ナインストーリーズ テディ

p251《テディ》
しかし、仕事を離れて休暇をとっているときの声は、単なる音量を楽しむときと、舞台もどきの静かで落ち着いた物言いを楽しむときと、この二つが交互に入れ替わるのが通例であった。

p224《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
二人の人物の衣服の乱れが写真のような克明さをもって描かれていて、実を言うと、この絵が持つ風刺的な意味よりもむしろそこに駆使されている職人的技術にわたしは感心した。

p61(ゾーイー)
遅くならないうちに言わせてもらうけれど、いま話しているこのゾーイーについて、互いに複合したというか、重複しているというか、一つのものが二つに分裂したというか、とにかく一括すべき一件書類みたいな格好の二つの記事を、ここに挿入するのが至当であろう。

p156 (ハプワース)
ぼくは何よりも、自分の書き言葉と話し言葉の大きなギャップに死ぬほどうんざりしているって!二種類の言葉を持っているということは、すごく気持ちが悪くて、不安なんだ。

p255 《テディ》
「そうらしいよ」と、テディは言った。「あの人ね、ぼくがそこに立ってるのに、スヴェンに向かってぼくのことをいっぱい話すんだ。ちょっとばかし閉口だったな」
「どうして閉口するの、そんなことに?」
テディは一瞬言いよどんだが「ちょっとばかしって言っただろう、ぼく。修飾語がついてるよ」

「坊ちゃん、ちょっと待って!あなたのお名前は?」
「シオドア・マカードル。あんたは?」
「あたし?」娘は微笑を浮かべて言った「あたしはマシューソン海軍少尉」
テディはホチキスを押す娘の手元を見守りながら「海軍少尉という事はわかってるさ」と、言った。「でも人に名前を訊かれたら、姓名の全体をいうのが本当じゃないのかな、よく分かんないけど。ジェーン・マシューソンとか、フィリス・マシューソンとかさ」
「あら、そうなの?」
「だから、じゃないのかなって言ったでしょう。よく分かんないんだ。軍服着てるときは違うのかもしれない。とにかく、教えてくださってありがとう。さよなら!」そう言うと彼は、くびすを返して遊歩申板に通じる階段を、相変わらず1度に二段ずつ上がって行った。しかし今度はむしろ、少し急ぐことがあってそうしてるような感じだった。

p256、257 《テディ》
テディは頭の大部分を引っ込めたが「ほんとにうまく浮いてるなあ」と、後ろを向き返らずに言った。「面白いよ、全く」
「テディ。これが最後だぞ。三つ数えるからな、そしたらおれは-」
「オレンジの皮が浮いてるのが面白いんじゃない」とテディは言った。「オレンジの皮があそこにあるのをぼくが知ってるってことが面白いんだ。もしもぼくがあれを見なかったらぼくはあれがあそこにあることを知らないわけだ。そしてもしもあれがあそこにあることを知らなければ、そもそもオレンジの皮ってものが存在するということさえ言えなくなるはずだ。こいつは絶好の、完璧な例えだな、物の存在を-」
「テディ」マカードル夫人がシーツの下で身動きの気配すらみせずに口をはさんだ「ブーバーを探しに行ってくれない?どこへ行ったの?あの子?あんなに日焼けしてるんだもの、今日もまた日差しの中でうろうろしてるんじゃよくないわ」
「ちゃんと体は包んでるよ。ぼくがオーバーロールを着せといたから」とテディは言った「もう沈み出した皮もあるぞ。あと3、4分もしたら、皮が浮いているのはぼくの頭の中だけになる。こいつは実に面白い。だって、ある見方からすれば、そもそもオレンジの皮が浮かぶというのはぼくの頭の中から始まったことだからだ。もしもぼくが最初からここに立っていなかったならば、あるいはぼくが立っているとこへ誰かが来て、ぼくの首をちょん切るようなことやったとすれば-」

p111 《笑い男》
そしてポケットから蜜柑を取り出して、それを空中に投げ上げながら歩いて行った。三塁のファウル・ラインの中ほどまで行ったあたりで私はくるりと向き返ると、メアリ・ハドソンをみつめ、蜜柑を握りしめながら、後ろ向きに歩きだした。

p97 (ゾーイー)
「とにかく、ほんとなんだから!父さんは、フラニーがへんだなんて、これっぽっちも考えていなさらないんだからね。本当にこれっぽっちもさ!昨夜も、11時のニュースがすんだすぐあとで、あたしに何て訊いたと思う?フラニーは蜜柑が好きだろうかね、ですって。あの子が何時間も寝たっきりで、叱れば目もつぶれるほとに泣いちゃうし、ぶつぶつぶつぶつ、何だか知らないけど、一人で呟いてるっていうのに、あんたのお父さんって人は、あの子は蜜柑が好きだろうかなんて言うんだからね。殺してやりたいくらいだったよ。今度あの人が-」グラース夫人は、言葉を切って、シャワーカーテンをにらんだ。「何がそんなにおかしいんですよ?」彼女は言った。
「なんにも。なんにも、なんにも、なんにも。ぼくは蜜柑が好きだよ。ところで、ほかにあんたの役に立たないのは誰かな?ぼく。レス。バディ。そのほかに誰?胸の中を洗いざらい言っちまえよ、べシー。遠慮することはない。そこがつまり、うちの連中の悪いところだ-みんな、胸の中にしまっておきすぎるんだ」

p260 《テディ》
テディは戸口のところでしばらく立ち止っていた。何か考えてるふうで、ドアの把手をゆっくりと右や左に回して試している。「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知ってる人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と、彼は言った「つまりオレンジの皮と同じことかもしれない」

