若い男がこちらをさして一散に走ってくる。男はワンダを見ると、馬を御して並足であゆませ 間近まできていたので 馬足をとめて彼女をやりすごさせる。すると彼女の方もいまや男をじっと注視していて さながら牝獅子と牡獅子の番いである。二人の目がかち合い 彼女は男の前を通りがてらに、その魔力から逃れ切れずに思わず男の方へと首をめぐらせる。なかばは驚愕に打たれ、なかばは恍惚としたまなざしで彼女はうっとりと相手に見とれていたが、そのさまを見て私は心臓のとまる思いである。実際、この男にはそんなまなざしが似つかわしいのだ。
掛け値なしに美少年である、いや、それ以上である。彼はこれまでに生きている人間としては見たこともないような男なのである。ベルヴェデーレになら彼はその引きしまった鉄の筋骨、その面立ち、その吹きなびく捲毛ともども、大理石像に刻まれて安置されている。そもそもこの男をかくも美しくしているのは、髭を生やしていないという点なのである。もうひとまわり腰が細身だったら、男装の女と見間違われかねなかったであろう。しかも口のまわり、ちらりと歯並みをのぞかせて美しい顔に刹那的にやや残酷の影を帯びさせる獅子の唇のまわりには、奇妙な表情をたたえていて アポローンである。マルシーアスの皮を剥ぐアポローンだ。深目の黒い長靴をはいている。身体の線にぴったりとあったズボンは白革製、イタリアの騎兵将校の着ているような、アストラカンの襟に縫いとりのふんだんについた黒い布地の短か目の毛皮乗馬着姿、黒い捲毛には赤いトルコ帽をいただいている。私は今日はじめて男のエロティシズムというものがわかった。こんなアルキビアデスを目のあたりにして心を乱さなかったソクラテスが不思議でならない。
わが牝獅子がこれほど興奮しているさまをみたのははじめてである。別荘の階段の前で馬車からとび降り、階段をかけ昇ると、命令調の合図で私についてくるように言いながら、頬を上気させているのだった。
歩調も大股に部屋のなかをせかせかと右往左往しながら焦立たしげに口を切ったが、そのあわだたしさに私はびっくりした。
「カスチーネにいたあの男が何者か、すぐに、今日中に聞いておいで。 ああ!なんという男だろう!お前、見たかい?どうお思い?言ってごらん」
「美しい男です」私はくぐもった声で答えた。
「すごい美青年 」言いかけて、彼女は安楽椅子の背に身を支えた 「息がとまるかと思ったわ」
「あなたがどんな印象を受けたか、私にも分かります」と私は返事をする。あらぬ思いのあまりまたしても荒々しい渦のなかに巻き込まれて 「私自身もわれを忘れてしまいました。こんな想像をしかねないほどで」
「こんな想像だね」と彼女は大きく笑って、「あの男が私の愛人で、お前があの男に鞭打たれる。しかもあの男に鞭打たれるのがお前には快楽なのさ。さあ、行くがいい、さっさと行っておいで」
日が落ちる前に男に関する情報を持ち帰った。戻ってくると、ワンダはまだ盛装したままで、寝椅子に横になっていた。顔を両手の間に埋め、赤い獅子の鬣のように髪を乱している。
「なんというお名前なの?」彼女は不気味な平静さで問いかけた。
「アレクシス・パパドポリス」
「ではギリシア人ね」
私はうなずいた。
「若いんでしょう?」
「あなたよりすこし齢上かどうか。聞くところによると、パリで教育を受けたとかで、無神論者だと言います。カンディアで対トルコ軍戦争に参加しましたが、同地では勇猛果敢もさることながら、極端な人種差別主義と残酷さにかけて人並み外れていたということです」
「だから要するに男なのよ」彼女は火花を散らすような眼をして叫んだ。
「目下のところはフィレンツェに住んでいます」と私はつづけた、「途方もない金持ちだとか 」
「そんなことは訊ねていません」咄嗟に辛辣に私の言葉に切り込んできた。
「あの男は危険だわ。お前、あの男がこわくないかい?私はこわい。結婚はしているの?」
「いいえ」
「愛人は?」
「いません」
「劇場はどこへ行くの?」
「今夜はニコリーニ劇場にいます。ニコリーニ劇場の演し物は、イタリア現存の、いやヨーロッパ第一級の芸術家、天才ヴァージニア・マリーニとサルヴィーニの芝居です」
「いいかい、仕切り棧敷を一つとるのよ 早く!早くったら!」と彼女は命令した。
「ですが、ご主人様 」
「鞭をくらいたいのかい?」
「お前は平土間で待っていなさい」オペラグラスと演目のチラシを仕切り棧敷の手すりに置いて、いましも足台の位置を加減しようとしていると、彼女が言った。
そこで私は立ち上がって壁に背をあずけ、嫉妬と憤りのあまり いや、憤りという言葉はこの際適切ではない、死ぬほどの不安のあまり、崩れ落ちそうになるのをもたせなければならない。
見れば、仕切り棧敷の彼女は青い波形模様の服に露わな肩を大きな白貂のマントで包み、その真向かいにあの男がいるのである。二人が相互に眼をからませているのが見える。今夜の二人には、舞台も、ゴルドーニの『パメーラ』も、サルヴィーニも、マリーニも、観衆も、いや世界すらもが奈落の底に沈んでいるのがまざまざと見てとれ そして私はといえば、この私は一体いま何者なのだろう?

