このテーマは『発掘!「現代の姓名判断」の起源(10)』で完結する予定でしたが、急遽、追加することにしました。ネット上で次のような記事を見つけたからです。これは大きな間違いなので、見過ごすわけにもいきません。
前半の「姓名判断の理論の基礎的内容は熊﨑健翁によって広く世に広められ・・・」は、まぁ許せるとしても、後半の「明治時代の易者・林文嶺と言語学者・永杜鷹堂が理論化したものを・・・」には大いに疑義が有ります。
そもそも 林文嶺、永杜鷹堂とは何者でしょうか。それが分かると、この説の疑わしさがはっきりします。
●林文嶺と永杜鷹堂の人物像
まず林文嶺ですが、明治期の「観相家」として知られている人です。「観相」とは人相術のことで、顔面に現れた血色や気色から、その人の運勢を占うのです。
現存する秘伝書(写本)はいずれも人相術であり、易についての著作は無いようです。となると、肩書きとして相応しいのは、「易者」ではなく、「観相家」でしょう。[*1] [注1]
次に永杜鷹堂(鷹一)ですが、一時期、熊﨑健翁氏の門人だった人です。上記の誤った説からは、あたかも熊﨑氏より大先輩のような印象を受けますが、事実はまったく逆で、ときには熊﨑氏の使い走りのような役目もしたくらいです。
永杜氏は同業者の根本円通氏を何度も訪問しており、その際に滑稽なやりとりがあるのですが、長文になるので注記を参照ください。[*2] [注2]
根本氏が「熊﨑式姓名判断」の暴露記事を出版すると知って慌てた熊﨑氏が、永杜氏を根本氏のところに差し向けて、出版を思い止まらせようと奮闘する場面です。
ところで、永杜氏は師匠の熊﨑氏から離反した後に『運命の哲理』を出版しますが、彼の著作はこれ1冊のようです。この中で姓名判断についても書いていますが、一読して熊﨑式をベースにしていることは明白です。[*3] [注3]
以上のことから、林文嶺、永杜鷹堂を姓名判断の元祖とする説は、まったく根拠のないものであることがわかります。
●「とんでも説」の出所
では、一体どこからこの誤情報が出てきたのでしょうか。残念ながら、この説には出典が示されていません。が、推測はできます。実は永杜氏の『運命の哲理』の中に、このような誤解を招きかねない表現があるのです。
『運命の哲理』には、永杜氏の弟子らしき人物による注記があり、その中に過剰なまでの粉飾表現が出てきます。
たとえば、「(永杜氏は)熊﨑健翁の学術顧問として待遇され・・・」とか、「「熊﨑式姓名学」の完成者たるのみならず、広く近代運命学界に貢献されたる大先達・・・」などといった記述です。[注4]
おそらく、これを読んだ誰かさんは、「ははぁ、永杜鷹堂という人は熊﨑健翁の大先輩で、姓名判断の技術指導をしたに違いない」と誤解したのでしょう。
悪意はないとしても、罪な文章ではあります。永杜氏を理想化した表現だったのかもしれませんが、「嘘」は感心しませんね。
また、林文嶺と永杜鷹堂との関係については、「(林文嶺)翁は・・・「運命の神」と称された林流の開祖にして、易・相・四柱の学に蘊奥を極め・・・(永杜氏は)林流の宗家を相続され・・・」などと注記しています。
冒頭の誤った説(「易者・林文嶺と言語学者・永杜鷹堂が理論化した ・・・」)は、事実関係が不明なこの辺の記述をもとに、憶測したのではないでしょうか。[注5]
いずれにしても、人騒がせな「とんでも説」でした。やれやれ、このテーマも今度こそ完結できそうです。