p266〜271 《テディ》
マカードル一家の4つのデッキ・チェアは前から二つ目の列の中央で、クッションが置かれていつでも坐れるようになっていた。テディはその一つに腰を下ろしたが、意識してかせずにか、両隣が空席になるような位置を彼は選んだ。そして生白いむき出しの脚をのばし、
足掛けに両脚をそろえてのせると、ほとんど同時に右の尻のポケットから安物の小さな手帳を取り出し、取り出したと思う間もなくたちまち注意は手帳一つに吸収されて、彼とその手帳のほかには何もかも-日光も、船客も、船も-一切存在しないかのような様子でページをめくり始めた。
ごく稀に鉛筆で書いた例外もあるにはあったけれど、手帖の文句はほとんどが全部がボールペンで書かれている。書体そのものは昔のパーマー式(訳注オースチン・ノーマン・パーマーの考案になる華麗な書体)ではなくて、昨今アメリカの小学校で教えているブロック体、変に気取ったところがなくて読みやすい。それにしても淀みなく流れる感じが印象的な筆跡であった。そしてそこに書かれている言葉や文章、これは少なくとも機会的に考えた場合、どう見ても子供の手になるものとは思えなかった。
テディは1番最近書いたらしいところをかなりの時間をかけて読んでいた。3ページを少しばかり越えている-

1952年10月27日の日誌
所有者 シオドア・マカードル
Aデッキ412号室

この日記を発見せし者はただちにシオドア・マカードルに返却されたし。応分の謝礼を進呈す。

父の軍隊時代の認識表を探し出し、可能な時にはいつでも身につけられるよう配慮すること。身につけても死にはせぬし、父が喜ぶから。

機械と忍耐力があったらマンデル教授の手紙に返事を書くこと。これ以上誌の本を送らぬように要請すること。とにかく一年間は手元にあるので十分だ。とにかく詩なんてもううんざり。人が浜辺を歩いているところへ椰子の実が落ちてきて運悪く頭に命中する。運悪く頭は真っ二つにに割れちまう。すると男の妻が歌を歌いながら浜辺を歩いてきて、二つに割れた頭を見つけ、誰だか分かって拾い上げる。もちろん妻はひどく悲しんで胸も裂けんばかりに泣く。こういうところがまさに詩のうんざりなゆえんである。仮にその女が二つに割れた頭を拾い上げて、大いに腹を立てながらその頭に「こんな真似は止めて!」と、怒鳴るとしたら。しかし教授に返事を出すときこんなことを書いてはいけない。これは論争を誘発するおそれが多分にあるし、それにマンデル夫人は詩人である。

ニュージャージー州エリザベス市もどこか、スヴェンの住所を確かめること。彼の奥さんに会うのは興味がある。飼犬のリンディも同様。但し、自分で犬を飼うのは嫌だ。

ウォカワラ博士に腎炎の見舞状を書くこと。博士の新しい住所を母に訊くこと。

運動用申板で瞑想ができるかどうか、明朝食事前にためしてみること。但し、失神しないこと。それから食堂であの給仕がまたあの大きなスプーンを落っことしても失神しないこと。父が激怒するから。

明日図書室に本を返しに行ったとき次の語句を調べること-
腎炎
億劫
到来物の馬の口中は見るな
狡猾
三頭政治

図書室の人にもっとやさしくすること。先方からふざけかかってきたときは一般的な話題でかわすこと。

藪から棒にテディは、半ズボンの横のポケットから弾丸型の小さなボールペンをだすと、キャップを取り、椅子の肘掛を使わずに、右の腿を机にして書きだした。

1952年10月28日の日誌
届先及び謝礼については1952年10月26、27日の記載に同じ。

今朝、瞑想の後に次の人々に手紙を書いた。
ウォカワラ博士
マンデル教授
ピート教授
バージェス・ヘーク・ジュニア
ロバータ・ヘーク
サンフォード・ヘーク
ヘークお祖母さん
グレアム氏
ウォルトン教授

父の認識表がどこにあるか、母に訊いてもよいのだが。母はおそらくそんなもの身につけるには及ばぬと言うだろう。父が持って来ていることは分かっている。荷物に入れるのを見たのだから。

ぼくの考えによると人生とは到来物の馬だ

思うにウォルトン教授が父や母を批判したのは頗る悪趣味である。教授は人を特定の型にはめたがる。それは今日起こるか、またはぼくが16歳になる1958年2月14日に起こる。こんなことは口にするさえ愚劣である。

この最後の記入を終わってからもテディは、まだ先があるような様子で、ボールペンをかまえながらページを見つめていた。

p248 (キャッチャーインザライ)
僕はD・Bの机の上に腰を下ろすと、その上にのっかってる物を眺め回した。大部分はフィービーのもので、学校やなんかに関係した物ばかしだった。たいていは本だけどね。1番上のには「楽しい算数」と書いてあった。僕は1ページ目をちょっとあけてのぞいてみた。するとそこにはフィービーの字でこう書いてあった-

4B−1
フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド

これには僕もまいったね。彼女の真ん中の名前はジョゼフィンで、ウェザフィールドなんかじゃないんだ。ところが彼女、このジョゼフィンてのがきらいなんだよ。僕が見るたんびに、新しい名前を考え出して、この真ん中のとこを付けかえてんだ。
算数の下は地理の本で、地理の下は綴り字の本だった。フィービーは綴り字が得意なんだ。どの学課もよくできるんだけど、中でも綴り字が1番得意なんだ。それから、その綴り字の教科書の下にはノート・ブックが積み重ねてあった。フィービーはノート・ブックを五千冊ばかしも持ってんだ。あんなにたくさんノート・ブックを持ってる子供なんて見たことないだろうと思うよ。僕は1番上になってた奴を開いて、1ページ目をのぞいてみた。そこにはこう書いてあったね-