私は庭に立ったままこの哀れなドイツ人に心から同情して見送った。毛皮を着たヴィーナスが男の魂をその赤毛の罠に捕らえてしまったのだ。彼はヴィーナスの肖像を描きながら発狂してしまうだろう。
ワンダはしかし見向きもしない。私はといえば、彼女の姿を見、彼女の側にいるという音楽のような、詩のような魔力を及ぼす効果を感じとるために、ただそれだけのために鋤を手にして花壇の土を掘り返しているのだが、その私の方も見ていない。
ワンダに訊ねる。「あの画家を愛しているのですか、ご主人さま?」
彼女は私の顔を見るが、怒っている様子はない。首をふって、しまいには微笑みさえ浮かべている。
「あの人を可哀想だとは思っているわ」と彼女は答える、「でも愛していません。私は誰も愛してはいないわ。あなたを愛していたことはあるわ、心から、とても情熱的に、私が愛せる深みの最後までね。でも、もうあなたも愛していない。私の心はすさんで死んでしまった。そしてそれが恐ろしくてならないの」
「私はあなたをかぎりなく愛してきたし、あなたの夢想を満足させるために暴君のように振る舞っていたわ。いまも私の胸のなかではあなたにたいする心からの思いやりに似たあの甘い感情がふるえています。この思いも消えてしまったら、私はあなたを自由にするかしら。本気で残酷に、無慈悲に、いいえ凶暴に当るのじゃないかしら。私を偶像のように崇めたてまつっている男を苦しめたり、拷問にかけたり、私への愛のために死んでしまうのを目のあたりにしたり、しかしそれでいて私は平気でいるか、それとも他の男を愛している、そんなのが悪魔じみた快楽になってくるのじゃないかしら?そうならないとは誰も保証できないのよ。よく考えるのね!」
「そんなことはみんなもうずっと考え尽くしてるんです」と私は熱にうかされたように答えた、「あなたなしにはいられない、生きてはいられないんです。自由を与えられたら死んでしまいます。どうか奴隷のままにしておいて下さい、殺して下さい。でも後世だから突き放さないで」
「ふん、それなら奴隷でおいで」と彼女は答えた、「でも忘れるんじゃないよ。私はもうお前を愛してないんだからね。だからお前の愛も私には大して価値はないんだよ。犬ころと同じさ。犬なら足蹴にするものだからね」

画家はすっかり顔面蒼白になっていた。彼はその美しい、熱にうかされたような青い眼でこの光景をむさぼるように眺めた。唇は大きく開いたままとなり、だが依然として声も出ないでいた。
「どう、この図はお気に召して?」
「ええ これで描きましょう」ドイツ人は言ったが、その言葉はそもそも言葉というようなものではなくて、言葉の体裁をした溜息、瀕死の病を病んだ魂の泣き声だった。木炭によるデッサンが仕上がる。頭部、肉の部分の輪郭がきまり、彼女の悪魔的な顔立ちが数タッチの大胆な線のなかに浮かび上がり、緑の眼のなかに生命がきらめく。ワンダは、胸の上に腕を組んで、カンヴァスの前に立っている。
「この絵は、ヴェネツィア派の多くの画家がそうしたように、同時に肖像画であって歴史物語であるようにしたいと思います」と画家が説明する。彼はまたしても死人のように蒼ざめている。
「で、どんな題をおつけになるの?」彼女が訊ねた、「でもどうなさったの、あなたは病気なの?」
「ええ」ドイツ人は突然気が狂ったように絶叫した、「どうか私のことも鞭で打ってください」
「いいですとも!よろこんで」と彼女は肩をふるわせながら答える、「でも鞭をくれとおっしゃる以上、本気で打ちたいわ」
「死ぬほど鞭打って下さい」と画家が叫ぶ。「じゃあ縛らせて下さる?」にっこりと笑いながら彼女が訊ねる。
「はい」 画家が呻く

「あの男に喋ってしまったのですね」私は固い表情で言った。
「何もかも洗いざらい話してしまったわ」と彼女は答えた、「私たちのなれそめからこれまでのことは全部、あなたの奇妙な癖も、何もかも 笑うかと思ったらそうではなくて 額に青筋を立て地団駄を踏んだわ」
「それであなたを打とうとしたんですね?」
ワンダは眼を伏せて押し黙った。
「そう、そうだ」私は嘲笑うような辛辣さをこめて言った、「あの男が怖いんでしょう、ワンダ!」私は彼女の足元にひれ伏して、興奮してその膝を抱きしめた「私があなたに望んでいるのは、いつまでもお傍近くに置いてもらうこと、あなたの奴隷でいること、それだけなのです! あなたの犬になりたいのです」
「ねえ、わかってるでしょう、あなたには飽きあきしたのよ?」ワンダはどこ吹く風とばかりに言った。
私は飛び上がった。胸のなかで何もかもが一緒くたに煮えくり返っていた。
「あなたはもう残酷じゃない、いまのあなたは卑俗だ!」一語一語、突き刺すように手きびしい調子を込めて私は言った。
「そのことならお手紙にも書いてあるわね」

