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第3話

3.ハエより遅い

「なに睨んでんだよ」
 気づいたときにはシャツの襟首を掴まれて、持ち上げられていた。睨んでいたつもりはないけど、翠の高さから潤を見ようとすると、確かに睨み上げるようなかたちになる。
「八ヶ崎さん、やめて。先生くるよ」
 深雪は狼狽えながらも、潤の手を翠から剥がそうとしていた。
 翠は胸倉を掴まれながらも不思議と、恐怖を感じていなかった。むしろ、心に宿しているのは怒りだった。この女は、深雪のルールブックを盗んでハサミで切り刻んで、川に捨てたのだ。思い出しただけで全身の血が沸々と煮え立つ。誰かのために怒るというのは、初めてのことかもしれない。

「あんたの心はトビズムカデの生息場所よりも薄汚い」
 翠、と深雪が宥めたときにはもう遅い。潤は翠を力いっぱいひきつけて、シャツで首を絞めあげた。翠はひゅっと喘いで、息が詰まるのを感じた。教室の空気は一気に張り詰めた。

「やっとみつけたよぉ! 二年F組!」
 素っ頓狂な声とともに、ドアががらりと開いた。深雪があっと声をあげる。ドアから春の嵐のような風が舞い込んできて、かちこちに固まった教室の空気を窓から押し出していった。
「誰だよ。お前」
 私のなわばりになんの用だ、と、翠にはそう聞こえた。
「あたしは市川一華」
「何者なんだって聞いてんだよ」
「転校生でしょう、どうみても!」
 一華の声は教室を震わせた。時と所と場面に応じて振る舞いを使い分けるということを、まるで知らない人間のようだ。
「だったら大人しくしてろよ」さすがクイーン潤は嵐の転校生に臆することなく彼女の前に立ちはだかった。翠は突然手を放されて、床に尻もちをついたまま咳こむ。深雪が慌てて駆けよって意味もなく背中をさする。

「How come?」
 木の上や橋の上にいるときは気が付かなかったけれど、市川一華はものすごく大きい人だった。肉付きのよい潤がまるで華奢な少女に見えるくらいの、日本人離れした体躯。
「なんなのお前」
「へぇ、いい肩だね。ラクロスやろうよ」
 一華は両手を潤の肩に置いて、三角筋を揉んだ。元来、人の話を聞かない人間なのだ。
「触んな。ラクロスなんか死んでもやるか。放せよ……!」
 潤が顔を青くして力任せに振りほどこうとしても、一華はびくりともしない。

 ヘラクレスオオカブトに立ち向かって返り討ちにあうオオスズメバチ……二体が繰り広げるバトルに翠の気持ちは躍った。深雪が翠の顔をみて「どうしてにやついてるのよ」と怪訝そうにする。

「お! 最新のクロスだ。日本にもその型入荷されてんだね」
 残念なことに一華の興味は深雪、というか深雪が持っているクロスに移った。
「それじゃ、あんたがラクロス部の部長?」
「市川一華……」
 深雪はどうにか事態を飲み込んで、一華に負けじと顔を明るくした。
「私、あなたのことをずっと待ってた。これで群青高校ラクロス部、十人揃ったわ! 今日からみんなとグラウンドで練習できる」
「え~、みんなで練習? あたしは強いやつとラクロスができればいい。ラクロス部のグラウンドはどこにあるの」
「アメリカの学校じゃないんだから、専用のグラウンドなんてないよ。それに、今から英語の授業よ」
「英語なんて習うもんじゃない。Here we go!」

 結局深雪が押し負けて、一華に引きずられるようにして教室をでていった。翠にとっては深雪も明るくて強引な人間の部類だけど、一華はその比じゃない。
 潤が鬼の形相で睨みつけているのがわかったが、一華の勢いの前では形無しだ。
 昆虫王ヘラクレスオオカブト・市川一華は、二年F組嵐の転校生――。
 教室での生活にも希望が見えてきたかもしれない。長い物には巻かれろ、だ。
 翠も急いで、二人のあとを追いかけた。


「まずはシュート練しよう!」
「パスキャッチ練からじゃなく?」
「まどろっこしいのは、あとあと。シュートが一番楽しいから!」
「ゴールは部室にしまってあるの。こっちよ」
 深雪について、グラウンドの脇に建つプレハブの部室に向かう。
 部室のドアをあけると埃っぽい匂いが漂って、普段使われていないことが伺えた。くたびれた様子のクロスが傘立てに何本も刺さって、その脇のバケツのなかに野球ボールくらいの大きさの、黄色のボールが詰め込まれている。

 他にはラインカーや、トレーニング用具らしいもの、窓に『全日優勝』とかかれた群青色の横断幕が下がり、反対側は扉のないロッカーが並ぶ。
「百瀬……市川……?」翠はロッカーに刻まれた名前を読み上げた。

「ゴールは解体してあるから外で造りなおさなきゃ。ゴーリー防具はどこだったかな」
「ゴーリー?」用具の棚を漁り始めた深雪に、翠が尋ねる。
「ゴールキーパーのことよ。守備の最後尾。一人だけ防具つけて、ヘルメット被って、クロスも普通より大きいの。でも翠は身体が小さいから、ゴーリーには向いてないよね。今日は私が……」
「いいや、ゴーリーは翠だ」一華が断言した。
「どうして? 初心者なのに、危ないわ」
「見たい?」
 一華は含み笑いをしながら、翠の頭の上からヘルメットをかぶせた。
 
