見出し画像

第2話

2.カーストトップの女

「あんなのは、気にしなくていいのよ。部活をやってればそんな暇ないから。今からグラウンドの申請書をだしてくるから、明日から練習を始めようね。市川一華も探して、声かけておくわ」
 翠が憂惧するのも気に留めず、深雪は朗らかだった。
 市川一華の〝クロス〟を持って翠は帰路についた。

 クロスは案外軽くて、ステンレスの柄はひんやりと冷たい。妙に手に吸い付くような気がするのは、使い慣らされた道具だからだろうか。頭の部分は白いプラスチックでできていて少し泥がついている。網の部分は擦り切れて今にも紐が切れそうだ。
 深雪は虫取り網と変わらないと言ったけど、そのシルエットは虫取り網よりもよっぽどシュッとしている。市川一華はこれを使って、どんな練習を積んできたのだろうか。
 
 あすなろ橋に差し掛かったとき、誰かが柵に寄りかかって本を読んでいるのが見えた。西日に照らされたのは、黒髪ストレートの長い髪。嫌な予感がして翠は目を凝らした。
 クイーン・潤だ。
 よく見ると潤は本のページをめくってはちぎり、橋の下に捨ているのだ。川のうえには無数の紙の切れ端が風に揺られて舞っている。
 翠はそのうちの一枚を目で追った。じぃっとみていると、揺れ動く物体の焦点が合ってくる。

『試合中はクロスを持って、何歩でも走っていい』
 ハネとめはらいをしっかり書く几帳面な字が見える。あれは深雪のルールブックだ。胸がどくどくと騒ぐ。
 慌ててその場に座り込み通学バックを漁るが、やはり、深雪に押し付けられたはずのルールブックがどこにもない。
「なんで……」
 このとき熱い血が体中を駆け抜けていくような感覚があって、翠は普段では考えらえないような行動をとった。足をもつらせながら潤のもとまで駆けていき、袖を掴んだのだ。

「やめて」
 北風が吹いて翠の声はかき消された。川の上で揺れていた紙が、風に押されて一気に川下に流れてゆく。
「は?」
 風に攫われる長い髪を抑えながら、八ヶ崎潤は虫を見るような目で翠をみた。
「どうしてこんなこと」
 翠はクロスを胸の前で握り締めて、逃げ出しそうになるのを堪えていた。
 誰かに意見するなんて、生まれて初めてのことだった。それも、天上天下唯我独尊のクイーンに対して。今にも恐怖で心臓が口から飛び出しそうだった。

「むかつくんだよ」
 潤は気怠そうに息を吐いた。
 翠は痛いくらいに唇を噛んだ。握った拳が震えていた。脳裏に、深雪のはにかんだ笑みが浮かぶ。
――仲間と全日に行くのが夢なの
 将来一流のラクロッサーになる市川一華とともに練習を積んで、仲間を集めて、全日とやらを目指す……そうやってあの人は新しい世界に一歩を踏み出そうとしている。それを奪い取っていい理由なんて誰にもないはずだ。

 翠はあすなろ橋のふもとから土手を伝って川に降りた。
 ブレザーを脱ぎ捨て、スカートのすそを結び、クロスを両手でぐっと握った。川に足をつけ、その冷たさに唇を噛む。勇んだ心が萎みかける。川底には大きめの石が転がっていて足元は心もとない。川の真ん中までくると、水は膝のあたりまで迫っていた。

 ひらひらと宙を舞う紙は全部で十六枚。水の中に落ちて、緩やかに流れていく紙が七枚。その全部に、深雪の書いたメモが加えられている。

『サッカーコートとほぼ同じ大きさ。体力必要!』

 翠は弧を描くようにクロスを振って、一枚の紙を捕まえた。

『大雨なら決行。雷なら中止らしい』

 そのときまた強い風が吹いて、紙きれはバサバサと音を立てて川下へ舞ってゆく。翠は目をこらし、それぞれの紙が落ちてくる軌道のさきに回り込んでクロスでひっかけてひきつける。

『最低十人必要。二年の春までに最高の仲間を集めるぞ』

 空に舞っている最後の一枚を追いかけようと川のなかで足を動かすと、大きな岩に躓いて胸を川の水に打ち付けた。びしょびしょになったワイシャツが肩に張り付いて身体が粟立つ。
 翠は川の中に四つん這いになって、奥歯を噛みしめた。やっぱりだめだ。
 もしかすると深雪となら、うまくやれるかもしれない、なんて。やっぱり甘かった。
 大事なルールブックをこんなにされて、怒らない人なんていない。深雪のことをなにも知らなくても、書き込まれた文字からラクロスへの憧れと思い入れが伝わってくる。私なんかに、私みたいなどうしょうもないやつに関わらなければ、大事なルールブックをこんなことにされなくて済んだのに。

――ラクロスしてたら、友達なんてあっという間にできるよ。ほら、私がひとりめの友達!