奥方さま!私は狂人のようにあなたを愛してまいりました。これまでに一人の男が一人の女にかくまで身を捧げたことはないほどあなたに身も心も捧げつくしてまいりました。それなのにあなたは、私の最も神聖な感情を悪用して、私を破廉恥な桃色遊戯の玩具にされたのです。あなたが残酷で無慈悲であるだけなら、まだ愛していることができましたものを、いまやあなたは卑俗になろうとされている。私はもはやあなたの足に踏みにじられ、鞭で打たれる奴隷ではありません。あなたご自身が私を自由にして下さったのです。私は憎悪と侮辱の対象でしかない女のもとを去ります
ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー

ワンダは尊大に肩をすくめる身振りをしながら答えた、「機知のある男が同じ文句を二度くり返すものではなくてよ」
「なんという仕打ちをするのだろう、あなたという人は!」私は爆発した、「こんな仕打ちはどう言ったらいいのだ?」
「お仕置きをしてあげようか」彼女は嘲るように応じた、「でも今度だけは鞭で打つかわり何故だかわけを話して答えてやることにするわ。あなたが私に泣きつく権利なんかないわ。あなたにたいしてはいつだって率直に胸のうちを見せてきたのじゃないかしら?何度となく警告したんじゃなかったこと?私はあなたを心から、いいえ情熱のありたけをこめて愛してこなかったこと?私に身を捧げ、私の前でへり下るのは危険だと、私のほうこそが支配されたがっているのだと、はっきり申し上げたのじゃなくって?それなのにあなたは私の玩具に、奴隷になりたがった!あなたが高慢で残酷な女の足を、鞭を、身に受けることに最高の快楽を見い出したのよ。それでいまは何がお望み?
私のなかにだって危険(卑俗)な素質がまどろんではいました。でもその寝た子をはじめて起こしたのはあなたよ。いまではあなたを苦しめ(愛し)、虐待する(人間として接する)のが楽しみになっているけど、それだってあなたのせいじゃないの。私をいまのような女(男)にしたのはあなたなのよ。それでいていまさら私のことを四の五のあげつらうなんて、女々しいも、弱々しいも、みじめもいいところね」
「そう、私のせいです」と私は言った、「でもそのかわり私の方はたっぷり苦しみを味わいましたね?でももうたくさんです、残酷ごっこはやめにして下さい」
「私だってやめにしたいわ」と彼女は応じたが、目つきは妙にいかがわしくて贋物だった!
「ワンダ!」私ははげしく叫んだ、「あんまり極端なところまで私を追いつめないでくれ。おわかりだろうが、私はまた男に還ったのだから」
「藁火よね」と彼女は答えた、「一瞬そうぞうしい音を立てて、燃え上がるのも早いけど消えるのも早いの。私を嚇しているおつもりらしいけど、私に言わせればそんなのは墳飯物だわ。あなたが、はじめ私の思った通りの、真剣で思慮深い、きびしい男だったら、私はあなたを忠実に愛したでしょう。あなたの妻になったでしょう。女は自分が仰ぎ見ることのできるような男を求めるものよ。自分から自分の首を あなたのように 足で踏んづけて下さいとばかり差し出してくるような男は、おあつらえ向きの玩具として使ってから、飽きがきたら放り出すのよ」
「放り出せるものなら放り出してみなさい」私は嘲るように言った、「危険な玩具というのがあるんだよ」
「挑発ならよした方がいいわね」ワンダは叫んだ。眼がキラキラと輝きはじめ、頬は紅潮していた。
「私があなたをじぶんのものにするのがいけないというのなら」と私はこみあげる怒気に咽喉をつまらせた声で言葉をつづけた、「私以外の男だってあなたを自分のものにしてはいけないはずだ」
「その台詞はどこのお芝居の場面から取ったのさ」と彼女はせせら笑ってから私の胸ぐらをつかんだ。この瞬間、憤怒のあまり彼女の顔はすっかり蒼ざめていた。「私を挑発しない方がいいことよ」と彼女はつづけた。「私は残酷な女じゃない。でもどこまで行ってしまうのか、そうして限界があるのか自分でもわからないんだから」↔「あんまり極端なところまで私を追いつめないでくれ。おわかりだろうが、私はまた男に還ったのだから」
「あの男を愛人に、夫にすることほど私を怒らせる話があるだろうか?」そう私は考えたが、怒りはいよいよ燃えつのるばかりだった。「あの男の奴隷にしてやったって構わないんだよ」彼女は咄嗟に応じて、「生かすも殺すも私次第だったわね?契約書があるんじゃなかった?でもむろん、私がお前を縛らせて、あの男に
〈さあ、好き放題にこいつを料理して下さいな〉
と言ったら、お前にはそれがお娯しみになるだけだわね」
「きさま、狂ったな!」私は絶叫した。
「私はごく理性的よ」、彼女は平然として言った、「これが最後の警告です。私にさからうのはよした方がいいわよ。もうここまできてしまったのだから、これから先は簡単に行けるのよ。私はお前に一種の憎悪を感じてるの。お前があの人に鞭で打たれるところを見られたら、しんから楽しめると思うわ。でもまだ羽目は外しません、まだ 」
私のほうが自制がきかなかった。彼女の手首を鷲づかみにすると、ぐいとばかりに地面に引き倒したので、ちょうど私の前に彼女が膝をつくような恰好になった。
「ゼヴェリーン!」彼女は叫んだ。その顔には怒りと驚愕がくっきりと描かれていた。
「やつの女房になったら殺してやる」と嚇したがその声はしゃがれてにぶく私の胸のなかから出てきたのだった、「あなたは私のものだ。離しはしない。私は愛しすぎているのだ」そう言いながら彼女にしがみついてわれとわが胸にしっかりと押さえつけ、右手でまだ腰帯にさしてあった短剣を無意識のうちにつかんでいた。
ワンダは大きな、平成な、不可解な視線を凝然と私に向けた。
「こんなあなたが好きよ」彼女は平然として言った、「いまのあなたは男ね。いまといういまあなたをまだ愛してるのがわかったわ」
「ワンダ」 驚愕のあまり涙があふれ、私は彼女の上に身をかがめて、その愛らしい顔にキスの雨を降らせた。