バーニス、休み時間に会いに来てね
だいじなだいじなお話があるんだから

そのページにはそれだけしか書いてない。次のページにはこう書いてあった。

なぜアラスカ東南部にはあんなに缶詰工場
が多いか?
鮭がたくさんとれるから。
なぜりっぱな森林があるか?
気候が適しているから。
わが国の政府はアラスカ・エスキモーの生活をらくにするためにどんなことをしてやったか?
明日調べること!!!
フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド フィービー・W・コールフィールド フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド殿
シャーリーへ回してちょうだい!!!
シャーリーあなた射手座だと言った
けどただの牡牛座じゃないのうちへ
いらっしゃるときあなたのスケートを持って来てね

僕はD・Bの机に腰をかけたまま、そのノート・ブックを始めからしまいまで読んだ。たいして時間はかからなかったけど、こんなものなら僕は、フィービーのでも誰のでも、子供のノート・ブックだったら、1日じゅう、夜までぶっ通してだって読んでいられるんだ。子供のノート・ブックって奴には弱いんだよ。それから僕は、また一本煙草に火をつけた-それが最後の一本だった。

p200〜205 (ゾーイー)
それから、部屋そのものはろくに見まわしもしないで、いきなりくるりと振り向くと、ドアの裏側に断固として釘付けにされた、一枚の、かつては雪のように白かったビーバーボードに、おもむろに向かい合って立った。それは、縦も横も、ほとんどドア全体を蔽うほどの巨大な代物であった。その白さといい、なめらかさといい、広さといい、かつては墨と筆とを求めて泣き叫んでいたであろうことは、誰の目にも明らかだった。とすれば、その哀訴は無駄でなかったことになる。ビーバーボードの表面には、見渡すかぎり、世界各国の文献からとってきた文句を4つの欄にわたって書き込んだ、なかなか豪奢な模様の装飾が施されていたからである。文字は細かいげれど、黒々として、所々いささか気取った書体の所もあるが、つとめて読みやすく書かれていて、墨をこぼした跡も消した形跡もない。ビーバーボードの下の端のドアの敷居に近いところですら、仕事ぶりの潔癖さは少しも減じていない。二人の書家は、この辺は、代わる代わる腹這いになって書いたにきまっている。引用の言葉やその原作者を、何らかの種類によっていくつかのカテゴリーかグループに分類しようという試みは行われていなかった。だから、これらの引用文を上から下へ、蘭の順を追って読んでいくのは、洪水の罹災地に建てられた避難民救護者の中を歩くようなもので、たとえば、パスカルとエミリ・ディキンスンとがすまして同じ寝床に入っていたり、いわばボードレールとトマス・ア・ケンピスの歯ブラシが並んでぶら下がっていたりする。
ゾーイーは、文字が読めるくらいの傍近くにたつと、左側の欄のいちばん上から始めて順次下の方へと読み進んでいった。その表情-というよりむしろ無表情-は、駅のプラットフォームに立って、暇つぶしに、広告板に貼られたドクター・ショルの足あての広告を読んでいる人と選ぶところがなかった。

汝は仕事をする権利を持っているが、それは仕事のために仕事をする権利に限られる。仕事の結果に対する権利は持っていない。仕事の結果を求める気持ちを仕事の動機にしてはならぬ。怠情に陥ることも禁じられねばならぬ。
一挙一動、すべて、至尊の上に思いを致して行うべし。結果に対する執着を棄てよ。成功においても失敗にあっても心の平静を保て。〔書家の一人によって「心の平静を保て」という所に下線が引かれている〕ヨガの意味するところはこの心の平静なのである。
結果を顧慮しながら為された仕事は、さような顧慮なく、自己放下の静けさのうちに為された仕事にくらべてはるかに劣る。婆羅門の知識に救いを求めよ。結果を求めて利己的に仕事をする者はみじめである。 

-バガバッド・ギーター-

それはたまたま成ることを愛した。

−マーカス・アウレリウス−

カタツブリ ソロソロノボレ フジノヤマ

−一茶−

神について語るならば、神の存在そのものを否定する人たちがあり、また、神は存在するが、自ら活動することも、他と関係することも、なにかを予見することもないという人たちもいる。第三の人々は、その存在を認め、これに予見の本質も付与するが、それは大きな天界の事柄に対する予見のみであって、地上の事柄には及ばない。第四の人々は、天界の事物のみならず、地上の事柄をも認めるが、各個人にしては認めない。第五は−ユリシーズとソクラテスはこれに属するが−次のように叫ぶ人である。
「わが動きにして汝の知らざるはなし!」

−エピクテタス−

初めて会った一人の男と一人の女とが、東部に向かう汽車の中で話を交わし始めるとき、愛の関心とクライマックスが訪れる。
「ところで、あなた」と、クルート夫人が言った。一人の女というのは彼女なのだ。「グランド・キャニオンはいかがでした?」
「大した洞窟ですな」彼女の介添役は答えた。
「まあ、面白い言い方ですこと!」クルート夫人は答えた「あたしに何か弾いてくださらない?」