 ゴールはオレンジ色の鉄パイプで縦横一八〇センチの正方形を形どったものだ。想像していたよりも小さかったけど、翠にとっては手を伸ばしてやっと届く高さだった。
「やっぱり翠、小さいね。ゴールががら空きに見える」
「小さかろうが届けばいいんだよ。やつはそんなこと問題じゃないくらいのとんでもない能力を持ってる。深雪、コーナーに打ってやって」
「私そんなにシュートコントロールよくないわ」

 深雪はいいながら、クロスを構えた。身体をゴールに正対させたまま腕でクロスを押し出し、緩やかにボールを放つ。深雪の放ったボールは、翠の胸のあたり目掛けて飛んできた。翠は素早く避けて、ボールはゴールネットに収まった。
「どうして避けた?」一華が首を傾げた。
「……あたらないようにするゲームだと思った」
「翠、サッカーをみたことある?」
 今度は深雪が気まずそうに目をぱちくりさせた。
「ない」
「ゴールキーパーは、ゴールにボールを入れさせないポジションなのよ」
 へぇ、とクロスを眺めた。ゴーリーのクロスは、虫取り網の三倍の面積はありそうだ。これで、あの野球ボールくらいの球を捕ればいいのか。

「深雪は下手くそだな。ほらどいて」一華は深雪の広い額を人差し指で突いて、ゴールの正面に立たった。
 今度は一華が、クロスを構えた。深雪とはクロスを持つ位置が違う。肩を思い切りあげて、上から降りおろすようにクロスを引っ張る。まずは腰を回転させ、肩、腕、クロスの順に連動してゆく。クロスの先から放たれボールはほぼ直線的に、ゴールポストの左上コーナーへ向かってくる。

 翠は右手を伸ばし、シュートボールをクロスに収めた。
 それをみて深雪は「うそっ」と小さく叫んだ。
「はやい……なんで? 左上コーナーにボールが来るのが、わかってたみたいに……」
「翠、少し速く打つよ」一華は先ほどよりも足を開き、腰を低くした。
「だめ、初心者に向かってそんな大振りのスタンディングシュート打ったら……」
 一華の放った球は、轟音を響かせて向かってきた。よく見るとボールがさっきとは逆回転しているのがわかる。打ち方を変えるとどうもボールの進み方も変わるようだ。

 ボールは翠のヘルメットのすぐ左側を通ってゴールネットへ突き刺さった。メットを被ったままでも、ボールが空気を切り裂く音が聞えた。人間の肩から、こんなにも速いボールが放たれるというのは興味深い。
「ハエより遅いでしょ。よく見て」
 ハエより……?
 一華の青みのある瞳が、アオイロキンバエの羽の光沢を思わせた。一華はまた同じ構えで同じクロスの振り方をして、ボールを離す瞬間だけクロスを斜めに傾けた。
 クロスに押さえつけらえたボールは吐き出されるようにしてこちらに飛んでくる。殆ど反射的に、その軌道の先へとゴーリークロスを移動させる。気づけば翠の持つ大きなクロスのなかに、黄色いボールが納まっていた。

「翠、ボールがどんなふうに見えているのか教えて」
 焦りを抑えるように、深雪がゆっくりと尋ねた。
「コマ送りで進んでいるように見える。ボールがクロスから離れる瞬間に軌道が決まるから、そこに先回りした。アオイロキンバエを捕まえるときと要領は同じ」
「すごいでしょ、あいつ。野生動物かって」一華が腰を曲げて笑う。

「ボールがクロスから離れる瞬間にはもう動いてるんだわ。反応じゃなくて初動をみて軌道を読んでる。ただ速い球ならカーブでもしない限り、どんなシュートでも捕れる。どうしてこんな……一体何者なの」
「ただの虫取りジャンキーだよ。前世は鷲かフクロウだろうね。いや、カエルかも」
「これ、反対側はどうやって捕るの?」
 翠がクロスを持っていない、左手側の方をひらひらさせると、深雪が翠のクロスを引っ張って身体の前でスライドさせた。
「クロスをこう身体のまえで、最短で動かすのよ。一華、クロスを持っていない方に打ってみて」
 深雪の要求に、一華はもう一度腰を低く構え、翠の左の腰のあたりを狙ってクロスを振った。
 翠は深雪の指導通りにクロスを動かしそのボールを芯でとらえた。ゴールのすぐ裏に仁王立ちしていた深雪は、感嘆の声を漏らした。

「そもそも日本の高校ラクロス界に、こんなパワーシュートを打てる選手はいないわ。つまり、一華のシュート以外は止められる」
「いるよ。椿森女学院にあいつがいる」一華が乾いた声でいうのに驚いて、翠はヘルメットの格子の間から一華をみつめた。「あいつ?」
「あたしはあいつを倒しに、日本に帰ってきたんだ。世界最強になるためには、強いやつは一人ずつ倒していく。大会はいつ?」
「……今週よ」
「だけど……試合は十人でやるんだよね。あと七人はどこにいるの」

「よくぞ聞いてくれたわ。今こそ、志をひとつにする必要がある」

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