フラニー

フラニー

p11 (フラニー)
愛の限りを込めて フラニー
キス キス キス キス
キス キス キス キス

p176 《エズミに捧ぐ》
こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは
アイとセップンをおくります チャルズ

p15 (フラニー)
レーンは、少し早すぎる足並みで歩きながら、残念だけど、クロフト会館には部屋がとれなかった、といった−もちろん、これはがっかりである−でも、こぢんまりとした、とてもいい家に部屋がとれた。小さいけど、清潔だったりなんかするし、彼女の気にいるだろう、と彼は言った。とたんに、フラニーの頭には、白い下見板の張った宿屋の姿が浮かんだ。赤の他人の女の子が三人、一つの部屋に泊まり合わす。いちばん先に入った者が、ぶかぶかのソファ・ベットを占領し、あとの二人が秀逸至極なマットレスのついたダブル・ベットを共有することになるのだろう。「すてき」と、彼女は力を込めて言った。

p15(フラニー)
男性というものの間抜けさ加減に対するじれったさ、それを隠すのがたまらないことが時々ある。相手がレーンだとなおさらそうだ。彼女はニューヨークの、ある雨の夜のことを思い出した。芝居がはねた直後で、レーンが、路傍の情けのかけすぎとでもいうのだろうか、タキシードを着た最低の男に、タクシーを譲ってやったのである。そのときのそれをとやかく思ったわけじゃなかった-だって、男の身に生まれて、雨の中でタクシーを拾わなければならないなんて、ホント、たいへんじゃないか−でも、そのとき歩道の所へ戻ってきてわけを話したレーンの、本当に怖い、敵意を含んだ顔を彼女は憶えている。そのときのことや、その他いろんなことを考えているうちに、なんだか悪いような気がしてきた彼女は、いかにもいとしそうに、少しきつくレーンの腕を抱きしめた。

p244《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
わたしはあの学校へわざわざタキシードを持参に及んだことを思い出すと、あれからずいぶんたった今日でも、現にこれを書いている今でさえ、いささか身のちぢむ思いがする。しかしわたしは実際に持っていったのだ。

p244、245《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
ヨショト夫妻がまだキチンにいる間にわたしはこっそりと階下に下りてウィンザー・ホテルに電話した。ニューヨークを経つ前にボビーの友達のX夫人が勧めてくれたホテルである。そして八時に行くからと、一人分の席を予約した。
七時半ごろ、正装をしてめかし込んだわたしは、部屋の戸口から首を突き出して、ヨショト夫妻のどちらかがその辺をうろついていないかを確かめた。なんとなく、タキシード姿の自分を彼らに見られたくなかったのだ。彼らの姿が見当たらなかったので、わたしは急いで階段を下り、通りに出てタクシーを探した。上着の内ポケットにはシスター・アーマーに宛てた手紙が入っていた。わたしは夕食の席でもう一度、できることなら蝋燭の灯りで読み返したかったのである。何丁歩いて行っても空車はおろか、そもそもタクシーなるものが一台も見当たらぬ。なかなかにつらい道中であった。モントリオールのヴェルダン地区といのは、およそ正装とは無縁の界隈で、通り過ぎる者がみんなわたしを振り返り、それがまた多かれ少なかれ咎めるような目つきで見る気がして仕方がなかった。そのうちにわたしが月曜日に「コニー・アイランド風」なる特大のホットドックを鵜呑みにしたあの簡易食堂にでっくわしたわたしは、とっさにウィンザー・ホテルの予約はご破算にしてしまおうと決心した。そして中に入って行って一番端のボックスに腰を下ろすと、黒の蝶ネクタイを左手で隠すようにしながらスープとロールパンと注文した。他の客たちの目には、これから出勤するレストランの給仕というふうに映ることを期待しながら。

p17(フラニー)
フラニーとレーンは、ふたりとも、マーティニを飲んでいた。十分か、十五分くらい前、グラスがはじめて運ばれてきたとき、レーンは味を試すように軽く口をつけてみて、それから身体を起こすと、つぼにはまった店に、非の打ちどころもないほどつぼにはまって見える女の子を連れて入っている(ということは、誰の目にも明らかなはずと、彼は信じていたにちがいない)、その、いわば固形物みたいに実体のある満足感を味わいながら、ちょっと店の中を見まわした。

p235《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
事実がはっきり分かるのはいつも遅きに失するのが通例だけれど、「喜び」と「仕合わせ」の最も著しい違いは「仕合せ」が個体であるに反し、「喜び」は液体だということだ。

p26《フラニー》
「ぼくは、一体何がどうしたっていうのか、それを知りたく思うだけだ。つまりねえ、きみは、いわゆるボヘミアン・タイプか、さもなきゃ死んだ人でもなけりゃ、本当の詩人じゃないって言うのかね?きみは何を要求するんだ-髪にウェーブでもかかってなきゃだめかい?」

p148《エズミに捧ぐ》
「毛がぐしょぐしょに濡れてしまって」と、彼女は言った「ひどい格好でしょ?」そう言いながら彼女は、私の方を見やって「濡れていない時には、はっきりウェーブの出る毛なんですのよ」
「そうでしょうね、それは今でもわかります」
「カールとは違うんですけどね、ちゃんとウェーブするんです」と、彼女は言った

p27(フラニー)
フラニーは言った「何ていうかなあ、詩人ならばね、何かきれいなものがあると思うの。つまりね、読み終わったりなんかした後に、何かきれいなものが残るはずだと思うのよ。あなたの言う人たちは、きれいなものなんか、ひとつも、これっぽっちも残しやしないわ。ちょっとマシな場合だって、こう、相手の頭の中に入りこんで、そこに何かを残すというのがせいぜいじゃない?でも、だからといって、何かを残すすべを心得てるからといって、それが詩だとは限らない。そうでしょ?なんか、すごく魅力的な文体で書かれた排泄物−と言うと下品だけど、そういうものにすぎないかもわかんない。マンリウスとか、エスポジトとか、ああいったご連中みたいに」