画家はゆっくりと描き上げて行く。それだけ彼の情熱の方はすみやかに増大して行くのである。この男は描き上がったところでひょっとして自殺するのではなかろうか。彼女は画家と戯れながら謎を掛けている。彼はその謎が解けず、血がしたたり落ちて行くのを感じている。 だがそれを見ながら彼女は楽しんでいるのだ。
すわっている間彼女はボンボンをつまみ食いしている。紙の皮から小さなボンボンの玉をひねり出して、画家にそれをぶつけている。
「あなたのご機嫌のよろしいのは慶賀に耐えません、奥さま」と画家は言う、「しかしあなたのお顔は、私の絵の必要とする例の表情とはすっかりちがってしまっています」

すると彼女は突然けたたましく、いかにも可笑しそうに、どっと笑い崩れて こう叫ぶのだった、「もうあなたの理想も食傷気味でしょう。これで満足ね?」
「何だって?」 私は口ごもった 「本気じゃなかったのか」
「本気ですとも」彼女は晴れやかな声でつづけた、「あなたが大好きだというのは、あなただけを愛しているというのは、本気よ。あなたは この小さな、お人好しのお馬鹿さんは、何もかも茶番とお芝居なのに気がついてなかったのね どんなに辛かったでしょう、あなたに一打ち鞭をくれるたびに、本当はその頭をかき抱いてキスを浴びせてあげたかった。でももうたくさんでしょう?私はご期待以上に立派に残酷な女の役をやり遂げたわ。でもいまは、小さな、お人好しの、賢くてちょっぴり美人の奥方を持って、あなたはご満足 でしょう? 二人してきちんとした暮らしをして行きましょうね、そうして」
「あなたが妻になってくれるって!」私はあふれるような歓喜のうちに叫んだ。
「そうよ あなたの奥さまに ねえ、愛しい、大切な旦那さま」ワンダは私の両手にキスをしながら囁いた。私は彼女を胸に引き寄せた。
「これでいいの、あなたはクレゴールじゃない、奴隷じゃないの」と彼女は言った。「また私の愛しいゼヴェリーンに、私の夫に還ったのよ」
「あの男は? 彼を愛してるんじゃないのか?」私は興奮した口調で訊ねた。
「どうしてそんなことが信じられるのかしら、私があの粗暴な男を愛しているだなんて だけどあなたは目がくらんでいたのだったわね 私はあなたのことが心配で」
「もう少しであなたのために自殺するところだったのに」
「本当に?」と彼女は叫んだ、「ああ!あなたがアルノー河に入って行ったことを思い出すと、いまだに身震いがする」
「でもあなたのお蔭で命拾いした」と私はなごやかに応じた、「水面にあなたの顔が浮かんで笑っていた。あなたの微笑みで生の岸に呼び戻されたんです」

私は今彼女を腕に抱き、彼女は黙って私の胸に憩うてキスを受けながら微笑んでいるのだが、こうして私が持つのは一種奇妙な感情である。あたかも突然熱にうかされた妄想から目が醒めたか、それとも自分がいまにもあんぐりと呑み込もうとしてくる大波と一日中格闘して、ようやく陸に投げ出された難破人でもあるような感じなのである。

「でも絵の話をしましょう」
「そうね、絵の話をしましょう」
「私は愛の女神を思い浮かべているのです。オリュムポス山から一人の死すべき者たる男のところへ下ってきて、この近代の地上で寒さに凍えながら大きな黒い毛皮に神々しい肉体を包んで、その足を愛する男の胸のなかで温めようとしている愛の女神です。私の念頭にあるのは、奴隷にキスするのに飽いたら鞭をくれ、奴隷を足元に踏みにじればそれだけ狂気のように愛される女暴君のペットの図です。ですからこの絵の題は〈毛皮を着たヴィーナス〉となりましょう」