 深雪の希望に満ちた笑顔を思い出して心臓が握りつぶされる想いがした。
 深雪はこんな自分でも友達といってくれた。友達っていうのはどんなふうに、その想いを返すんだろう。どうやったら一緒に肩を並べて笑えるんだろう。わからない。そんな努力、したことないから――

 翠は鼻水を啜って立ち上がった。滲む瞳を拭い、水面に浮かんでいるルールブックの切れ端をみつめた。同等といかなくても、せめて迷惑だけはかけないようにしたい。
 既にもっていた切れ端を口にくわえ、翠は再びクロスを構えた。川の流れをじぃっと見つめ、紙が流れる軌道を読む。重たい脚を持ち上げてその軌道の先に回り込みクロスで掬う。
 最後の一枚まで、それを繰り返した。

 全てのページを拾い集めて川岸にあがるころには、既に陽が傾き始めていた。水の滴る制服のまま土手をのぼると、橋のところに人影がみえた。
 まさか潤かと思ったが、柵に片膝を立てて座っていたのは、木の上のやかんの女。昆虫王ヘラクレスオオカブト。市川一華だった。

「二階堂翠。やっぱり、面白い」一華は楽しくてたまらないというように、のけ反って天を仰いだ。
「見てたなら、手伝ってくれてもよかったのに」
「だって面白いんだもん、クロスをそんなふうに使う人、見たことない」
 一華がけらけら笑いながらいうので頭痛がした。
「全部集めたの? すごいね」
「半分くらい水に浸かった。もう読めないかもしれない」
「ルールブックなんてもういらないよ。ラクロスのことは、あたしが全部知ってる」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題? なんで泣いてたの」
 翠は答えられずに口ごもった。深雪のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。深雪の夢と情熱の詰まった、大事なものを失ってしまったのだ。どうしたら償いができるだろう。

――仲間と全日に行くのが夢なの

 方法はひとつしかないと思った。
「あなたがいれば、全日ってところにいけるの」
「言ったはずだよ、あたしは世界最強になるって。全日って、日本一の大会のことでしょ。あたしにとっちゃ通過点だね」
 随分自信たっぷりに言うものだ。翠を焚きつけるためにうそぶいているとしても、信じ込みそうになる。こういう人間をカリスマと呼ぶのかもしれない。
「そこにはなにがあるの」
「行ったやつにしかわからない。目指してないやつにはどうあがいでも見られない景色。やるならてっぺん目指さなきゃ、やってる意味がないんだよ」
 一華の目には躊躇いがない。もしかしたら翠をその気にさせようだなんて気はさらさらなくて、ハナから一番になること以外眼中にないのかもしれない。
「なにに悩むことがあるの?」
 翠の心を読みとるみたいに、一華がいった。
 たぶん群青女子高ラクロス部には今、前代未聞の高波が来ていて、波に乗るか乗らないか自分の意志ひとつなのだ。深雪の想いに応えるには、これしかない。
「本当に、ヘラクレスくれるの」
 翠が顔をあげると、一華の瞳が獲物を捕らえる肉食獣のように光った。夕日に照らされた肌は赤黒い光沢を放っている。
「あたしは嘘をつかない」
「私走れないから、マネージャーだよ」
「マネージャー? 笑わせないで。その目があれば、どんなボールでも捕れる。あたしと世界最強になろうよ」


 翠は呼吸が乱れないようにゆっくりと、二年F組までの廊下を歩いていた。二日連続で教室にいくのは、高校にあがってから初めてのことだ。緊張していないといえばうそになる。潤に会うのも怖い。それでも今日だけは行く理由があった。

「おはよう」後ろから深雪が追いついてきて横に並んだ。
「昨日の放課後ずっと市川一華を探してたのに、どこにもいないの。本当に転校してきたのかな。そうそうルールブック読んだ? 結構難しいよね」
 翠は目の端で深雪の顔色を窺って、どう切り出そうか悩んだ。
「ご、ごめん。なさい。あの、ルールブックはこんなになっちゃって……」
 翠は声を震わせながら、言った。深雪はしばらく、瞼を瞬かせた。
「こんなの、いいよ! また買えばいいんだから! 読みにくかったでしょ、ルールブックってそういうもんだよね」
 深雪はにっこり笑っていうので、翠は眉間に力を入れて込み上げるものを堪えていた。

「だいたい、覚えた」
「え? もう?」深雪はロッカーに鞄を押し込みながら、大きな瞳を輝かせた。
「すごい。私は随分苦労したのよ。審判のシグナルが覚えられなくて」
「そんなの試合中に見る余裕ないはずだよ」
「試合、みたの? どの配信動画? 今度見るときは言ってよ! 電話つなげて一緒に見ようよ」
 深雪がはしゃぐのが気恥ずかしくて俯いてしまう。こういうときどんな振る舞いをするのがよいのかわからない。長年友達をつくることから逃げてきた、これはツケだ。
「うるさいな」
 和やかな雰囲気を凍り付かせるような、どすの効いた声がした。顔をあげると、教壇に座っていた潤が、近づいてくるところだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?