p232 (ハプワース)
それから、面白そうで、つまらない本を二冊、簡単に包んでいっしょに送ってほしい。そうすればほかの-男女を問わず、天才、秀才、卓越した控えめな学者による-本をけがさないですむからね。アルフレッド・アードンナの『アレキサンダー』とシオ・アクトン・ボームの『起源の思索』がいい。父さん母さん、あるいは図書館のぼくの友人でもいいから、無理のない程度で、なるべく速く、暇なときに郵便で送って。どちらもつまらない、ばかばかしい本なんだけど、これをバディに読んでほしいんだ。現世で初めて、来年学校に入る前にね。ばかばかしい本だからといって、はなからばかにしちゃいけない!あまり気の進まない、いやな方法だけど、バディみたいな才能豊かな子に、日常の愚かさやつまらなさを直視させるための最も手っ取り早い方法は、おもしろそうで、愚かで、つまらない本を読ませることなんだ。二冊の無価値な本をさりげなく渡せばきっと、口をつぐんだまま、悲しみや激しい怒りのにじんだ声をきかせることなく、こう伝えることができる。「いいかい、この二冊の本はどちらも、それとなく、上手に感情をおさえて、目立たないようにしてあるけど、芯まで腐りきっている。どちらも有名なにせ学者が書いたもので、ふたりとも読者を見下して、利用してやろうという野心を心密かに抱いている。この二冊を読んだときは、恥ずかしさと怒りで涙がにじんだ。あとは何も言わずに、この二冊を渡すことにする。これは神さまがくださった見本、それも腐りきった呪わしい知性と、見せかけだけの教育の見本だ。才能も人間的洞察もない駄作だ」バディには、ひと言だって余計な注釈を付け加える必要はない。この言葉もまた辛辣かな?辛辣じゃないといったら、それこそ、冗談をいうなと笑われるだろう。とても辛辣だよね。だけど、逆に言わせてもらうと、父さんはこういった連中の危険に気づいてないのかもしれない。ひとつはっきりさせるために、ざっと手短に、アルフレッド・アードンナのほうを検討してみよう。彼はイギリスの有名大学の教授で、アレキサンダー大王の評伝を、分量は多いけど、ゆったり読みやすい文章で書いた。そしてしょっちゅう言及するのが、自分の妻。彼女も有名な大学の優秀な教授だ。それからかわいい犬のアレキサンダー。あと、彼の前任者であるヒーダー教授。この人も長いことアレキサンダー大王の研究で生活していた。このふたりは長年、アレキサンダー大王をうまく利用して-金銭的な面ではどうか知らないけど-名誉と地位を得た。それなのに、アルフレッド・アードンナはアレキサンダー大王を愛犬アレキサンダーと同程度に扱っている!ぼくはアレキサンダー大王も、その他のどうしようもない軍人もあまり好きじゃないけど、アルフレッド・アードンナはひどい。だって、さりげなく、不当な印象を読者に与えようとしているんだから。要するに、自分の方がアレキサンダー大王より優れているといわんばかりなんだ!それも、自分と、妻と、ついでに愛犬が居心地のいい場所にいてアレキサンダー大王を搾取し利用しているからできることだっていうのに。アレキサンダー大王がいたということに、これっぽっちも感謝していない。いまの自分があるのは、アレキサンダー大王を好きなように、うまいこと使う特権を得られたからだというのに。ぼくがこのインチキ学者を非難するのは、彼がいわゆる英雄や英雄崇拝を嫌っていて、わざわざ一章をアレキサンダーと、彼に匹敵するナポレオンに当て、彼らが世界にどれほどの害悪と無意味な血を流してきたかを示しているからじゃない。この論点はぼくも、正直いって、大いに共感できるからね。そうじゃなく、こんな大仰で、平凡な章を書くなら、せめて次の二点はおさえておいてほしいと思うからなんだ。これはちょっと議論する価値があると思う。だから、どうか、がまんして、無償の愛情を持って、最後まで読んでほしい!いや、おさえておくべき点は三つある。

1.英雄的なことができる資質が備わっている人なら、英雄や英雄的行為をどんなに嫌っていても足元がぐらつくことはない。また、英雄的なことをする資質に欠けていても堂々と議論に入ることはできるがその場合、徹底的に注意深く理知的で、体のすべての灯りを灯すよう努力し、さらに神への熱い祈りを二倍にしなければ、安易な道に迷い込んでしまう。

2.人は、一般的な判断ができるくらいの頭脳を持っているのは当然。もしその程度の頭脳がないなら、皮をむいた栗でも十分に代替可能だ!しかし自分の目でみることが重要だ。とくにこの種のこと、英雄や英雄的行為に関してはそれが必要不可欠といっていい。人間の頭脳は魅力的で、好ましく、じつに分析能力に長けているだけで、人間の歴史を包括的に理解したり-英雄的なことであれ、非英雄的なことであれ-その人がその時代に愛情や良心にかられて果たした役割を理解する能力はまったく持っていない。

3.アルフレッド・アードンナは、アレキサンダー大王の幼い頃の家庭教師がアリストテレスだったという事実をおおらかに認めている。それなのに、嘆かわしいことに一度も、アリストテレスがアレキサンダー大王に謙虚であれと教えなかったことを非難していない!
この興味深い問題に関して、ぼくが今までに読んだ本では、アリストテレスが少なくとも、アレキサンダーが偶然手に入った王の衣だけを受け取って、その他のクソのような-失礼-王の付随物は拒否するように言ったなんて、どこにも書かれてはいなかった。
腹立たしい話はもうやめよう。神経が擦り減ってきちゃった。それにシオ・アクトン・ボームのいかがわしくて非常に危険な、才能なき、冷ややかな文学作品について語るつもりだった時間を使い果たしてしまった。ただ、繰り返しになるけど、ぼくは本当に心配でしょうがないんだ。もしバディが小学校に入学を許可されて、長く、とても複雑な正規の教育を受けたあと、こういう危険で、つけあがった、とことんありきたりの本を読むかと思うとね。

