仏からスイス、イスラエルへ。投資の才能。エドモンド・ロスチャイルド。

Edmond Adolphe de Rothschild (30 September 1926 - 2 November 1997)

エドモンド・アドルフ・ド・ロートシルト
(祖父エドモンド・ジェームス・ド・ロートシルト)と混同しないように。
1926年9月30日 フランス、パリ出生
1997年11月2日逝去(享年71歳)スイス、ジュネーブにて

子供 :ベンジャミン・ド・ロートシルト(1963年~2021年)
両親 :モーリス・ド・ロートシルト、 ノエミー・ハルフェン

エドモンド・アドルフ・モーリス・ジュール・ジャック・ド・ロートシルト男爵(1926年9月30日 - 1997年11月2日)は、フランス系スイス人の銀行家で、1953年にエドモンド・ド・ロートシルトグループを創設した人物。彼の投資はブドウ畑、ヨットレース、農業、ホスピタリティにまで及んだ。

フランスの銀行家ロスチャイルド家の子孫。1997年に亡くなるまで、ロスチャイルド家の中で最も裕福であったと言われている。
エドモンド・ジェームズ・ド・ロートシルト(1845-1934)の孫。フランス支店の創設者ジェームズ・メイヤー・ド・ロートシルト(1792-1868)の曾孫。

エドモンドの父親であるモーリス・ド・ロートシルトが非市民(パリ市郊外の土地を新興不動産会社から購入したため、パリ・ロスチャイルド家から勘当されたらしい!)とされたため、エドモンド一家は1940年7月にフランスからスイスへの移住を余儀なくされた。モーリスは、親ナチのヴィシー政権に公然と反対したフランス上院の80人の議員の一人で、マレシャル・フィリップ・ペタンに全権を与えることに反対票を投じた。

エドモンドの父・モーリスは、一族から「黒い羊」と呼ばれたならず者。
銀行業には見向きもせず、1920年代、下院議員に当選。
上院議員になった時、国際連盟本部のジュネーブに外交団がくる。
ジュネーブ近くのロスチャイルド邸宅でモーリスがホストになり各国首脳が会談を行った。公式な会場よりも親密な会談だったそう。

1930年代 パリ市郊外の土地開発をはじめた新興の不動産会社をモーリスが購入したため、パリ・ロスチャイルド家エドモンが激怒して勘当同然!
でも、不動産業は大成功して、パリ市民から好意的に受け止められる。
モーリスは大口株主を他人にゆずってしまうけども。

第二次世界大戦のさなか、リッツのロスチャイルド邸でイギリス首脳とフランス首脳が会談。以前のホスト役が気に入られたため?ホスト役はモーリス上院議員に。
モーリスがイギリス亡命を願い出たが、フランス政府は受け入れを拒否。ド・ゴール将軍と仲が悪かったのでは?と言われている。
1942年 バハマに逃れる。

「富の王国 ロスチャイルド」池内紀 より一部抜粋・意訳

エドモンドの最初の結婚は、1958年にブルガリアのアーティスト、ヴェセリンカ・ヴラドヴァ・ゲオルギエヴァ。その後まもなく離婚。
1963年、1960年に知り合ったフランスの女優ナディーヌ・ネリー・ジャネット・ロピタリエ(芸名ナディーヌ・トリエ)と結婚。
1963年7月30日に息子のベンジャミンが誕生した。

学業を終えて間もなく、ド・ロートシルト・フレール銀行に入社し、3年間勤務。
1953年に最初の会社、La Compagnie Financière Edmond de Rothschildを設立。彼の主要な投資会社となった。

1965年にBanque Privée Edmond de Rothschildを設立。
ルガーノ(1968)、ルクセンブルク(1969)、フリブール(1989)、ローザンヌ(1992)に支店を展開。
1969年に最初のヘッジファンドオブファンドを設立。

1961年、イスラエルのクラブメッド・バカンスセンターを訪れたエドモンドは、当時倒産寸前だった同社の事業負債を清算し、投資を決意。
1973年、カリフォルニア銀行の主要株を2200万ドルで取得し、米国での投資のための持ち株会社として設立。

1982年、従兄弟のデイヴィッドの新会社ロスチャイルド・アンド・カンパニーの株式10%を取得。この投資は、従兄弟の会社がロスチャイルド家の名前の使用に関する法的紛争を解決した後、2018年まで続いた。

【エドモンドのそのほかの投資】
Banca Tiburtina(イタリア)
Banca Privata Solari & Blum(ルガノ)
Banque de Gestion Edmond de Rothschild(ルクセンブルグ)
イスラエル総合銀行(テルアビブ)
デビアス・コンソリデーション・マインズ

1973年、エドモンドは、メドック地区にある12世紀の地所、シャトー・クラークを購入。
1974年から1978年にかけて、放棄されたドメーヌを改造し、約133エーカーのブドウ畑を造った。彼は、シャトー・ラフィット・ロートシルトとシャトー・リューセックを所有する、ドメイン・バロン・ロートシルトの投資家であった。

また、18世紀に彼の祖先が取得したパリ東部の4,000エーカーの土地を所有し、主に職人技のチーズ「ブリー・ド・モー」を生産する農場ドメーヌ・デ・トレント・アルパンを設立した。

1964年、イギリスのゴルファー、ヘンリー・コットン卿が設計したゴルフコースを領地に統合。
1979年、シャレーはホテルとして改修され、シャレー・デュ・モン・ダルボワと改名された。

イスラエルとの関係

祖父であるエドモンド・ジェームズ・ド・ロートシルト男爵は、1800年代にユダヤ人開発のためにオスマン・パレスチナの土地を取得。

1950年代、エドモンドは一族の財産を新生イスラエル国家に寄贈した。1953年、彼はシーザリアの町の7,500エーカーを、イスラエル国によって共同所有される新しく作られたシーザリア・ロスチャイルド財団に与えた。この財団は、シーザリアの利益をイスラエルの教育プログラムに再分配することを任務としていた。

エドモンドは、テルアビブにあるイスラエル総合銀行に多額の投資を行い、若い国の経済に貢献した。後に彼はこの銀行の頭取となった。

六日間戦争の後、男爵は1968年にイスラエルの財務大臣ピンチャス・サピルから他の富豪とともに、いわゆる大富豪会議に招待され、イスラエル企業投資ファンドの創設に貢献した。
また、イスラエルにおけるもう一つの事業であるクラリ銀行を通じて、同国の主要プロジェクトを推進したが、1996年売却された。

エドモンドは、シーザリア開発公社とイスラエル欧州会社Isrop(ルクセンブルク)の社長を務めた。エルサレムの最高裁判所ビルの建設に貢献し、イスラエルに複数の文化・教育機関を創設した。

エドモンド・ド・ロートシルトは1997年11月2日、肺気腫のためジュネーブで死去、71歳であった。クラーク城に埋葬された。息子のベンジャミンが彼の後を継いで、エドモンド・ロートシルト・フィナンシエール・コンパニーを率いることになった。

Edmond Adolphe de Rothschild - Wikipedia

文章は、wiki英の文章を元に、一部抜粋、意訳して
自分のメモ用に、読みやすくしております。
正確性には欠けるかもなので、
より詳しくはwiki翻訳にてお確かめください。

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