−リング・ラードナー(『短編小説作法』)−

神は観念によらず、苦痛と矛盾によって心を教育する。

−ド・コサード−

「パパ!」キティは悲鳴に似た声を上げると、両手で父の口をふさいだ。
「いや、わしは何も…」彼は言った「わしは嬉しいのだ。…ああ、なんて馬鹿なんだろうな、わしは」彼はキティを抱擁し彼女の顔に、手に、それからまた顔に接吻した。それから彼女の頭上で十字を切った。
この男に対してこれまでは感じたことのない新しい愛情が、レーヴィンの身体を包んだ。そのとき、キティの父親のたくましい手に、静かに優しく口づけするのが彼の目に映った。

−『アンナ・カレーニナ』−

「主よ、われわれはみんなに、神殿の絵姿や肖像を拝むのは間違いを犯すことだと教えなければなりません」
ラーマクリシュナ−「それがお前たちカルカッタ人たちのくせだ。ものを教え、説教したがる。自分たち自身が貧者なのに、無数の品物を与えようとする。…神は絵姿や肖像を通じて自らが礼拝されていることを知らないと思うのか?礼拝する者は間違いを犯すにしても、神はその者の心のうちを知るとは思わないか?」

−『スリ・ラーマクリシュナの福音』−

「われわれのところに合流しないか?」最近、真夜中も過ぎて既に人影もほとんどなくなったあるコーヒー店で、連れのなかった私をたまたま見かけたある顔見知りが、そう言って私を誘った。「いや、結構だ」と私は答えた。

−カフカ−

民衆と共にある幸福

−カフカ−

聖フランシス・ド・サールの祈り−「そうです、父よ!そうです、常に、その通りです!」

ズイガン(瑞巌)は毎日自分に向かって呼びかけた「ズイガンよ」
すると彼は自分に答える「はい」
続いて彼は付け加える「覚めてあれよ」
再び彼は答える「分かりました」
「その後では」と、彼はさらに続ける「他人に騙されるな」
「分かりました、分かりました」と、彼は答える。

−むもんかん(無門関)−

ビーバーボードの文字は何しろ小さかったので、この最後の章句でも上から五分の一ほどの所にしか達していない。ゾーイーは、この欄をあと五分間ほど読み続けても、膝をかがめる必要はなかったろうが、あとは読むのをやめて、おもむろに後ろを向いた。

p278 《テディ》
「ええ、そりゃぼくは神を愛してる。でも感傷的に愛してるんじゃない。神を感傷的に愛さねばならぬなどとは神は一度も言ってやしない。ぼくがもし神だったら、自分を感傷的に愛してもらいたいなんて絶対に思わないな。そんな愛なんてあてにならないもの」
「きみはご両親を愛してるだろう?」
「ええ-とっても」と、テディは言った「ただしその愛という言葉だけど、あなたはぼくにもあなたが望むような意味でそれを使わせたがっている-そうでしょう?」

p92 (大工よ、屋根の梁を高く上げよ)
『ある対象に、神が注いでいる以上の愛情を注ぐとき、これを感傷的態度と言う』

p278、279《テディ》
「なるほど。じゃきみならどういう意味に使いたい?」テディはしきりに考えていたが「〈親近感〉という言葉の意味知ってますね?」ニコルソンの方を向いてそう言った。
「おおよそのところなら知ってると思うけど」皮肉を込めてニコルソンは答えた。
「ぼくは両親に対して非常に強い親近感を持ってる。つまり、彼らはぼくの両親だし、ぼくたちみんながめいめいの調和やらなんやらの一部をなしている」と、テディは言った「ぼくは両親に生きている間は楽しい時を過ごしてもらいたい、彼らは楽しく時を過ごすことが好きだから。…しかし彼らはぼくやブーパーを-ブーパーってのは妹だけど-そんなふうには愛してくれないんだな。つまり、あるがままのぼくたちを愛することはできないらしいんだ。僕たちをちょっとばかし変えないことには愛せないらしい。彼らはぼくたちを愛すると同時にぼくたちを愛する理由を愛してるんだ。いや、理由を愛してる時が大部分だな。そういうのは感心しないよ」そう言って彼はまたニコルソンを振り向くと、少し起き上がるようにしながら「今何時ですか?」と尋ねた

p87(ゾーイー)
ゾーイーの声が、不意に怪訝そうに響いた「かあさん?何してんだい、そこで?」
グラース夫人は、包みを開けて、歯磨きの箱の裏に細かく印刷された文句を読んでるところだった。「お願いだからあんたのその口のボタンをかけといておくれ」半ば上の空で彼女は言った。それからキャビネットの所へ歩み寄った。それは、洗面台の上の壁に、取り付けになっている。彼女は鏡のはまったその扉を開くと、いろんな物がいっぱいつまった棚を仔細に眺め渡した。このキャビネットを自分の庭と心得て、その手入れに身を捧げた庭師の目、というよりしかめ、年期を入れた親方が目をしかめて見やるあの目つきで眺めやった。

p89 (ゾーイー)
「あんなバカみたいな粉を使うのはやめてもらいたいんですよ。あんなもの、あんたの歯のきれいな琺瑯質がみんなとれてしまいますよ。あんたはきれいな歯をしてるんだからね。まともな歯磨きを使いさえしたら−」
「誰がそう言った?」シャワーカーテンの陰で、湯の立ち騒ぐ音がした。「ぼくの歯のきれいな琺瑯質がみんなとれてしまうなんて、誰がいったんだい?」
「あたしが言ったのよ」グラース夫人は、自分の庭に最後の一瞥を与えて、手落ちがないかをたしかめながら「おねがいだから、これを使ってちょうだい」彼女は、のばした指先で、まだ封を切ってないサル・ヘパチカの箱を、移植ごてよろしくちょいと押しやって、ほかの庭木どもと一列にきちんと並ばせた。

