「君の膵臓をたべたい」はただの気色悪いセリフなのか?

昨日、君の膵臓をたべたいの放送があったそうだ。そのためタイムラインではツイノオタクたちは賑わいをみせていた。なぜ伝聞形式なのかというと僕自身、昨日放送されることはを知らずにいたからだ。昨日放送されると知っていたら一昨日、君の膵臓をたべたいをみたくてkis○anime部の深夜練に励むことはなかっただろう。

ここで、なぜ僕が筆をとることになったのかその経緯について話しておこう。前述の通り意外なことにオタクがこぞって視聴していた君の膵臓をたべたいだが、その結末の唐突さから賛否両論を呼んでいる。実際のところ賛否両論といかないまでも「微妙」という感想が多い気がする。たしかにこの作品を擁護する身としてもその気持ちはわかるのだ。その原因はエクスタシーに起因する。これから結末に向けてドンドンと気持ちが高まって気持ちのいいところで死ぬぞ(イクぞ)という状態の時に作中の要素と全く関係のない理由で唐突に死(絶頂)を迎えられたらそりゃオタク(大股を広げ感じてきたところの女性さん)は「そりゃないぜ」と落胆の色を隠しきれないだろう。ただこの作品は夜の営みではないのだ。したがって、その限りではない。つまるところ、なにを重視しているのかだ。死を迎える時間よりも、死を意識した心の変化や死後のシーンを重視したのだろう。(ピンポンでも決勝戦の、どうなるんだってシーン割愛してその後の時間に充ててたよね。正直展開なんてわかりきっている時は多くを語らないのが美しい(オタク特有の地蔵スタイル)と思うから独自性を感じてそういった表現には好感を持てる。まぁ、君の膵臓をたべたいにおいては予想を裏切られたという意味で評価をしている。凡庸からの逸脱を目指しているようでいいよね。まるで本物を獲得しようと足掻き、もがいているようで....それはきっと本物であろうとしている分本物よりも....)

考察するほど真剣に本作品を視聴していなかったためもっと多いかもしれないが、作中では2つの書籍が登場する。「こころ」「星の王子さま」だ。こういったフィクションは風景やモノはすべて意図して描写されているわけで、だからこそそこにはメッセージが潜んでいる。この2作品を踏まえて考察していきたい。

まずクォクォロ👽いや、「こころ」についてだが、てんじくんは教科書で習った以上の知識を持ち合わせていない。ただ、人のこころの移ろいや移りゆくさまを描写した作品だとブロガーさんが言ってた。だからそういうことなのだろう。知らず識らずに主人公の心境に変化が起きて、「ぼく」を知らぬ間に変えたもの(荒ぶる季節の乙女どもよ5話"私を知らぬ間に変えたもの"ではない)が「キミ」であるということだ。他者から見た自分を固定して、関わりを諦めていた主人公はいつのまにか「キミ」と関わりを持ち、その「こころ」の変化を自覚していく。そんな様がこの「こころ」がこの作品に登場した理由だろう。「こころ」に関してはあまり詳しくないのでこのくらいで勘弁してほしい。(僕が人間の心に触れたことがないため理解できないというのは本考察に関係がないため割愛させていただく)

そして肝心なのは「星の王子さま」についてだ。そもそも作中において主人公の名前が呼ばれることが終盤に明かされるまで全くない。そのため作中では「ボク」、「キミ」などで代用されている。この構図は星の王子さまと同様でそのリスペクト具合が伺える。だからこその「君の膵臓をたべたい」なのだ。

やや論理が飛躍したので順を追って説明したい。まず、「君の膵臓をたべたい」に至るまでの脈絡として主人公は「キミ」をとても尊敬していて爪の垢でも煎じて飲みたい気分だった。しかしながら自分たち2人の関係においてはより適切な言葉があることに気づいた。それが「君の膵臓をたべたい」なのだ。これは体の不調を治すには、不調部位と同じ部位を食す「同物同治」という中国の薬膳思想に基づいている。だから「君の膵臓をたべたい」なのだ。キショいと感じた人、ちょっと待ってほしい。ここで寛容なのはこの2人にとってこの言葉がこの上なく適切だという点だ。

これがどう星の王子さま(以下スタプリ)と関連しているのかといえばこれがもうそのままなのだ。スタプリにおいて、ぼくとキツネが会話するシーンがある。通常であればキツネは友達になってよというところで、「ぼくを飼いならしてよ」とほざくのだ。これはなにも翻訳ミスではなく、原著準拠の結果である。原著ではapprivoiser(アプリヴォワゼ)とされており、なんだか銀河美少年になってしまいそうな響きだ。僕もキミスイちゃんのキミスイちゃんをアプリヴォワゼしたい。

スタプリの主人公ボクは旅の過程でキツネと出会う。そしてキツネに「飼いならしてよ」と言われるのだ。友達になってよ、仲良くしてよでもなく飼いならしてよ、その真意はなんなのだろうか。なにもこの一文は翻訳ミスでもなんでもない。原著準拠の結果なのだ。原著ではapprivoiser(アプリヴォワゼ)とされていて、つい銀河美少年になってしまいそうな響きだ。僕もキミスイちゃんのキミスイちゃんをアプリヴォワゼしたい。

通説ではスタプリ作者はこの一文に何か特別な意味を込めたと言われている。そもそも星の王子さまは俺ガイルにおいても、とある巻で主テーマとして扱われたことのある書籍だ。何を隠そうてんじくんも俺ガイルをより深めるためにスタプリを読んだのだ。それほどの本質文庫であるスタプリの一文「ぼくを飼いならしてよ」これはとてつもなく本質の...

いや––––––––本物のかほりがする。

僕なりに自分の中にあるこの一文の解釈としては適切な距離の模索だ。端的に言うととても簡素だが、様々考えた結果である。主人公はそもそもバラと喧嘩をして旅へ出た。その過程でキツネと会いこの一文をもらっている。バラにはトゲがある。だから傷つけ傷つかない適切な距離を見つけて付き合う必要があるということだ。ミサトさんも言っていたことだが現代で換言するところのヤマアラシのジレンマに他ならない。自分の中の相手に向けた様々な気持ちを飼いならし、反芻し、関係性を飼いならす(コントロールする)それが飼いならしてよの一文に込められた思いなのだろう。

そう考えるとどうだろうか。「君の膵臓をたべたい」はなんともバックボーンがあって深みのあるステキ用語に思えてくる。少なくともそんな作者の意図が汲み取れてなかなかいいジャアン👌👽👌と某貝塚モグラに随分上から目線やね😎とツッコミを入れられそうな感想がでてくるはずだ。そう信じたい。ゾット帝国よりは面白いだろうしこの辺でご勘弁ください。実写版も結構いいそうなので今度見たいと思います。今日はこの辺で🙋‍♂️


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?