p219、220 《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
本当に優れた芸術家はたいていそういうものだが、ヨショト氏のデッサンの教え方も、芸術家としてはまあまあだが教える才能だけは優秀といった連中の域を一歩も出るものではなかった。生徒のデッサンの上にトレーシング・ペーパーを重ねて原画を修正してやるコピー式実技指導、それと生徒のデッサンの裏に書き込むコメント−この二つを併用するわけだけれど、これによって彼は、まずまずの才能を持った生徒に、豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教える事ができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか(そこの技術をちょいと郵便で知らせてもらいたいということこそ彼の生徒たちの比較的ましな連中が何より渇望している焦点のはずだが)、これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない。つけ加えるまでもあるまいが、なにも彼は、意識的ないし無意識的に才能の出し惜しみをしてるわけでも、才能の浪費を慎重にけいかいしているわけでもない。要するに彼には人にくれてやろうにもそんな才能の持ち合わせがないのだ。仮借ないこの真実にもわたしとして別段驚くことは何もなかったので、それが暴露されたといってもべつに不意打ちをくらって仕事に支障をきたしたというわけではない。

p30 (フラニー)
彼女は、しばらくの間、その凝縮した、胎児にも似た姿勢をどうにか保っていた−が、そのうちにとうとう頽れてしまった。そしてたっぷり五分間、彼女は泣いた。ヒステリックになった子供が、咽喉をひきつらせたてるような、半ば閉じた喉頭蓋を突き抜けるようにして息がとび出してこようとする、あの音を立てながら、悲嘆と懊悩の慟哭を抑えようともしなかった。それでいて、いよいよ泣きやんだときには、激しい感情の噴出のあとに普通なら続くはずの、刃物のような痛々しいしゃくり上げもなく、ただぱたりと泣きやんだ。なんだか、彼女の心の中でスイッチの切り替えみたいなものが瞬時にして行われて、彼女の肉体を一瞬のうちに鎮静する力が発揮されたといった感じだった。

p72 (ゾーイー)
シーモアが自殺したのは、三年前のちょうど今日だ。遺体を引き取りに僕がフロリダへ行ったとき、どんなことがあったか、君に話したっけか?五時間びっしり、僕は飛行機の上で薄馬鹿みたいに泣いてたんだ。通路の向かい側の人に見えないように、時々、ヴェールの具合を直しながらね−僕の方の席に隣客がなかったので助かったよ。着陸する五分前頃に、後ろの席で話している言葉が意識にとまったんだ。女の人でね、ボストンのお上品なバック・ベイの全部とインテリぶったハーヴァード・スクエアの大半を詰め込んだみたいな声だったな。「…で、その翌朝ですのよ、あなた、あの娘の若いきれいな身体から、1パイントも膿汁を取りましたの」僕はそれだけしか憶えていないけど、それから数分たって、飛行機から降りたときにだね、その愛するものを奪われた奥方が、ベルグドルフ・グッドマン仕立ての黒衣の姿で僕の方へ近づいてくるのを見て、僕は「的外れな表情」を浮かべてしまったんだな。にたにた笑っちまったんだよ。今日がまさにそういう感じなんだ。しかるべき理由なんか何もないのにさ今日の僕は、頭では否定しているくせに、感覚として、どこかここのすぐ近くで−この道の先のとっつきの家あたりかな−一人の優秀な詩人が死にかかっているという感じが実にはっきりとくるんだな。がまた同時にここのすぐ近くのどこかで、誰か若い女の人がその愛らしい肉体から1パイントの膿汁を取ってもらう華やかな光景も展開しているような気がして仕方がないんだよ。僕だって、悲嘆と歓喜の間を、永久に往復してるわけにはいかんじゃないか。

p30 (フラニー)
涙に濡れてはいるが、まったく無表情な、ほとんどうつろとも言いたい顔をして、彼女は床に置いたハンドバックを取り上げると、口を開けて、中から例の小さな若草色の布製の本を取り出した。彼女はそれを、膝の上、というよりむしろ膝頭の上にのせて眺めやった。見つめたと言ってもよい。そこが、その小さな若草色の布製の本をのせるにはいちばんふさわしいというのでもあろうか。

p60 (ゾーイー)
一九五五年の十月、月曜日の朝十時三十分、二十五歳の青年ゾーイー・グラースは、なみなみとお湯を湛えた浴槽につかって、四年前の古手紙を読んでいた。黄色い薄葉紙の何枚もにわたってタイプした、いつ終わるとも知れないような手紙であって、二つの島みたいな膝頭に立てかけておくのが容易でない。

p34(フラニー)
「ウォリーがどうっていうんじゃないの。女の子だっていいんだわ。かりに女の子だとするでしょ−たとえば、わたしの寮の誰かでもいい−そんな場合は、夏じゅう、どこかの劇場専属の劇団で背景を描いてたなんてことになるのよ。あるいは、ウェールズを自転車で駆けまわったとか。ニューヨークにアパートを借りて、雑誌社だとか広告会社のアルバイトをやったとか。要するに、誰も彼もなの。みんなのやることがみんな、とてもこう−何ていうかなあ−間違ってるっていうんじゃない。いやらしいっていうんでもないわ。馬鹿げてるっていうんでもないの、必ずしも。でも、なんだか、みみっちくて、つまんなくて−悲しくなっちゃう。そして、いちばんいけないことはね、かりにボヘミアンの真似をするとかなんとか、とんでもないことをするとするでしょ、そうすると、それがまた、種類が違うというだけで、型にはまってる点ではみんなとまったく同じことになってしまうのよ」