「毛皮のジャケットを着てくれないか」と私は言った、「お願いだから」
「そのくらいのサーヴィスならお安い御用よ」彼女は答えて、カツァバイカを取ってくると、にっこりと笑ってこれを着た。それから胸の上で腕を組んで私の目の前に立ちはだかり、目をほそめてとっくりと私を打ち眺めるのだった。
「ディオニシウス帝の牡牛の話をご存知かしら?」と彼女が問うた。
「こまかいことは覚えていない。どういうんだっけ?」
「このシラクサの暴君のために一人の延臣が新しい拷問道具を考え出したの。鉄の牡牛よ。死刑囚を鉄製の牡牛の中に閉じ込めて、ものすごい火の中に入れてやるの。
鉄の牡牛が真っ赤に灼けると、なかの囚人が苦しいから大声を上げる。するとその苦悶の叫びがこだまして牡牛の吼えたけるような声に聞こえるのよ。
ディオニシウスは鉄の牡牛の発明家にねぎらいの微笑を送ったのだけれど、さっそくその発明品の効果を試してみたくなって、まず最初にこの発明家を鉄の牡牛のなかに放り込ませたの。この話はとても教訓的だわ。
私に我欲や傲慢や残酷さの好みを植え付けたのはあなただったわ。だからあなたがその最初の生贄になるべきなのよ。私はいま本当に、自分と同じように物を考え感じている一人の人間を、精神も肉体も私と同じように人並み外れて強壮な一人の男を、それも特に私を愛している男を、力ずくで支配し、虐待することがしんから面白くて面白くてたまらないの。あなた、私をまだ愛している?」

いま彼女は画家と差し向かいですわっている。画家は彼女の頭を描いているところだ。私は彼女のはからいで隣室のどっしりとしたドア・カーテンの蔭にはべっている。ここからなら誰にも姿を見られず、それでいて一切が見えるのである。
何をする気なのだろうか。
画家が恐ろしくなっているのではないか?彼女はもう画家をしこたま狂わせてしまっている。それともこれが私にたいする新たな拷問となるのだろうか?膝ががくがくするような思いである。
二人は何やら話合っている。画家はひどく声をくぐもらせて、私にはほとんど何を言っているのやらわからない。彼女の応答のほうも同じである。これはどういうことなのだろう?二人の間には暗黙の了解があるのだろうか?
ひどく切ない気分である。心臓がいまにも破れそうになる。
画家はいまやワンダの前にぬかずき、抱きついて頭を彼女の胸に押しあてているが 彼女はといえば この残酷な女は 声を上げて笑っているのだ そしてようやく声高にこう叫んでいるのが耳に入る。
「ああ!また鞭がほしいんだね」
「恋しい人!女神よ!あなたには心というものがないのですか 愛するということがどういうことなのか、憧れに、情熱に身を灼くということがどういうことなのか、あなたはついぞご存知ないのですね。私が何を苦悩しているのか、想像も及ばないのではありますまいか?私への慈悲などこれっぽっちもお持ち合わせにならないのですね?」
「そうですとも!」彼女は傲然と嘲るように答えて、「でも鞭なら持ち合わせがあるわ」ワンダは毛皮の懐からすばやく鞭を取り出すと、柄ごと画家の顔面めがけて叩きつける。画家は立ち上って、数歩あと退さる。
「これで絵が描けるようになったでしょう?」とこともなげに彼女は問いかける。画家はそれには答えず、ふたたび画架の前に戻って絵筆とパレットを手に取る。

