安物時計の防水機能が効果を発揮した話

ぼくは、腕時計をしない。しかし、高校の山岳部に入ると、時計が必要となった。行動を全てメモするからだ。そこで、量販店に行ってもっとも安い、20気圧だかの防水の時計を買った。カシオだったかシチズンだったか。文字盤はくすんだ朱色、ゴムのベルト、それで3000円だった。まだ消費税導入前である。それからは、学生ズボンの右前ポケットに入れて毎日使っていた。

半年経ち、10月に「追い出し山行」として巻機山(まきはたやま)に行ったときのことだ。土曜に幕営地に入り、本来ならばテントで寝るのだが、ぼくとKは外で寝た。銀マットだけ敷いてシュラフに入って寝る。これをぼくたちはビバークと言っていた。六人用テントに5人、6人と無理矢理入るよりも、一部の部員はのびのびできるビバークを好んでいた。時計をポケットに突っ込み、星空の下で寝た。

朝露にシュラフを濡らしながら(それは承知済みである)起きると、時計がなくなっていた。周辺をさがしたが見つからなかった。仕方なく、その日は時計がないまま巻機山に登った。

帰宅後、やむを得ず新しい時計を買った。同じものはもう売っていなかったので、文字盤が黄色の、やはり防水の、やはり3000円の時計を買った。この時計はなくさなかった。

* * *

それから2年が経った。ある日、Kが「お前、1年のときに巻機山で時計を落としたよな?」と言った。ああ、落としたよ。それがどうかしたか? …Kは、部活とは別口で巻機山に行ったと言っていた。もしかして。

「これか?」

ベルトはなくなり、土が溝に入り込んではいるが、半年間だけいっしょにいた時計がそこにあった。こんなことってあるのだろうか。さっそく電池を入れ替えると、見事に動き出した。さすが、防水の時計だ! 以後、ベルトはそのままにして、懐中時計のように、また学生ズボンの右前ポケットに収まった。黄色い時計には申し訳ないが、保管することにした。

* * *

さらに1年半が経ち、ぼくは東京の大学に入った。やはり時計はズボンの右前ポケットに入れていた。授業中は机の上に置いていた。ところがある日、なくしてしまった。置き忘れたのか、ポケットから落ちたのかはわからない。なくなったものはどうしようもない。黄色い時計を使うか。

しかし、これもいつしかなくしてしまった。次もやはり3000円、いや3090円の防水時計を買った。そして次第に時計は持ち歩かなくなってしまった。時計なんかそこら中にあるし、必要とあらば歩いている人の腕の時計を注視すればよい。

やがて携帯電話を持つようになり、ついに腕時計をもつ必然性がなくなって今に至っている。







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