p168 (ゾーイー)
「あれがいちばんいけなかったんだ。どうしたのかというとね、ある考えが思い浮かんで−どうしても頭から追い出すことができなかったの−つまり、大学という所もまた、この世の宝やなんかを蓄積することに捧げられたイカレて狂った施設にすぎないっていう考え。つまり、宝はなんていったって宝なんだ。その宝が、金銭だって、品物だって、あるいは教養だって、あるいは普通の知識だって、そこに何の違いがあるか?包紙をはげば、わたしはみんなまったく同じもののように思えたのよ−今だってそう思うわ!ときどきわたし、知識ってものが−ともかく、知識のための知識の場合ならよ−何よりいちばんいけないことだと思うことがあるの。最も許し難いものだわ、たしかに」苛立たしげに、そして実際にはその必要もないのに、フラニーは、片手で髪の毛を後ろに押しやった。「ときたまでいいから−ほんのときたまでいいから−知識は知恵に通じるべきものだ、もしそうでなければ、それはいやらしい時間の浪費にすぎないということを、表面だけのお上品な形をとっても仕方ないから、感じ取らせてくれるものがあったら、わたしもあんなに参らなかったろうと思うの。ところがそんなものは絶対にない!知恵こそ知識の目標であるはずということなんて、それを感じとらせてくれる言葉を聞くことさえ、大学の中ではただの一度もない。『知恵』という言葉を聞くことさえ、ほとんどないわ!滑稽な話を聞かせてあげましょうか?本当に滑稽な話を聞かしてあげましょうか?四年近い大学生活の中でね−これ、絶対に本当の話なのよ−四年近い大学生活の中で『知恵ある人』という表現が使われるのを聞いた記憶はたったの一回だけ、わたしが一年の時、それがなんと政治学の時間なの!それがどんなふうに使われたかわかる?株で財産を作って、それからワシントンへ行ってローズベルト大統領の顧問になった、おじいちゃんの、あるつまんない政界の長老のことを言う時に使ったのよ。嘘じゃないんだから!ほとんど四年にもなる大学生活なのに!みんながそんな経験をしてるってわけじゃないけど、でも、このことを考えると、頭がヘンになちゃって、死んじまいたいくらい」

p191 、192(ゾーイー)
「お願いだからやめてちょうだい!」甲高い声でフラニーは叫んだ。
「あと一秒、たったの一秒だ。きみはいつもエゴをうんぬんするけど、いいか、何がエゴで何がエゴでないか これは、キリストを待たなければ決められないことなんだぜ。この宇宙は神の宇宙であって、きみの宇宙じゃないんだ。何がエゴで何がエゴでないかについては、神が最終的決定権を持ってるんだ。きみの愛するエピクテタスはどうだ?あるいはきみの愛するエミリ・ディキンスンは?彼女が詩を書きたいという衝迫を感じるたんびに、きみはきみのエミリに、そのいやらしいエゴの衝迫がおさまるまで、坐ってお祈りを唱えていてもらいたいと思うのかね?むろん、そうじゃあるまい!ところが、きみの友人タッパー教授のエゴは、これを取り去ってもらいたい。これは違うんだから、と、きみは言うだろう。そうかもしれない。おそらくそうだろう。しかし、エゴ全般についてきゃあきゃあ言うのはやめてもらいたいな。本当にきみが知りたいのなら言うけれど、ぼくの考えでは、この世の汚なさの半分までは、本当のエゴを発揮しない人たちによって生み出されているんだ。たとえば、タッパー教授だが、きみの言うところから判断して、教授が発揮してるもの、きみが教授のエゴだと考えているものは、エゴでもなんでもなくて、何かほかの、ずっと汚ない、はるかに表面的な能力だな。きみの学校生活もいい加減長いんだから、もう実情が分かってもいいころじゃないかね。無能な小学校の先生を一皮むいてみたまえ-その点じゃ、大学教授も同じだが-自動車修理工としては、あるいは石工としては第一級の人間が、働き場所を間違えてるんだという例に、二度に一度はぶつかるぜ。たとえば、ルサージを見ろよ-わが友人にして雇主なる、かの〈マジソン街の薔薇の花〉をさ。彼をしてテレビ界にせしめたものは彼のエゴであると思うだろう。ところが、さにあらず!彼はもはやエゴなんてものは持ってないよ-昔だってあやしいもんだ。彼はエゴを分割して趣味にしてしまったんだ。彼には、ぼくの知ってるところでは、少なくとも三つの趣味がある-そしてそれがみんな、動力工具や万力や、何やかやがいっぱいつまった地階の大きな1万ドルの作業室に関係がある。自分のエゴを、自分の本当のエゴを実際に発揮している人間には、趣味なんてものに向ける時間なんかありゃしないんだ」ゾーイーは不意に口をつぐんだ。相変わらず、目をつぶり、指を固く胸に、ワイシャツの胸に組んで寝転んでいる。が、いま彼はその顔をゆがめて意識的に苦しげな表情を浮かべた-どうやら、自己批判の表情と見受けられる。「趣味か」と、彼は言った「どうして趣味の話なんかに脱線しちまったのかな?」それからしばらく、彼は黙って転がっていた。

p35(フラニー)
フラニーはうなずいて自分のチキン・サンドイッチに視線を落とした。軽い吐き気が動いた。それで即座に顔を上げて煙草を吸った。

p89《対エスキモー戦争の前夜》
外に出ると彼女は、バスに乗ろうとレキシントン街まで西へ向かって歩き出した。そして三番街とレキシントン街との中間で、金入れを出そうとコートのポケットに手を入れたとき、そこにあるサンドイッチの半分に気がついた。彼女はそれを取り出すと、腕を下にのばしてそっと路端に落とそうとしたが、途中でやめて、またもとのポケットにしまい込んだ。数年前、復活祭の贈物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いたおが屑の上で死んでるのを見つけたときにも、捨てるのに3日もかかったジニーであった。