「このシラクサの暴君のために一人の延臣が新しい拷問道具を考え出したの。鉄の牡牛よ。死刑囚を鉄製の牡牛の中に閉じ込めて、ものすごい火の中に入れてやるの。
鉄の牡牛が真っ赤に灼けると、なかの囚人が苦しいから大声を上げる。するとその苦悶の叫びがこだまして牡牛の吼えたけるような声に聞こえるのよ。
ディオニシウスは鉄の牡牛の発明家にねぎらいの微笑を送ったのだけれど、さっそくその発明品の効果を試してみたくなって、まず最初にこの発明家を鉄の牡牛のなかに放り込ませたの。この話はとても教訓的だわ。
私に我欲や傲慢や残酷さの好みを植え付けたのはあなただったわ。だからあなたがその最初の生贄になるべきなのよ。私はいま本当に、自分と同じように物を考え感じている一人の人間を、精神も肉体も私と同じように人並み外れて強壮な一人の男を、それも特に私を愛している男を、力ずくで支配し、虐待することがしんから面白くて面白くてたまらないの。あなた、私をまだ愛している?」
「気が狂うほど!」と私は叫んだ。
「おお、ゼヴェリーン!」彼女はよろこばしげに叫んでとび上がると、私を胸に抱きしめる。それからあらためてふかぶかとしたクッションに腰を下ろして、私を身近に引き寄せる。私はしかし彼女の足元に身をすべらせて頭を相手の腿にあずけるのである。
「今日はあなたにすごくお熱なの、わかる?」彼女はそう囁いて、私の額の乱れた髪をかき上げながら眼の上にキスをした。
「あなたの眼は何て美しいの。その眼がいつも私のいちばんのお気に入りなのよ。だけど今日はまたその眼が文字通りとろけるような気分にさせてくれるわ。まいっちゃいそう」 彼女は見事な肢体を大きくひろげて、赤い睫毛の間からあまやかな目くばせを送るのだった。
「でもあなたは冷いのね。私を木偶の坊みたいに抱えてるだけで。待って、あなたもお熱にさせてあげるから!」彼女は叫ぶと、またもや頬を寄せてじゃれるように私の唇に武者ぶりついた。
「もう私じゃお気に召さないのね。あなたはそれに一瞬しか耐えられなくてよ。もう一度私が残酷になってあげないと駄目なのね。どうやら今日の私はあなたにやさしすぎたようね。ねえ、いいこと、お馬鹿さん、ちょっぴり鞭をあげましょうね」
「さあ、縛らせてね」と彼女はつづけ、ふいに立ち上って小躍りしながら部屋を横切った、「あなたが夢中になっているところが見たいのよ、いいでしょう?ほら、縄よ。私まだ縛り方を覚えてるかしら?」
両足を縛るのからはじめた。それから両手もきつく背中に縛り上げ、最後に囚人を縛るように腕に縛をかけた。
「これでいいわ」彼女はしんからうれしそうに言った、「もう動けないでしょう?」
「なんだか処刑されているみたいな気がする」私は小声で言った。
「今日はひとつ本格的に鞭を打ってあげるからね!」とワンダが叫んだ。
この瞬間、私はまたしても情熱のはちきれんばかりのファナティシズム(熱狂)に捉えられていた。
「ところで、鞭はどこ?」と私は訊ねた。
ワンダは大声で笑って、二歩後退った。
「じゃあどうしても鞭をいただきたいのね?」頭を尊大に頸のほうにかしげるようにして彼女は叫んだ。
「そうとも」
咄嗟にワンダの形相はすっかり変わってしまっていた。怒りに歪められたようだった。ふと私は、彼女が醜いとさえ思ったほどである。
「では、こいつに鞭をくらわせて!」彼女が大声を上げた。
するとこのとき、天蓋つきのベッドの帳のかげから、あの美しいギリシア人が黒い捲毛の頭をぬっと突き出したのである。私ははじめ言葉をうしなって呆然としていた。状況はおそろしく珍妙であった。この状況が私にとって絶望的に悲痛であると同時に恥辱的でもあるのでなかったとしたら、私自身が腹を抱えて笑いころげていたことだろう。
事態は私の想像力の手には余った。乗馬靴の細身の白ズボンをはき、きっちりとした天鵞絨の上着を着込んだわが恋敵が現れ出てきて、その運動選手のような四肢を目にとめたとき、思わず背筋にぞっと冷たいものが走った。
「あなたは本当に残酷なのだね」ギリシア人がワンダをふり向いてそう言った。
「享楽好きなだけよ」ワンダは野卑な諧謔の調子をこめて応じた、「人生を価値あるものにするのは享楽だけよ。快楽を享受する人間は生を別離するのが辛いわ。苦悩や窮乏を味わった人間は死を友のように歓迎するわ。でも快楽を味わおうとする人間なら、古代人が言っているような意味で晴れやかに生きぬかなければね。他人を犠牲にして贅沢三昧に耽ることを懼れていては駄目。慈悲心はご法度。自分以外の人間は家畜のように馬車につなげ、鍬につなげてやるのでなければいけないわ。自分と同じように感じたり快楽を味わいたいと思っている人間どもを自分の奴隷にし、自分のご都合通りに、自分の嬉しみに利用して、一切悪びれないことね。そうなったら彼らがどうなるかとか、もしかしたら死んでしまうかもしれないとか、そんなことはどうでもいいの。快楽を味わおうと思う人間がいつも見きわめていなければならないのはね、向うの方が上手に立ったときには、こちらが連中にやっているのと同じことをそっくりそのまま連中がこちらにやるにちがいないということ、彼らのお嬉しみの代償をこちらが血と汗と心のありたけを流して支払わなければならない羽目になるということなの。古代人の世界がそうでした。享楽と残酷、自由と奴隷制は、とうの昔から手に手をとって歩いていたのよ。オリュムポスの神々さながらに生きようとする人間なら、魚の餌食に生贄を投げ込んでやる奴隷を持っていなければなりません。山海の珍味を盛り上げた饗宴のさなかに死闘を演じさせる剣闘士を飼い、闘技の最中にいくらか血がはね返ってもどこ吹く風という顔をしているようでなければならないわ」
彼女の言葉で私は完全に正気をとり戻した
「縄をほどいてくれ!」私は激昂して叫んだ。
「誰にも聞こえやしないわよ」
「救けを呼ぶぞ」
「お前はたしか私の奴隷、私の持物じゃないのかい?」とワンダは応じて、「お前の神聖な感情をまたまた悪用して、お前を桃色遊戯の玩具にしてやるのを、邪魔立てしてくれる人は誰もいないのさ」彼女にあてた手紙の文句を悪魔的な嘲笑もろともにそっくり復唱しながらそう言うのだった。
「いまのいま、この私が単に残酷で無慈悲な女とお思いかい、それともいまや卑俗になりつつあるとお思いかい?どう?私をまだ愛してるのかい、それとも憎んでとうに軽蔑しているのかい?はい、これが鞭」彼女はギリシア人に鞭を渡し、ギリシア人がすばやく近づいてきた。
「きさまにやられるのは絶対に我慢できん」
「毛皮を着てないからそんな気がするだけさ」ギリシア人は淫らな笑いを浮かべて答え、ベッドから自分の短か目の黒貂ジャケットを持ってきた。
「とっても素敵よ!」と叫んでワンダはギリシア人にキスをし、彼が毛皮を着るのを手伝った。
「本当にこいつに鞭を食わせていいのかい?」ギリシア人が訊ねた。
「あなたのお好きなように料理してね」ワンダが応じた。
ギリシア人は冷い獣のまなざしをじっと私の上に据えると鞭の具合いを試した。鞭をとって空に呻らせると、それにつれて筋肉がもりもりと隆起した。私はマルシーアスのように縛りつけられていた。そしてアポローンが私の生皮を剥ぎにかかろうとするのを坐視しているほかはないのであった。私は部屋のなかに視線をさまよわせ、天井画のところに眼をとめた。サムソンがデリラの足下でペリシテ人たちに眼をえぐられる場面である。その絵がいまの瞬間の私には一つの象徴のように見えた。情熱の、肉欲の、男の女にたいする愛の永遠の比喩である。「私たちの誰しもが最期はサムソンのようなものになるのだ」と私は考えた、「良くも悪しくも結局は自分の愛する女に裏切られる。愛する女が百姓着を着ていようが、毛皮を着ていようがだ」
「さあ、とくとご覧じろ」とギリシア人が叫んだ、「こいつをたっぷり調教してやりますからね」 ギリシア人は歯をむき出しにした。するとその顔は、初対面のときから私の恐怖をかき立てた、あの血に飢えたような表情を帯びた。それから彼は私を鞭で打ちはじめたのだがそのあまりの容赦のなさ、おそろしさに、私は一打ちごとにはげしく痙攣して、苦痛に身体中が打ちふるえはじめるほどだった。涙が頬を伝って流れさえした。 だがその間、ワンダは毛皮のジャケットを着て寝椅子に横になって頬杖をつき、残酷な好奇心も露わにこちらを眺めやっては、腹を抱えて笑いころげているのだった。
自分の愛慕している女の目の前で幸運な恋敵に虐待されているのだという感情は、筆舌に尽し難い。恥辱と絶望のあまり私は死にそうだった。
しかも恥ずべきことに、アポローンの鞭を浴び、わがヴィーナスの残酷な哄笑にさらされて、そんな悲惨な状態にありながら、はじめ私は一種の夢想的かつ超官能的な刺戟を感じていたのだった。だがアポローンの鞭は一打ち一打ちとしだいに私の詩的気分を越え、ついに私は失神するような憤怒のうちにぎりぎりと歯噛みをしながら、おのれの肉欲の妄念をも女や愛をも呪詛するにいたったのである。
このとき一挙に驚くべき明晰さで、盲目の情熱や肉欲がホロフェルネスやアガメムノン以来、いかに男を不実な女の投げかける袋のなか、網のなかへ、悲惨と卑屈と死の世界へ導いて行くかがまざまざと目に見えたのである。
ギリシア人の鞭に打たれてはやくも血が流れていた。私は踏みにじられた蛆虫のように身体を丸めていたが、ギリシア人はなおも容赦なく打ちつづけ、ワンダも容赦なく高笑いをしつづけていた。そしてそのまま荷作りしたトランクの鍵を閉め、毛皮の旅行マントを羽織ると、なおも笑いながらギリシア人の腕にもたれて階段を降りて馬車に乗り込んだ。
物音がはたととまった。
私は息をつめて耳を凝らした。
とこのとき、馬車の扉がばたんと閉り、馬が馬車を曳く気配がして なおしばらくの間車の轍の回る音が聞こえていたが やがてすべてが消え去った。

