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漢字の画数問題(1):旧字派と康煕派

●康煕字典が唯一の字書ではない

旧字派と康煕派は康煕こうき字典じてんにこだわりがあるようです。百科事典によると、康煕字典は「康煕こうき帝の命を受けた30余人の学者が5年がかりで編纂した」ものだそうです。

なるほど、字書として信頼性が高いのはわかりますが、姓名判断的に最も信頼できるという理由がはっきりしません。なぜなら、康煕字典が唯一の字書ではないからです。

中国で作られた字書は、主要なものだけでも、周の時代の「史籀しちゅう篇」、秦の時代の「蒼頡そうけつ篇」、後漢の時代の「説文せつもん解字かいじ」、宋の時代の「大広益会玉篇」 などがあるそうです。

●中国最古の字書「史籀篇」

まず「史籀篇」ですが、周の宣王の時代にちゅうという名の人物がいて、この人が「史籀篇」と呼ばれる文字の教科書を作ったそうです。中国で最古の字書とされ、ここで使用された書体が大篆だいてんです。したがって、古さにこだわるなら、この「史籀篇」に依るべきでしょう。[注1]

●最初の文字の統一「蒼頡篇」

時代が下って、秦の始皇帝に仕えた李斯りしという人は、小篆しょうてんという新しい書体を考案しました。それまで使用されていた大篆の書体が複雑だったので、字形を簡略化したのです。紀元前200年頃のことです。「蒼頡そうけつ篇」はこの書体を教えるための教科書だったそうです。

戦国時代には各国で異なった書体が使われていましたが、秦が統一国家となった後、地域によって文字が違っては何かと不都合です。そこで始皇帝は全国の書体を統一しようと、標準的な書体の作製を李斯に命じました。最初の文字の統一ということに重点を置くなら、この「蒼頡篇」に従うべきでしょう。

その後、役人たちは小篆をさらに簡略にした書体の隷書れいしょを考案します。[注2]

●最古の本格的な文字学研究書「説文解字」

そして、最古の本格的な文字学研究書が登場します。許慎きょしんの著した「説文せつもん解字かいじ」です。許慎は後漢の時代の儒学者で、紀元後100年頃の人です。

当時、隷書の字形にもとづく、漢字のまちがった字義解釈が世間に横行していました。彼はこの俗説を批判し、小篆などの古代文字にさかのぼって、漢字本来の意味を研究したそうです。古典を正しく理解するには、漢字ひとつひとつの正確な意味を明らかにする必要があったからです。

●その他の重要な字書

ついで、晋の呂忱りょしんによって「字林」が撰述されました。これは許慎の「説文解字」を増補したもので、唐の時代には「科挙」の試験科目にも指定されています。それだけ信頼性が高かったということでしょう。

さらに543年には、梁の武帝の勅命を受けた顧野王こやおうが、混乱しかけていた漢字の使い方を整備するため、「玉篇」を撰述しました。

ただ、これは注釈が詳しすぎたため、時代とともに簡略化されていき、宋の時代1013年に「玉篇」の決定版が作られます。それが、真宗皇帝の勅命を受けて陳彭年ちんほうねんらが編纂した「大広益会玉篇」です。

●旧字派と康熙派に対する同業者の批判

こう見てくると、康煕字典だけを特別扱いする理由はなさそうです。姓名判断的には康煕字典よりもっと典拠として相応しい字書が他にあってもいいのでは、という疑いもでてきます。

そこで、易学者の高木乗氏は次のように批判します。

漢字の如きは一つの形象にすぎないから、「康煕字典」の文字が絶対の真、うごかすことのできぬ山嶽の如きものではない。・・・ 故に字画なるものは、その場に現れたものを取り、書くがままの画数を取ったのでよく、何も「康煕字典」の画数を金科玉条にして、その画数に合致しないものは凶数だとする論理は無い。

『姓名占象法講座』(高木乗 述、命理学会、昭和8年〔1933年〕)