p36 (フラニー)
「あの芝居、どう?」エスカルゴにフォークをあてながら、レーンが尋ねた。
「さあ、どうかしら。わたし出てないの。やめたの」
「やめた?」レーンは顔を上げた。「きみはあの役に夢中だったじゃないか?どうしたんだい?誰かほかの人にまわされちゃったの?」
「ううん、そうじゃない。全然わたしのものだったわ。そこがいやらしいのよ。ほんとにいやらしいわ」
「ねえ、どうしたんんだい?演劇部そのものをやめたっていうの?」
フラニーはうなずいた。そしてミルクを一口啜った。
レーンは、口に入れたものを噛んで飲み下してしまうまで待って、それから口を開いた
「一体なぜなんだい?演劇はきみの情熱だったじゃないか。ぼくが聞いたかぎりでは、ほとんど演劇だけにしか、きみは−」
「ただ、やめたの。それだけよ」と、フラニーは言った「演劇が悩みの種になってきたの。自分がエゴにとりつかれてるみたいないやらしい人間に思えてきたの」彼女は自分を思いみるように「わかんないな。第一、舞台に出たいっていうのが、何かこう、趣味が悪いことのように思ったの。つまり、何もかもがエゴなのよ。芝居に出たときは、いつも自分がたまらなくいやになった。舞台が終わってから楽屋にいるなんて。みんな、すごく思いやりのある、温かな気持ちに浸りながら、エゴがあちこちに駆けまわってるの。そこらじゅうの人みんなに接吻したり、メーキャップはそのまんまでさ、それからお友達が楽屋に会いにきたりすると、いとも自然で親しい態度をとろうとする。わたしは自分がいやになった。……いちばんいけないのはね、芝居に出てるのが、いつもこう、恥ずかしくなるのよ。特に夏の公演に出たりすると」彼女はレーンを見やった。「役はいい役だったのよ。だからそんな顔をしてわたしを見ないで。そんなことじゃないのよ。もしも、そうね、わたしの尊敬する人が誰か−たとえば、兄たちでもいいわ−見に来ていて、わたしが自分の科白を聞かれたと仮定すると、わたしは恥ずかしくてたまらないってことなの。わたしはいつも何人かの人にお手紙を書いて、見に来ないでって言ってやったわ」彼女はまた胸の中を探るようにして「去年の夏の『人気者』のペギーン(訳注 シングの名作「西の国の人気者」のヒロイン)だけは例外。あれは本当にいい舞台にできたのに、ただ、プレーボーイをやったあのぼんくら君が、面白さをすっかり台無しにしてしまった。あんまりウィットなのよ−まったく、ウィットだったらありゃしない」
レーンはエスカルゴを食べ終わり、ことさら無表情を装いながら坐っていた。「批評は素晴らしかったじゃないか」と、彼は言った「そいつをぼくに送ってよこしたのはきみだぜ」
フラニーは溜息をついた。「分かったわ。いいのよ、レーン」
「よくないよ。きみは三十分間も、まるでセンスのある人間は、批評能力のある人間は、世の中にきみしかいないみたいな調子で喋りまくったんだぜ。ぼくが言いたいのはだね、一流の批評家が何人か、そいつの舞台をすばらしいと思ったんなら、おそらくその通りなんで、きみが間違ってるんだと思うんだよ。きみ、そんなふうに考えたことある?きみの目はまだ、円熟の域に−」
「そりゃ、単に才能があるというだけの人にしては、すばらしい出来映えだったわ。でも、『人気者』をちゃんとやろうとしたら、天才でなきゃだめよ。実際にそうなんだもの−仕方がないわ」と、フラニーは言った。彼女は、少し背をまるめてうつむいた。そしてかすかに口を開けたまま、片手で頭の上を押えた。「なんだかぼうっとしてヘンな気持。どうしちゃったのかなあ、わたし」
「きみは自分を天才だと思ってるんだね?」
フラニーは頭にのせていた手を下ろした。「まあ、レーン。お願い。よしてよ、そんなこと」
「そんなこともどんなこともしやしな−」
「とにかくわたしには、自分が気がヘンになりそうだということしかわかんない」と、フラニーは言った「エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、なんでもいいからものになりたい、ひとめにたつようなことかなんかをやりたい、人から興味を持たれる人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ−ほんと、ほんとなんだから。人がなんと言おうと、わたしは平気」
その言葉にレーンは眉を上げた。そして言葉に重みをつけるために胸を張った。「まさか人と張り合うのが怖いんじゃないだろうね」ことさら穏やかに彼は尋ねた「ぼくはあんまりよく知らないけどさ、しかし、おそらくだね、精神分析のよい医者ならば−本当に有能な医者ならばだよ−そういう発言を聞いたら、たぶん−」
「張り合うのが怖いんじゃないわ。その反対よ。分からない、それが?むしろ張り合いそうなのよ−それが怖いんだわ。それが演劇部をよした理由なの。わたしがすごくみんなから認めてもらいたがるような人間だからって、褒めてもらうことが好きだし、みんなにちやほやされるのが好きだからって、だからかまわないってことにはならないわ。そこが恥ずかしいの。そこがいやなの。完全な無名人になる勇気がないのがわたし、いやんなった。わたしもほかのみんなも、何かでヒットを飛ばしたいと思ってるでしょ、そこがいやなのよ」