一瞬、私は復讐してやろうと考えた。あの男を殺すのだ。しかし私はなんといってもあの不幸な契約書に縛られている身であった。だとすれば約束を守り、歯を食いしばっているよりほか、私に残されたすべはなかった。

わが生涯の残酷な破局が終ったあとにはじめて感じた気分は、 労苦や危険や欠乏への憧れだった。私は兵士になってアジアかアルジェリアへ行こうと考えた。だが、老いて病身の父に助けを求められたのである。そこで私は故郷に帰って、ひっそりと暮しながら父の右腕となって二年間あれこれ父のわずらわしい仕事を手伝い、財産を管理し、これまでに知らなかったことを学んだ。すなわち働き、義務を遂行することである。いまやさわやかな真水を飲んだように私は生き返った。 それから父が死に、私が領地管理人となったが、そのことで取り立てて何ごとかが変わったわけでもなかった。 私はスペイン風の長靴まではいて箔をつけ、すこぶる分別臭い生活をつづけた。 あたかもご先祖さまがうしろ立てになって、大きな老練な眼で肩越しに目を配っていたらそうなるでもあろうといった風の生き方だった。
ある日一通の手紙をそえた小包が届いた。ワンダの手蹟が読めた。
奇妙な感動を覚えて封を切ると私は手紙を読んだ。