p280、281《テディ》
「すべてが神だと知って、髪の毛が逆立ったりなんかしたのは六つのとき。今でも覚えているけど、あれは日曜日だった。そのころ妹はまだ赤ん坊で、ミルクを飲んでたんだけど、全く突然に、妹は神だ、ミルクも神だってことが分かったんだな。つまり、妹は神に神を注いでたにすぎないんだ。分かるかしら、僕の言う意味?」

p219 (ゾーイー)
「彼はこう言うの-文字通りこう言ったのよ-台所の食卓にたった一人座って、ジンジャーエールを飲んでソルト・クラッカーをかじりながら『ドンビーと息子』(訳注ディケンズの小説)を読んでいたら、不意にイエスがもう一つの椅子に座って、ジンジャーエールを小さいグラスに一杯もらえないかって言うんだって。小さいグラスにだってさ-そう彼が言ったの。つまりそんなことを彼は言うのよ。そのくせ、自分にはわたしにいろんな忠告だとかなんだとかを与える資格が完全にあると思ってんですからね。だからわたしもカッとしちゃったの!唾を吐きかけてやりたいくらい!ほんとよ!まるで精神病院に入ってるときに、ほかの患者がお医者さんの服装をしてやってきて、こっちの脈をとったりなんか、やりだしたみたい。…たまんないわ。喋って、喋って喋りまくるの。そして喋ってないときには、家じゅういたるところでくさい葉巻を吸ってるの。葉巻の臭いであんまりむかむかして、わたし、ぶっ倒れて死んじまいそうだった」

p100、101 (ゾーイー)
「いや、まったくその通り。まったくその通りだな。いきなり、ずばりと、ことの核心をつくところ、実に驚嘆のほかはない。ぼくは、全身、鳥肌立ってしまった。…おかげで霊感を得たよ。胸に火がついたみたいだね。べシー。あんた、自分でなにやったか知ってるかい?どういうことをやったのか、自分で納得してるかい?あんたはね、今度の問題に、新しい、斬新な、聖書的見方を与えたんだ。ぼくは、大学で、キリストの磔刑という問題について四つの論文を書いたけど-本当は五つだな-で、そのどれもがだね、何かが抜けてるような気がして、半分頭がおかしくなるくらい気がかりだったんだ。その抜けてるのが何だったか、今わかったよ。やっとはっきりした。キリストをぼくはまるきり違った各度から見られるようになった。彼の不健康な狂信性。まともで、控えめで、税金もちゃんと払ってるあのおとなしいパリサイ人たちをあんなに乱暴に扱った彼の態度。ああ、わくわくするなあ!べシー、あんたは、単純率直かつ頑固一徹に探りを入れて、新約聖書全体に流れていながらこれまで気づかれなかった主調音を探り当てたんだよ。なるほど、食い物が間違っていたのか!キリストはチーズバーガーとコークで生きてたんだ。おそらくキリストは一般大衆にも-」
「いい加減やめなさいよ」グラース夫人が口をはさんだ。おだやかではあるが要注意の言い方であった。

p284 《テディ》
「大部分の人が物をあるがままにはみたがらないことなんだ。生まれて死に、生まれて死にして終始それを繰り返すのを止めることさえ嫌がるんだな。それを止めて、神のもとにとどまる−この神のもとこそ本当に楽しいのに、彼らは始終新しい身体を欲しがってばかりいるんだ」

p? (キャッチャーインザライ)
「いや、実際のものだとも!実際のものに決まってる!どうしてそうじゃないことがあるもんか!みんなは実際のものをものだとは思わないんだ。クソタレ野郎どもが」