p156 (ゾーイー)
彼は立ち上がった。そして立ち上がりながら、フラニーの方を、つい見てしまったといった感じで、ちらりと見やった。そしてすぐに視線をそらしたけれど、それをやめて、かえってしげしげとフラニーを見つめた。フラニーは頭をうなだれ、目は、先ほどから撫で続けている膝の上のブルームバーグに注いでいる「おやおや」ゾーイーはそう言うと、いざこざを期待するみたいに寝椅子の近くへ歩み寄った。「マダムの唇が動いてますな。例のお祈りが出かかってますな」しかしフラニーは顔を上げなかった。「一体きみは何をしてるんだ?」と、彼は言った「大衆芸術に対する俺の非キリスト教徒的態度から逃避しようというのか?」それでフラニーも顔を上げた。そしてまばたきしながらかぶりを振った。彼女はゾーイーに向かって微笑した。その唇は、事実、さっきからずっと動いていたのだし、このときもなお動いていた。
「ぼくに微笑を向けるのはやめてくれよ、頼むから」ゾーイーは落ち着いた声でそう言うと、フラニーのそばを離れていった。「シーモアはいつもそれをやったもんだ。この家には微笑家うじゃうじゃいやがる」彼は一つの本棚の前で足をとめると、すこし飛びだしていた本を拇指で押して整頓し、それからまた歩いていった。そして中央の窓の所に歩みよった。この窓には窓下の腰掛けがあって、グラース夫人が請求書の支払いをしたり手紙を書いたりする桜材のテーブルと窓との間を隔てている。ゾーイーは、フラニーに背を向け、両手をまた尻のポケットに突っ込んで、口に葉巻をくわえながら窓から外を見ていた。「ぼくがこの夏、映画をとりにフランスへ行くかもしれないこと、知ってるかい?」苛立たしげに彼は言った「きみに言ったっけかな?」
フラニーは興味を惹かれて彼の背中に目を向けた。「いいえ。言わなかったわよ!それ、まじめな話?何の映画?」
ゾーイーは、道路の向かい側の校舎の、マカダム工法による補修の跡があちこちに見える屋上ごしに向こうを見やりながら言った「いや、言えば長くなるんだけどね。あるフランスのおっさんがこっちへ来てね、ぼくがフィリップで吹き込んだレコード・アルバムを聞いたんだな。二週間ばかし前に一緒に昼飯を食ったよ。人の褌で相撲をとる勝負師だけどね、好感が持てなくもないんだ。今ごろは向こうでハッスルしてるだろう」彼は窓下の腰掛に片足をのせた。「何もはっきり決まっちゃいないんだよ−ああいう連中が相手じゃ何一つはっきりしたことは決まらないんだ−しかし、ぼくの弁舌に魅せられて、奴さん、あのルノルマンの小説(訳注 フランスの劇作家アンリ=ルネ・ルノルマン。ゾーイーが言うのは精神分析を応用した一九四九年の小説『娘は娘』あたりか?)から映画を作ろうという気に半分はなってると思うな。きみに送ってやったあの小説だよ」
「ああ、そうか!すてきじゃない、ゾーイー?行くとすれば、いつ行くつもり?」
「すてきじゃないんだよ。そこがまさに問題なんだ。仕事そのものは、そりゃ嬉しいよ。たしかにそれは嬉しい。ところがだ、ぼくはニューヨークを離れるのがたまらなくいやなんたな。打ち明けて言うとね、ぼくは、機会さえあればとびついて海を渡ろうとする、いわゆる創造的芸術家なるものが大嫌いなんだ。しかつめらしい理由を言ったって、そんなもの知っちゃいないや。ぼくはここで生まれたんだ。学校へ行ったのもここだ。車に轢かれたのもここだ−二回、しかもおんなじ通りでさ。ヨーロッパへ行って俳優の仕事をやらなくたっていいだろう」
フラニーは何かを考えているふうで、そう言う彼の白いブロードのワイシャツの背中をまじまじと見つめている。だが、唇はなおも動いて、声なき言葉を唱えていた「じゃあ、なぜ行くの?そんな気持ちでいるのだったら」と、彼女は言った。
「なぜ行くかって?」ゾーイーは、後ろを振り返らずに言った「ぼくが行く大半の理由はだな、朝憤然として起床し、夜憤然として就寝することがほとほといやになったからだ。それから、自分の知ってる潰瘍持ちみたいな哀れな野郎どもを、一段高い所に立って否定しているからでもある。このこと自体は大して気にしちゃいないんだけどね。少なくともぼくは、批判するときは歯に衣きせずに批判するし、いちいちの批判に対しては、おそかれはやかれ何らかの形で、こってりと埋め合わせさせられることが分かってるからね。その点は大して気にならないんだ。ところがあるんだなあ、ぼくがダウンタウンの連中の士気に影響するようなことをやってる面があるんだよ。そいつをこれ以上見ていられなくなった。どういうことをやってるか、正確に話したっていいよ。ぼくはね、みんなが本当に望んでいるのは、良い仕事をすることではなくて、自分の知っている誰からでも−非評価とか、スポンサーとか、一般大衆とか、自分の子供の学校の先生にまで−良いと思われる仕事をやりたがっているんだと、そうみんなに感じさせているんだよ。そういうことをぼくはやってるんだ。これが僕のいちばんいけない所業だよ」彼は学校の屋根に向かって顔をしかめた。

p224 (ゾーイー)
「ぼくがどこにいようと、それに何の関係がある?サウス・ダコタ州のピエールだよ。僕の言うことを聴いてくれ、フラニー−ぼくが悪かった、あやまるから怒らんでくれ。そして僕の言うことを聴いてくれよ。あと一つか二つ、ごく簡単なことを言いたいだけだ。そしたらよすよ、それは約束する。しかし、ついでに聞くんだが、きみは知ってたかな、去年の夏、バディとぼくとできみの芝居を見に行ったんだぜ。何日か憶えてないけど、僕たちがきみの『西の国の人気者』を見たこと、知ってるかい?ものすごく暑い夜だった、それだけは間違いない。でも、ぼくたちがあそこに行ってたこと、きみ、知ってた?」
返事をしなければならないような感じである。フラニーは立ち上がったが、すぐまた腰を下ろした。それから灰皿を少し向こうへ押しやった。いかにもそれが邪魔だというふうに。
「いいえ、知らなかったわ」と、彼女は言った「誰も一言も−いいえ、わたし知らなかった」
「そうか、行ってたんだよ。ぼくたち、あそこに行ってたんだ。それからきみに言っとくけどね。あのときのきみはよかった。ぼくがいいって言うのは、口先だけじゃないからね。あのメチャメチャ舞台はきみのおかげでもったんだ。観客の中の陽に焼けた間抜けどもでもみんな、それは分かってたぜ。ところが聞くところによると、きみは芝居を永久にやめたいという−ぼくはいろんなことを聞いてるんだ、いろんなことを。シーズンが終わって帰ってきたとき、きみがやった大演説、あれも僕は憶えている、ああ、フラニー、ぼくは腹が立つよ。こんなこと言っちゃ悪いけど、きみには腹が立つよ。きみは俳優の世界は欲得ずくの奴らはダイコンだらけという、刮目すべき大発見をしたね。ぼくの憶えてるとこでは、きみは、結婚式場の案内者が天才ぞろいでないからといって参っちゃった誰かにそっくりだぜ。一体どうしちゃったんだよ、きみは?きみの頭はどこについてるんだ?きみの受けたのが畸形な教育だったら、せめてそれを使ったらいいじゃないか、使ったら。そりゃきみには、今から最後の審判の日まで『イエスの祈り』を唱えていることもできるだろう。しかし、信仰生活でたった一つ大事なのは『離れていること』だということが呑みこめなくては、一インチたりとも動くことができないんじゃないか。『離れていること』だよ、きみ、『離れていること』だけなんだ。欲望を絶つこと『一切の渇望からの離脱』だよ。本当のことを言うと、そもそも俳優というものを作るのは、この欲求ということだろう。どうしてきみはすでに自分で知ってることをぼくの口から言わせるんだい?きみは人生のどこかで−何かの化身を通じて、と言ってもいいよ−単なる俳優というだけでなく、優れた俳優になりたいという願望を持った。ところが今はそいつに閉口してる。自分の欲望を見捨てるわけにはいかないだろう。因果応報だよ、きみ、因果応報。きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のために芝居をやれよ、やりたいなら−神の女優になれよ、なりたいなら。これ以上きれいなことってあるかね?少なくともやってみることはできるよ、やりたければ−やってみていけないことは全然ないよ」