「拝啓!
フィレンツェのあの夜から三年以上も月日が流れたいまとなっては、もう一度、あなたを愛していたと告白してもよかろうかと存じます。 しかるにあなたご自身が私の感情を、あなたの妄想めいた献身、気ちがいじみた情熱によって窒息させておしまいになったのでした。あなたが私の奴隷となった瞬間から、あなたがわが夫となる可能性はよもやあるまいと私は観念いたしました。ただ、あなたの理想を現実のものにしてやり、 あなたの病気を 私の方も結構娯しみながら――たぶん治してさし上げられれば、面白いだろうと思いついたのでした。
私は自分の必要とする強い男を見つけました。その男と暮し、この奇妙な地球という土塊の上で考えられるかぎりの生き方としてはまことに幸福でした。
けれども私の幸福は、人間の幸福というもののご多分に洩れず、ほんの束の間しかつづきませんでした。 彼は、 一年ほど前に、さる決闘に斃れ、それからというもの私はパリでアスパシアのような毎日を送っております。
あなたはいかが? 妄想の支配力が雲散霧消して、私をはじめのうちあれほど惹きつけていたあなた固有の性格、というのは、思考の明晰さや心の優しさや、とりわけ 道徳的な厳しさが前面に登場してきたいまとなっては、あなたの生活はさぞかし太陽の光をさんさんと浴びていることでしょう。
あなたは私の鞭の下で健康を恢復したのではないかと思います。療法は残酷だけれど徹底的だったのです。あの日々の、そしてあなたが愛した女の思い出のために、あの哀れなドイツ人画家の肖像をお送りします。
毛皮を着たヴィーナス」

私は微笑まざるを得なかった。そして追憶に沈むと、突然の美しい女が白貂の毛皮つきの天鵞絨ジャケットを着、手には鞭を持って目の前に立ち現われた。私はなおも微笑みを浮べていた。狂気のように愛した女、かつてあれほど私を恍惚とさせた毛皮のジャケット、鞭、最後には自分の苦痛にさえ微笑みを投げかけながらひとりごちた。療法は残酷だが徹底していた、大切なのは要するに、私が健康をとり戻したということなのだと。

「で、この話の教訓というのは何でしょう?」
「私が愚か者だったという話です」
「自然の手になる被造物で、げんに男が惹きつけられている女というものは、男の敵だということです。女は男の奴隷になるか暴君になるかのいずれかであって、絶対にともに肩を並べた朋輩とはなりえないのです。女が男の同行者になれるとすれば、女が権利において男と同等となり、教養も労働も男に匹敵するときがきてはじめて可能なのです。目下のところは、金槌になるか鉄床になるかの二つに一つしかありません。われから女の奴隷になるなどとは、愚か者もいいところでした。そうではありませんか?
ですからこの物語の教訓は、鞭を打たれる者は鞭を打たれるのにふさわしい人間でしかないということです。私の場合は、ご覧のように、打たれた結果が上首尾となったわけです。薔薇色の霧は散りうせました。もう二度と、ベナレスの聖なる猿やプラトンの雄鳥を神の写像と称して私に押しつけても欺かれはしないでしょう」

「これであなたの絵に必要な例の表情とやらになっているかしら?」と彼女が叫ぶ。画家はその眼の冷い光におそれをなしてか途方に暮れて目を伏せる。
出来栄えは奇跡的である。その光栄は私には舌筆に尽くせぬほど戦慄的な魅力にあふれていた。それは実物そっくりを狙う肖像画でありながら、同時に一つの理想とも化しているのだ。色彩は燃え上がるようで、超自然の気を帯び、ほとんど悪魔的と言いたくなるほどである。画家はまさしく彼の苦悩と愛慕と呪詛の思いをこの絵の中に描き込んでいるのである。

今度は私を描く番となり、画家と私とは毎日二人だけで数時間を一緒に過ごしている。今日彼は、独特のふるえ声で突然私の方にふり向いて言うのである。
「この女を愛しているのでしょう?」
「ええ」
「私も愛しています」画家の眼は涙に溢れていた。彼はしばらく口をつぐんでからまた絵を描きつづけた。
「故郷のドイツにあの女の住む山があります」やがて彼はひとりごとのように呟いた、「あの女は魔女だ」

絵が仕上った。ワンダが画家に絵の代金を払おうとする。女王さまが報酬をあたえるような尊大な態度である。
「いや!報酬ならとうに頂きました」画家はいたいたしい微笑みを浮かべながら拒むように言った。
立ち去る前に、彼はこっそりと紙挟みを開けて、なかを覗かせてくれた 私はぎょっとした。彼女の頭部が鏡のなかから見返しているように、いわば生写しになってこちらを見ているのであった。
「これは自分のとっておきです」と画家はいった、「私のものです。こればかりは彼女も取り上げられない。彼女のためのつらいご奉公もいやというほど勤めましたしね」

「あの哀れな絵描きさんがとても気の毒な気がしてならないの」と今日彼女は私に言った、「私があんなにおしとやかにしていたのは馬鹿げてるわ。そう思うでしょう?」
返事をするのはあえて控えた。
「あら、奴隷と話してるんだってことを忘れていたわ。外出しなけりゃならないのに、気が散っていて、あやうく忘れてしまうところ」
「さ、馬車を用意おし!」

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