もちろんすべての字書で同一の文字が画数も同じなら、どの字書に頼ってもいいわけですが、そうでないから厄介やっかいです。高木氏は「康煕字典」と顧野王の「玉篇」では画数の異なる文字がたくさんあると語っています。

「玉篇」は「康煕字典」のもとになった字書のひとつなので、これは旧字派や康煕派にとって困った状況です。なぜ康煕字典による画数は正しく、玉篇のそれは間違っているのか、理由を説明しなければいけません。

また、現代の漢字を大篆、小篆などで書くと、やはりその画数が違ってきます。大篆、小篆は「史籀篇」「蒼頡篇」で使われている古い字体です。

●画数を決められない古代文字

同様の意見はほかにもあります。山口裕康氏の批判は、特に康熙派に向けたものですが、およそ次のような内容です。

漢字の「かんむり」や「へん」などについて、近ごろ珍説がある。「さんずい」は水で四画、「りっしんべん」は心で四画、・・・ として漢字の画数を計算するというのである。実にばかばかしい話で、素人だましの盲説といわざるを得ない。漢字の起源にさかのぼって論議するならば、古来、漢字の構成や使用について論じる「六書」について説明せざるを得ないだろう。

たとえば、日(4画)は□、□、□の「象形」からなり、上(3画)は□、□の「指事」からなっている。だが、こんな考え方をしたら、漢字の画数問題は収拾がつかなくなるのは明らかだ。文字の画数を論ずるときは、現在使用している形態にその根拠を置くべきである。

『名相と人生』(山口裕康著、東学社、昭和11年〔1936年〕)

山口氏が指摘するように、字書が編纂されるよりもっと前の時代には、甲骨文字とか金文といわれる文字がありました。今のところ、殷王朝の晩期(紀元前1300頃~1000頃)に使われた甲骨文字が、現存する最古の漢字だそうですが、金文もやや遅れて使われるようになったそうです。金文というのは青銅器に刻まれた文字です。

甲骨文字や金文は下図のような字形をしているので、画数の決めようがありません。おそらく、この時代には画数などという概念さえも無かったでしょう。

こうしたことを知れば知るほど、「なぜ康熙字典か?」という疑いが強くなってきます。[注3]

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[注1] 史籀篇
 「史籀篇」の実物は現在に伝えられておらず、具体的な内容もほとんど分かっていないという。確かなことは、周の宣王の在位を考えると、紀元前800前後のものとされる。

『漢字のベクトル』(阿辻哲次著、筑摩書房)

[注2] 隷書
 小篆は、大篆に比べれば簡略だったが、役人が大量の文書を迅速に作るには、書くのに時間がかかりすぎて不便だった。そこで役人たちは、必要に迫られて、より簡略な隷書を考案した。秦の時代の初期から、皇帝の詔勅を記す場合を除いて、一般の文書では隷書が使われていたという。

『漢字のベクトル』(阿辻哲次著、筑摩書房)

[注3] 康熙派に対する批判
 同様の批判はほかにもある。例えば、『姓名学大全』(大隈博誠著)には大要、次のように書かれている。(読みやすいように、文意を損ねない程度に書き換えた)

「字画の数え方は、さんずい、手へん等は三画、草かんむり、しんにゅう等は四画に、すなわち現実に即して計算するのが最も的確かつ正当である。業界の一部には、あくまでも康熙字典に準拠して、「さんずいは水、手へんは手なのでどちらも四画、草かんむりは艸なので六画・・・とするのが正当だ」とする説があるが、ほとんどの姓名学者は前者が正しいとし、後者の説を採用していない。私もまた前者が正しいと考える。」

「その理由は例えば、さんずいの原義は水に違いなく、したがって字霊は水であるが、それは漢字の意義を観察するときの話である。現実にはさんずいを三画に書いている以上、形態を観察するときは、必ず三の数の絶対的支配を受けるのが自然の道理である。」

『姓名学大全』(大隈博誠著、昭和10年〔1935年〕)

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