※このp156 あたりからのフラニーとゾーイーの会話ではフラニーがレーンの言ったことを全部一つ残らず否定するか意地悪を言って全てを台無しにしてしまったことを悔やんでいて、ゾーイーは、フラニーに対して心からの本心で忠告してるというよりかは、どちらかというとバディに演じるんだと言われたように、大まかに言うとフラニーがレーンに対してやってしまった事、言ってしまった事をゾーイーの自分の場合に置き換えてフラニーのやったようなことを、内容は違うけど類としては同じような意味合いを含みながら今度はそれをフラニー本人に向かってやる感じ。フラニーの罪悪感緩和のため敢えての否定口調なんだろうなと個人的にはそう思い込んでいぬ🐶

p41 (フラニー)
レーンは、蛙の脚を食べかけていたが「それにしても、さっきの本は何だい?」と、言った「人には言えない秘密か何かなの?」
「バックに入れた小さな本のこと?」と、フラニーは言った。そして蛙の脚を引き裂くレーンの手元を見守っていた。

p42 (フラニー)
彼女は言った「題は『巡礼の道』っていうのよ」そしてレーンが食べるのをちょっと見ていたが「図書館から借り出したんだけど、今学期出ている『宗教概説』っていうの、っそれを教えてる先生が挙げた本なの」彼女は煙草を吸った。「何週間も前に借り出したんだけど、いつも返すの忘れちゃって」
「誰が書いたんだい?」
「知らない」あっさりと彼女はそう言った「ロシアのお百姓さんみたい」彼女は蛙の脚を食べるレーンの様子を眺めている。

p42(フラニー)
「いいものかね?どういうことが書いてあるんだい?」
「わかんない。変わってるんだ。つまり、本質的には宗教書だと思う。ある意味では、すごく狂信的と言えると思うんだけど、ある意味ではそうじゃないんだな。初めはね、そのお百姓さん−というのが、その巡礼なのよ−これが聖書の中に、絶えず祈れとあるのはどういうことなのか、その意味を突き止めたいと思うの。ね、わかるでしょ?休む間もなく祈るんだわ。テサロニケ書かどこかにあるでしょ(訳注 たとえば「テサロニケ前書」五章十七節に「絶えず祈れ」とある)。そこで、その人はね、絶えず祈るにはどうすればいいのか、それを教えてくれる人を探してロシア全土の旅に上るの。それから祈る場合には、何と言えばいいのか」フラニーはレーンが蛙の脚を関節のところから折り取る、そのやり口にひどく興味を惹かれたみたいに、話しながらも視線はレーンの皿の上を離れなかった。

p81《ゾーイー》
Sは僕に向かってにこやかな笑顔を向けながらかぶりを振って、利口というのは僕の痼疾、僕の義足だ、こいつを指摘してみんなの注意をそこに向けさせるのは最大の悪趣味であると言ったな。びっこ同士だ、ゾーイ君、お互い丁重親切にしようではないか。愛を込めて B

p90 (ゾーイー)
彼女は苛立たしそうに身体を動かすと、脚を組んだ「第一、危険じゃありませんか!かりに、脚を折るとかなんとか、そんなことでもあってごらんなさい。あんな森の奥なんかでさ。あたしはいつもそれを心配してんですよ」

p105 (ゾーイー)
一九五五年の今では、彼女がこの恐るべきケルト式情報伝達機を使用するのは、もっぱらこの家の入り口においてであって、新米の配達係が夕食に使う羊の脚を持ってこなかったとか、遠縁にあたるハリウッドのスターの卵の結婚が暗礁に乗り上げたとか、そんな場合が多かった。

p44 (フラニー)
「とにかく、そんなことがあって、結局その夜、巡礼はそこの家に泊めてもらう。そして、ご主人とおそくまで、その絶えることなく祈る方法というのを語り合うの。巡礼はそのやり方をご主人に教える。それから朝になると、いとまをつげて、また数奇な運命の旅に出てゆく。そしてあらゆる種類の人々に会う−それだけなのよ、本当に−そうして、会う人みんなに、その独特な祈り方を教えてやるんだわ」

p46 (フラニー)
「とにかくね」と、彼女はまた話だした「スターレッツがその巡礼に言うの、もしこの祈りを繰り返し繰り返し唱えていれば−初めは唇を動かしているだけでいいんですって−そのうち遂にはどうなるかというと、その祈りが自動性を持つようになるっていうの。だから、しばらくするうちに、何かが起こるんだな。何だかわたしにはわかんないけど、何かが起こる。そして、その言葉がその人の心臓の鼓動と一体となる。そうなれば、本当に耐えることなく祈ることになる。それが、その人の物の見方全体に、大きな、神秘的な影響を与える。そこが、肝心かなめのところだと思うんだな、だいたいにおいて。つまり全般的な物の見方を純粋にするためにこれをやれば、すべての物がどうなっているのか、まったく新しい観念が得られると思うんだ」

p47 (フラニー)
「でも、大事な点はね−これがすばらしいんだ−これをやり始めた当座は、自分がやってることをべつに信じてやる必要はない。つまり、そんなことをやるのにどんなに抵抗を感じながらやるにしても、そんなことは全然構わないってわけ。誰をも何をも侮辱することにはならないのよ。言いかえると、最初始めたときには、それを信じろなんて、誰もこれっぽっちも要求しないんだ。自分で唱えてることについて考える必要もないなんて、スターレッツは言うのよ。最初に必要なのは量だけ。やがて、そのうちに、量がひとりでに質になる。自分だけの力か何かで。スターレッツの言うところによると、どんな神様の名前にも−仮にも名前なら、どんな名前にだって−それぞれ、みんなこの独特の自動的な力があるっていうのよ。そして、いったんこちらで唱え始めれば、あとは自動的に動きだすっていうの」

