法の支配とは【日本国憲法による支配】

憲法学者の小林節氏と佐高信氏の『安倍「壊憲」を撃つ』から、引用させていただいてます。法の支配という言葉は、「法律による民の支配」じゃないんですね。言葉は、使う人の導き方次第で、次第に違った意味へ変化させられていくこともあります。とりわけ、法律で扱われている言葉は難解な言葉による、わかりづらい言い回しで、私たちを遠ざけているようにも思えます。

あの方が最初に総理大臣になったとき、『美しい国へ』(文春新書)を出しました。買って読んだんですけれども、びっくりしました。「法の支配」と書くべきところを、何度も「法律の支配」と書いて憚らない。「法の支配」とは、国会でつくった法律であっても、憲法という上位法に反してはいけないということです。法の支配とは、憲法の支配なんです。ところが、「法の支配」と言うべきところを、「法律(すなわち国会)の支配」と書いている箇所がいっぱい登場する。つまり、国会は憲法を無視する…です。ぶったまげました。屁みたいな本です。大学教授式に採点したら、これは0点です。
僕が驚いた理由は、これはご本人が語ったものを本にしたのだろうと思いますが、彼の周りにそれを正せる知性と勇気のある人間がいないということです。要するに「法律の支配ではなく、法の支配です」と言ったらまずい雰囲気があるということですよね。

『安倍「壊憲」を撃つ』 小林節・佐高信 著

法が市民の誰よりも支配することがより適切である。同じ原理で、もし最高権力をある特定の人物に置くことが有利であるならば、彼らは単なる保護者となり、法のしもべとなるように任命されるべきである。

アリストテレス

1776年、アメリカ建国の際、「法の上に立つものはいない」という考え方が流行した。例えば、トマス・ペインは小冊子『コモンセンス』の中で「アメリカでは、法律が王様である」と書いている。絶対的な政府において王が法であるように、自由な国においては法が王であるべきであり、それ以外のものはあってはならない」。1780年にジョン・アダムスがこの原則をマサチューセッツ州憲法における権利宣言の第6条で明文化している。

https://en.wikipedia.org/wiki/Rule_of_law#cite_note-ari-7

「法治主義」と「法の支配」との決定的な違いは、法がしばる相手が違うということです。法治主義では、法律によって統治する対象は国民です。法律というルールを定めて行うというだけで、「法による統治」が「法治」になるわけです。
 他方で、「法の支配」によって支配されるのは権力(者)です。王様が領民を支配していても、その王様さえも法には逆らえないという仕組みなのです。

 わが国では、法治主義が採用されています。しかし、法の支配を放棄してはいません。両者は共存できるものです。
 日本国憲法の存在は、法の支配を宣言したものということができます。いかなる権力者も法の支配を体現した憲法の下にあって、憲法を尊重し擁護する義務を負うのです。

https://kenpou.chuolaw.com/?p=46

王様だって法には逆らえない、という「法」を、日本は「日本国憲法」として持っている。普段はあまり意識しないけれど、憲法のおかげで、私たちの人権は尊重されている(はずなんだけど)。
いま、ワクチンキャンペーンのおかげで、個人の人権が脅かされていることに気づきつつある人が増えているように思います。
マスメディアが報道しないため、大多数の国民が知らない間に、(平成19年5月18日)「日本国憲法の改正手続に関する法律(憲法改正国民投票法)」が公布されました。
もう一度、みんなで考えていかないと。
このままで、本当にいいかどうか。

憲法というのは、そもそも国家権力から国民を守るという前提があるから、国民に人権を与えて、国家権力はそれを守る義務があるわけです。万一、権力を濫用して国家権力がフライングしてきたときは、国民が人権侵害だとして押し返せるように、国民の側に、身を守るための人権を保障した。(略)

憲法の権利にはすべて義務がセットでついているということです。権利ばかりではないんですよ。憲法12条と13条を見ればわかるように、権利には「濫用しない義務」「公共の福祉に従う義務」が付いています。公共の福祉というのは、われわれが共存共栄するための安全な社会や環境をいう。わかりやすく言えば、いくら運転することが幸福追求権の行使だとしても、暴走族になって交通の安全を壊してはいけないというような話です。

だから、いかなる人権も公共の福祉には従う義務がある。そういう意味では、すべての人権に義務は対応している。

『安倍「壊憲」を撃つ』 小林節・佐高信 著

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