p193 (ゾーイー)
「何をしゃべっても、まるできみの『イエスの祈りを』を突き崩そうとしているように聞こえる。ところが実際はそうじゃないんだ。本当は、きみがその祈りを、なぜ、どこで、どんなふうに使うかという、それに反対してるだけだよ。人生におけるきみの義務、あるいは単なるきみの日常の義務、それを果たす代わりの替え玉として、きみがそれを使ってるんではないということを、ぼくは確信したいんだ−確信したくてたまらないんだ。だがもっとひどいことを言うと、君が理解してもいないイエスに向かって、どうして祈ることができるのか、ぼくには分からないんだよ−神に誓って分からんな。しかし、本当に許し難いと思うのはだね、きみもぼくとおなじくらいの分量の宗教哲学を漏斗で注ぎ込むようにして食わされてきた身であってみれば−本当に許し難く思うのは、きみがイエスを理解しようとしない点だよ。もしきみが、あの巡礼のように非常に素朴な人間であるか、あるいはまったくすてばちな人間であるのなら、あるいは弁明の余地があるかもしれない−しかしきみは素朴な人間じゃない。それにそんなにすてばちな人間でもない」そのとき、先ほど寝転んでから初めて、ゾーイーは、目は依然として閉じたままで、唇を硬く噛みしめた−それは(実を言うと)と括弧に入れて言うけれど、彼の母親がよくやる格好にそっくりであった。「お願いだから、フラニー」と、彼は言った「もしも「イエスの祈り」を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖フランシスとシーモアとハイジのじいさんを、みんなひとまとめにまとめたものに向かって唱えたってだめだ。唱えるのなら、イエスを念頭に置いて唱えるんだ。イエスだけを。ありのままのイエスを、きみがこうあってほしかったと思うイエスではなくだ。きみは事実にまっこうから立ち向かうということをしない。最初にきみを心の混乱に陥れたのもやはり、事実にまっこうから立ち向かわないという、この態度だったんだ。そんな態度では、そこから抜け出すこともおそらく出来ない相談だぜ」ゾーイーは、すっかり汗ばんでしまった顔を、いきなり両手で覆うと、ちょっとそのままでいて、それから放して、また手を組み合わせた。そして再び喋りだした。打ちとけて面と向かって言うような口調である「ぼくが当惑する点はだね、本当に当惑しちまうんだけどさ、どうして人が−子供でも、天使でも、あの巡礼のように幸運な単純家でもないのに−新約聖書から感じられるのとは少々違ったイエスというものに祈りを捧げたい気になるのか、そこがわからないことなんだ。いいかい!彼は、ただバイブルの中でいちばん聡明な人間というだけだよ、それだけだよ!誰とくらべったって、彼は一頭地を抜いてるじゃないか。そうだろう?旧約ににも新約にも、学者や、予言者や、使徒たちや、秘蔵息子や、ソロモンや、イザヤや、ダビデや、パウロなど、いっぱいいるけど、事の本質を本当に知ってるのは、イエスの他に一体誰がいる?誰もいやしない。モーゼもだめだ。モーゼなどと言わないでくれよ。彼はいい人だし、自分の神と美しい接触を保っていたし、いろいろあるけれども−しかし、そこがまさに問題なんだな。モーゼは接触を保たなければならなかった。しかし、イエスは神と離れてないというとことを合点してたんだよ」そう言ってゾーイーはぴたりと両手を打ち合わせた−ただ一度だけ、高い音も立てずに、おそらくはわれにもなく打ち合わされた両の手であった。が、その手は、いわば音が出る前に、再び胸の上に組み合わされていた。「ああ、まったくなんという頭なんだろう!」と、彼は言った「たとえば、ピラトから釈明を求められたときに、彼を除いて誰が口をつぐみ続けただろうか?ソロモンではだめだ。ソロモンなどとは言わないでくれ。ソロモンだったら、その場にふさわしい簡潔な言葉をいくつか口にしたんじゃないか。その点では、ソクラテスも口を開かないとは保証できない。クリトンか誰かがなんとかして彼をわきへ引っぱり出して、適切な名言を二言三言記録にとりそうな気がする。しかし、とりわけ、何をさておいても、神の国はわれわれと共にある、われわれの中にある。ただわれわれがあまりにも愚かでセンチメンタルで想像力に欠けるものだから見えないだけだということを、聖書の中の人物でイエス以外に知っていた者があっただろうか?それをちゃんと知ってた者がさ。そういうことを知るには神の子でなければいけないんだよ。どうしてきみはこういうことが思いつかないのかな?ぼくは本気で言ってんだぜ、フラニー、ぼくは真剣なんだ。きみの目にイエスのありのままの姿がその通りに見えていなければだな、きみは『イエスの祈り』の勘所をそっくりそのまま掴みそこなうことになるんだぜ。もしもイエスを理解していなかったら、彼の祈りを理解することもできないだろう−きみの獲得するものは祈りでもなんでもない、組織的に並べられたしかつめらしい言葉の羅列にすぎないよ。イエスはすごく重大な使命を帯びた最高の達人だったんだ。これは聖フランシスなんかと違って、いくつかの歌をものしたり、鳥に向かって説教したり、そのほか、フラニー・グラースの胸にぴったりくるようなかわいらしいことは何一つやってる暇がなかったんだよ。ぼくはいま真剣に言ってんだぜ、チキショウメ。きみはどうしていま言ったようなことを見落とすのかな?神がもし、新約聖書にあるように仕事をするために、聖フランシスのような、終始一貫して人好きのする人格を持った人物を必要としたのだったら、そういう人物を選んだに違いないよ。事実は神の選びえた中でおそらく最もすぐれた、最も頭の切れる、最も慈愛に満ちた、最もセンチメンタルでない、最も人の真似をしない達人を選んだんだ。そういうことを見落としたら、断言してもいいけれど、きみは『イエスの祈り』の要点をきれいに掴み落としてることになる。『イエスの祈り』の目的は一つあって、ただ一つに限るんだ。それを唱える人にキリストの意識を与えることさ。きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚ない憂鬱病とタッパー教授を追い出して二度ともどってこなくしてくれるような、べとついた、ほれぼれするような、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所を設定するためじゃないんだ。きみにもしそれを見る明があるならば-『ならば』じゃない、きみにはあるんだが−しかもそれを見ることを拒むとすれば、これはきみがその祈りの使い方を誤っていることになる。お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求めるために祈ってることになってしまうじゃないか」

p286 《テディ》
「死んだら身体から飛び出せばいい。それだけのことだよ。誰しも何千回何万回とやってきたことじゃないか。覚えてないからといって、やったことがないことにはならないよ。全く馬鹿々々しい」

p291 《テディ》
「ぼくの身体はぼくが自分で育てたんだ。人が育ててくれたんじゃない。とすると、ぼくはその育て方を知っていたに違いない。少なくとも無意識的には。意識的な知識は、過去数十万年の間にいつしか失ってしまったんだろう。しかし、何らかの知識はまだ残ってるんだ、だって−明らかにぼくは−それを使ってるんだもの。…だが、その全体を−つまり意識的な知識を−取り戻すためには、ずいぶんと瞑想もし、頭の中のものを吐き出しもしなきゃなるまい。でも、その気になればできないことはない。思い切って開く自分を開け放せばいいんだ」