p48 (フラニー)
「実を言うとね、これはきちんと筋の通る話なのよ」フラニーは言った「だって、仏教の念仏宗では『ナム・アミ・ダブツ』って、繰り返し繰り返し唱えるけど−これは『仏陀はほむべきかな』とかなんとか、そんな意味でしょう-それでも、おんなじことが起こるんだ。まったく同じ−」

p60 、61(ゾーイー)
湯の中で手紙を読んでいる−というより、読み返している−時間が長くなるにつれて、手の甲で額と上唇を拭う回数が多くなり、次第にその動作が無意識ではなくなっていったのだから

p130、131 (ゾーイー)
「つまり、この考えによるとだな、祈りは、それ自体だけの力によって、口先や頭脳から、やがてのことに、心の臓にまで到達する。そうして、心臓の鼓動といっしょに動く自動的な機能と化する、と、こういうんだ。それからしばらくして、その祈りが心臓の鼓動と一体化を遂げた暁には、その人はいわゆる万象の本体に参入することになるという。どっちの本にも、これがこういう形で出てくるわけじゃなくて、東洋的筆法で語られるんだけど、肉体には、チャクラという七つの敏感な中心があって、中でいちばん心臓と密接な関係にあるのが、アナハータといって、ものすごく鋭敏強力だというんだな。こいつが活動させられると、今度はこいつがアジナという、眉と眉との間にあるもう一つの中心を活動させる−これはつまり、松果腺なんだな。いやむしろ松果腺のまわりの冷気というか−次がいよいよ、神秘論者のいわゆる『第三の眼』の開眼と来るわけさ。これはなにも新しいことじゃないんだけどね。というのは、つまり、この巡礼とその仲間たちをもって嚆矢とするわけじゃないってこと。インドでは、ジャパムといって、何世紀になるか分からぬほど前から知られてたことなんだ。ジャパムというのは、人間が神につけた名前を、どれでもいい、何度も繰り返すことなんだ。神につけた名前というより、神の化身−つまり権化だ、専門用語を使いたければ−神の権化を呼ぶ名称だ。これを長い間、規則的に、文字通り心の底から唱え続けていれば、いつか時満ちて必ずや応答があるというんだな。応答というのは正確じゃない。反応だ」

p291 《テディ》
「ぼくの身体はぼくが自分で育てたんだ。人が育ててくれたんじゃない。とすると、ぼくはその育て方を知っていたに違いない。少なくとも無意識的には。意識的な知識は、過去数十万年の間にいつしか失ってしまったんだろう。しかし、何らかの知識はまだ残ってるんだ、だって−明らかにぼくは−それを使ってるんだもの。…だが、その全体を−つまり意識的な知識を−取り戻すためには、ずいぶんと瞑想もし、頭の中のものを吐き出しもしなきゃなるまい。でも、その気になればできないことはない。思い切って開く自分を開け放せばいいんだ」

p196 (ハプワース)
父さんが神とか神意とか-父さんが怒ったり不快に思ったりしなければ、どう呼んでもいいけど-そういうものを信じてなくて、真剣に考えてないのは知ってる。だけど、この蒸し暑い、ぼくの人生で記念すべき日、名誉をかけてこう言いたい。煙草一本に火を付けることさえ、宇宙の芸術的許可が気前よく与えられなければ不可能なんだよ!

p218 (ハプワース)
ブーブーはこの頃「神さま」という言葉が信じられなくなったみたいだね。新しいお祈りにすれば、それが解決できるよ。「神さま」という言葉を使わなくちゃいけないという決まりはないんだ。それが「つまずきの石」だったら、使わなくていい。これからはこのお祈りにしよう。「わたしは子供です。いつものように、これから寝ます。『神さま』という言葉はいま、わたしの胸にささったとげです。この言葉をいつも使って、うやうやしく思い、おそらく心から大切に思っている人もいます。わたしの友達のロッタ・ダヴィラとマージョリー・ハーズバーグもそうです。わたしはふたりのことを、いやな、すごい嘘つきだと思っています。わたしは名前のない、あなたに呼びかけることにします。わたしの思うあなたには形がなくて、特に目立ったところもありません。そしていままでずっとやさしく、すてきで、わたしの運命を導いてくれました。わたしがこの人間の体を借りてすばらしい生を生きているときも、そうでないときも。どうか、わたしが眠っている間に、明日のための、間違いのない、理由のある教えをください。あなたの教えがどんなものか、わからなくてもかまいません。そのうちいろいろなことがわかってくると思います。でも、あなたの教えは喜んで、感謝して、しっかり守ります。いま、わたしは、あなたの教えがそのうち、効果と効能を発揮して、わたしを励まし、意志をかたく持つ助けになると考えています。でもそのためには、心を穏やかにして、心を空っぽにしておかなくてはならないそうです。なまいきなお兄ちゃんがそういってました。」しめくくりは「アーメン」でもいいし、ただ「おやすみなさい」でもいい。どちらでも好きな方を選べばいいし、自分の気持ちにぴったりするほうを選んでもいい。汽車の中でぼくが思いついたのは、これだけ。だけど、なるべく早く伝えようと頭の中にしまっておいたんだ。ただし、いやだったら、こんなお祈りはしなくていい!それから、自由に、好きなように、いいかえていいよ!もしこんなのがいやだと思ったら、さっさと忘れて平気だから。ぼくがうちに帰ったら、またほかのを考えてあげる!ぼくのいうことは絶対間違いないなんて、考えないように!ぼくは本当に、間違いばかりやってるんだから!

p241 (ハプワース)
とくに人間の折れた骨をいやしながらくっつける作業については熟読すると思う。だって、仮骨は信じられないくらいよくできていて、いつ始めて、いつ止めるかがちゃんとわかっている。それも骨折した人の脳からまったく指令を受けないのに。これもまた、奇妙な性質を持つ「母なる自然」のたまものだ。それにしても、いわせてもらうけど、ぼくはもうずっとまえから、「母なる自然」といういかがわしい言葉にうんざりしている。

フラニー 完

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