沼っている人を祝福できるか?

なにかにのめり込んでいることを「沼っている」ということがある。沼にハマる、とかそんなところから派生して使われている言葉だと思う。

ときに恋愛的に相手に沼る人もいると思う。
好きな人に尽くすことの快楽と、その幸福感は言葉で表せない。

しかし、恋は盲目、という言葉もある通り、判断力が鈍ることがあるのもまた事実だと思う。
好きで好きでたまらない人の言うこと、信じるもの、その価値観への疑いは薄く、薄くなっていく。
ときにそれは多くの人からは疑われるものであったとしても。

それほどまでに、「沼っている」とは大きな引力を持って引きずり込んでいる。

本来なら、その幻惑から目を覚まさせることが友人としてすべきことだと思う。
でも、その関係の外側から、声をかけて夢を覚ますことはあまりにも大変だ。きっと当人からしたら、悪役になるだろう。本人のためにしていることだったとしても、感謝されずにむしろ恨まれる。どんなに多くの人が間違っていると思う道だったとしても、当人からすれば正しいと信じている道だから。
はっきり言ってやり損だ。

でも、私と何かしらの縁があった人、不幸になってほしいわけがない。戻れる道ならまだしも、進んだら崩れてしまう道もある。
何とか引き戻せないかと、思っていた。


別の友人からは「本人が選んだわけだし、幸せならそれでいいでしょ。」と言われた。ネットミーム「幸せならOKです」をここで使うのは乱暴な気もするけれど、人の幸せを私が決めることはできない。
「それは不幸だ、やめろ、戻れ」というのは自己満足な気がしてきた。
踏み外して、初めて学ぶこともある。見捨てる、という言い方をすると、薄情でしんどいけれど、人の幸せを決めることは、もっとできなかった。

強くない私は、踏み外していく(と私は思う)友人のことを見ていることはできずに、そっとフォローを外した。
どうか、どうか幸せであってほしい。