p286、287《テディ》
「たとえばこのぼくはだよ、あと五分もしたら水泳の訓練を受ける。下のプールへ下りて行ってみたら、水が入ってなかったということがあるかもしれない。今日が水換えやなんかの日に当たってたりしてね。しかしぼくは、ひょっとしたら、プールの底をのぞいて見ようとしてその縁まで歩いて行くかもしれない。そこへ妹がやって来て、ぼくを突き落とすかもしれない。ぼくは頭の骨を割って即死ということだってあり得るだろう」

p292 《テディ》
ニコルソンはそこへ行って知りたいことだけを手短かに尋ね、礼を言うと、さらに数歩船首の方へ歩いて行って、「プール入口」と書いた金属製の重い扉を開けた。するとそこは、狭い、剥き出しの階段になっていた。
ニコルソンがその階段を中ほどまで降りるか降りないうちである、つんざくような悲鳴が長く尾をひいて聞こえた−幼い女の子の声に違いない。それは四方をタイルで張った壁に反響するような、遠くまで鋭く響き渡る悲鳴であった。

p268 《テディ》
機械と忍耐力があったらマンデル教授の手紙に返事を書くこと。これ以上誌の本を送らぬように要請すること。とにかく一年間は手元にあるので十分だ。とにかく詩なんてもううんざり。人が浜辺を歩いているところへ椰子の実が落ちてきて運悪く頭に命中する。運悪く頭は真っ二つにに割れちまう。すると男の妻が歌を歌いながら浜辺を歩いてきて、二つに割れた頭を見つけ、誰だか分かって拾い上げる。もちろん妻はひどく悲しんで胸も裂けんばかりに泣く。こういうところがまさに詩のうんざりなゆえんである。仮にその女が二つに割れた頭を拾い上げて、大いに腹を立てながらその頭に「こんな真似は止めて!」と、怒鳴るとしたら。しかし教授に返事を出すときこんなことを書いてはいけない。これは論争を誘発するおそれが多分にあるし、それにマンデル夫人は詩人である。

p288、289 《テディ》
「それはただ、あの人はとても霊的な人なのに、教師として教えてるのは、今のところ、あの人の本当の霊的進歩を妨げるようなものばかりだからさ。あんなものはあの人にとって刺激が強すぎるんだ。あの人は頭の中に物を詰め込む代りに、頭の中の物を全部吐き出さなきゃいけないとこまで来てるんだもの。あの人は自分でその気になったら、今の一生だけでずいぶん多くのりんごを処分できる人だよ。瞑想は得意だしね」

p184、185 (ゾーイー)
「これがまたきれいな話じゃないんだな。しかし、もうおしまいみたいなもんだから、できたら、もちょっと我慢してくれ。ぼくがゼンゼン気に入らないのは、きみが大学でやっている、苦行僧の服を着込んだみたいな、殉教者めいたきみの生活だよ−みんなを相手にきみが孤軍奮闘しているつもりの薄汚い聖戦だ。しかし、ぼくの言う意味は、きみが考えてるようなものじゃないんだから、しばらく口を出さずにいてくれないか。主としてきみは高等教育制度を攻撃してると思うんだ。飛びかかってきちゃいかんぜ−だいたいにおいて、ぼくはきみに賛成なんだから。しかしぼくは、きみの絨毯爆撃みたいな攻撃がいやなんだ。九八パーセントぐらいまではきみの意見に賛成なんだが、あとのニパーセントが死にそうなくらい脅威なんだ。ぼくが大学のころ、きみがいってたことにはてんであてはまらない教授が1人いた−そりゃ1人にはちがいないが、これはたいへんな傑物だったな。エピクテタスではなかったよ。しかし、病的な自負の持ち主じゃ絶対になかったし、人気とり教師でもなかった。謙虚な偉い学者だったよ。それにだね、彼が言ったことは、教室の中で言ったことでも外で言ったことでも、すべて、本当の叡智をちょっぴり、時にはどっさり、必ず含んでいたと思うんだ。きみがその革命を起こすときに、この先生なんかはどうなるんだ?ぼくは考えるに忍びないね−話題を変えよう。」

p289、290 《テディ》
「そうだな…何をやるか、あまりはっきりした考えはないけどね」とテディは言った
「一般に学校でまず最初に教えることからは始めない、これは確実に言えるな」彼は腕を組んで少しの間考えていたが「まず子供たちを全部集めて、みんなに瞑想の仕方を教えると思う。自分たちの単なる名前とかなんとか、そんなことじゃなくて、本当に自分は誰なのか、それを発見する方法を教えようとするだろうな。…いやそれよりも前に親やみんなから教え込まれたことを全部、頭の中からきれいさっぱりと吐き出させるね、きっと。たとえば、象は大きいと親から教えられていたとしても、そいつを吐き出させちまうんだ。象が大きいのは、何か他の物−犬とか女の人とか、そういったものと並べたときだけ言えることでね」テディはまたちょっと考えてから「ぼくなら象には長い鼻があるということだって教えないだろう。手もとに象がいたら、見せはするかもしれない。けどそのときでも、子供たちを象のとこにただ行かせるだけだな。象が子供たちのことを知らないように、子供たちにも象のことを知らせないでおくね。草とか、そのほかの物もおんなじさ。草が緑なんてことさえぼくは教えない。名は名称にすぎないからね。つまり、もしも草は緑だと教えると、子供たちは初めから草をある特定の見方−教えたそのご当人の見方−で見るようになっちまう−ほかにも同じようによい見方、いやもっとはるかによい見方があるかもしれないのにさ…よく分かんないけどね。ぼくはただ、両親やみんなが子供たちにかじらしたりんごを、小さなかけらの果てまでそっくり吐き出さしてやりたいんだよ」
「それではしかし、無知蒙昧なチビッコ世代ができてしまう危険がないかな?」
「どうして?無知蒙昧になんかならないよ。象だって無知蒙昧じゃないだろう。あるいは鳥だって。木だって」と、テディは言った「ある物がある態度をとる代わりにある形で存在するからと言って、それが無知蒙昧の理由にはならないさ」
「そうかな?」
「そうとも!」とテディは言った「それにだね、彼らがもし他のいろんなことを−名前だとか、色だとか、そういったことをさ−学びたいと思ったら、後になって彼らがもっと年をとってから、その気になれば、やれることだからね。でも最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中の見方じゃなくてね−そういうことさ、ぼくが言うのは」

p76、77 (ゾーイー)
きみとフラニーがどちらも字が読めるようになった頃には、シーモアも僕も、もう大人だった-シーモアなんかとうに大学を出てたくらいだからな。あの年輩だから、僕たちには、自分の愛読する古典を君たち二人に押し付けようなんて情熱は本当はなかったんだ-とにかく、双子の大将やブーブーの時のような熱量を持ってやったわけじゃなかったよ。学者に生まれついたような人間を、いつまでも無知のままで置こうったって、それは無理だってことは知っていた。心の底では僕たちも、しんからそうしたいと思ってたわけじゃなかった、と僕は思うんだが、しかし、神童や学校時代の物知り博士が長じて研究室(実は娯楽室)の顔になるという例が、統計的に不安、というより脅威だったからな。けど、それよりずっと重要なことは、あの頃すでにシーモアが、いかなる名による教育でも、知識の追求ではなくして、禅にいうところの「無心」の追求から始めても、やはりかぐわしい芳香を放つ、いやむしろその方が遥かにかぐわしい芳香を放つであろうという信念を持ち始めていたことだ(僕もまた、兄貴に賛成だったんだよ、自分に分かる範囲でだけどさ)。スズキ博士がどっかで言ってるよ−純粋意識の状態−サトリの境地−に入るということは、神が「光あれ」と言う前の、その神と合一することだって、シーモアもおれも、この光を、君とフラニーから、(少なくともでき得る限り)遠ざけておいた方がよろしいと考えたんだ。その他、より低次な、より当世風な光の根源の数々−芸術、化学、古典、語学−これらすべてをだな。君たち二人が、すべての光の根源を会得した境地というものを、少なくとも想定できるようになるまではさ。この境地のことを、一部もしくは全部知った人々−聖者、阿羅漢、菩薩、生前解脱者−こういった人たちについておれたちの知っている限りのことを(というのは、おれたちにだって「限界」があるからな)言うだけでも言ってやったら、これはすばらしく建設的なことではないかと考えたんだ。つまり、君たちが、ジョージ・ワシントンと桜の木とか、「半島」の定義とか、文の分解説明法とかはもちろん、ブレイクもホイットマンも、いやホーマーやシェイクスピアについてすら、ほとんど、もしくは全然知らないうちに、イエスや釈迦や老子やシャンカラチャーリヤや慧能やスリ・ラーマクリシュナ等々の何たるかを、二人に知ってもらいたいと思ったんだ。とにかく、これがわれわれの名案なるものだったのさ。同時に、Sと僕とで家族ゼミナールを時間割通りに開催したあの何年間か、中でも形而上学の時間を、どれほど君がいやがっていたか、僕にはわかっているということをいま僕は言おうとしているような気がする。

p219、220 《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
本当に優れた芸術家はたいていそういうものだが、ヨショト氏のデッサンの教え方も、芸術家としてはまあまあだが教える才能だけは優秀といった連中の域を一歩も出るものではなかった。生徒のデッサンの上にトレーシング・ペーパーを重ねて原画を修正してやるコピー式実技指導、それと生徒のデッサンの裏に書き込むコメント−この二つを併用するわけだけれど、これによって彼は、まずまずの才能を持った生徒に、豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教える事ができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか(そこの技術をちょいと郵便で知らせてもらいたいということこそ彼の生徒たちの比較的ましな連中が何より渇望している焦点のはずだが)、これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない。つけ加えるまでもあるまいが、なにも彼は、意識的ないし無意識的に才能の出し惜しみをしてるわけでも、才能の浪費を慎重に警戒しているわけでもない。要するに彼には人にくれてやろうにもそんな才能の持ち合わせがないのだ。仮借ないこの真実にもわたしとして別段驚くことは何もなかったので、それが暴露されたといってもべつに不意打ちをくらって仕事に支障をきたしたというわけではない。

p290、291 《テディ》
「きみは大人になったら何か研究してみたいと思ったことはないかな?医学の研究とか、何かそういったことさ。きみほどの頭があったら。いずれは−」
テディは立ったままで答えた「2年ばかり前に一度考えたことはある。ずいぶん大勢の医学者たちと話たけどね」そう言って彼はかぶりを振りながら「どうもぼくには面白くなさそうなんだ。彼らはあくまで表面のことばっかしなんだよ。いつも細胞とかなんとか、そんな話ばかりさ」
「ほう。きみは細胞構造なんか重要じゃないってわけ?」
「いや、そりゃ重要だよ。でも医学者たちが言うのを聞いてると、細胞自身が無限の重要性を持っていて、それの持ち主の人間なんかそっちのけみたいに聞こえるからな」

テディ 完

朝には上げられるだろうと思ってたのに思いのほか長くてもう昼過ぎてしまったʕ⁎̯͡⁎ʔ༄
とりあえず一旦このまま上げとく
後で誤字脱字の要確認を

٩( ᐛ )و


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?