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第1話

ラクロス――国内競技人口約二万五千人。”クロス”と呼ばれるスティックでボールを奪い合い、ゴール数を競い合う、地上最速の球技。

 ラクロスやってますって言うと大体、あの虫取り網みたいな棒を振り回すスポーツですよね、って言われる。お嬢様がスカート履いて走るやつ。可憐で素敵。かわいいですよねって。

 だけどラクロスって本当は、全然かわいいスポーツじゃない。腕力、スピード、あとフィジカルが圧倒的にものをいう野蛮で容赦のないスポーツ。そう思う。
 外はあついし、コートも広くて、走っている間は肺が破れるかと思うくらい、つらい。でかくて強いやつにはどんなに頑張ったって太刀打ちできないし、血の滲むような努力はわりと簡単に裏切ってくる。勝利の女神様はちゃんと見てるのかなって思う時がある。寝てんじゃないのって。

 でもいつの間にかまたグラウンドに向かってる。ボールが風を切る音が、信じる仲間の掛け声が、何度でも私をグラウンドに呼び寄せる。
 私はもうずっと、その魅力から逃れられない。



1、木の上のやかんの女

 春はいい。
 草木が青々しく芽吹いて、温かい雨と騒がしい嵐に呼び覚まされた虫たちが、待ちわびたように土から還る。虫たちはひしゃげた翅を懸命に広げ、空気の渦を巻き起こしながら新しい世界へと羽ばたいてゆく。

 翠(すい)は、この瞬間を見るのが好きだった。
 この変わり映えのしない、色褪せたようにみえる世界が、本当は日々つつがなく進行している事実を虫たちは教えてくれる。虫の羽ばたきだけが翠に、時の流れを知らせてくれる。
「翠、あんた学校いかないの」
 みっつ上の姉が玄関の扉から姿を現した。ジーパンに、薄い紫色のトレーナーを着て、茶味のある髪をこれでもかと外側にはねさせている。

 姉が玄関の階段をくだるたびに、トートバックのなかの水筒が音をたてる。これから、今年入学したばかりの大学へいくのだ。地下鉄を一回乗り換えた私鉄の沿線上にある、ビルのなかにある大学。構内の近代的な造りや、ビルの屋上からみえる景色の写真を、いやというほど見せつけられた。運動系のサークルに参加し始めたとかで、最近は随分朝早くから家をでる。

「そんな恰好で外にでないでよ。そんなだから友達できないのよ」
 郵便ポストの下のプランターを覗いていた翠に、姉は蔑むような表情を向けた。中学のころのジャージのズボンに、カブトムシが全面にプリントされたTシャツといういでたちを、姉はとにかく嫌がっていた。

 小さいころはよく一緒に町はずれの樫木公園まで下っていって虫獲りをしたのに、いつの間にかその辺の普通の女の子と同じように虫嫌いになってしまったのだ。唯一の虫取り仲間だったというのに、今では一番の天敵。
 庭につくったカブトムシの幼虫養成ボックスを無断で処分されたときにはさすがに堪えた。虫が唯一の友達だと何度訴えても、姉には聞き入れてもらえない。
「聞いてんの? いい? 友達をつくるには共通の趣味をつくることよ。同じ夢をみるの。そうすれば……」
 翠は虫取り網を掴んで、逃げるようにして家をでた。


 都立群青女子高校二年。二階堂翠。
 特筆すべき特技はなくて、自慢できる業績もなく、人間の友達はいなくて、部員数一名の生物部に所属している。生物室の窓際の水槽にいる三匹のアフリカツメガエルの世話が翠の仕事だ。一日一回は餌をあげて、週に一回水槽を洗っている。

 アフリカツメガエルのこともあって、学校にはわりと行っているほうだと思う。頭が痛くなったときと、今日のようにどうしても休日に捕まえられなかった虫をとりに行くとき以外は、なるべく登校するようにしているから。
 群青高校のすぐとなりにある樫木公園は、名前の通り樫木が公園の周りをぐるりと囲む大きな公園だ。
 広場があって遊具が豊富。日中は小さな子供連れで溢れ、放課後になると小学生がドッジボールをしにやってくる。木々や草花にしか用事のない翠には縁がないが、公園の奥にはバスケットコートとテニスコートが一つずつあって、主婦や若者が汗を流す場所になっている。

 人々の賑わいを尻目に、翠は虫取り網を構えつつ腰を屈めて歩く。今日のめあてははっきりしている。SNS上ではこの辺での目撃情報が急増していた。日曜に一日中探しても見つからなかったけど、今日は見つけられる気がする。そういう〝あたり〟の日が、どんな人間の人生にもあるものだ。
 樫木の周りやツツジの植え込みをゆっくり見て回っても、しばらくはお目手当を見つけることができなかった。集中力が切れてきて、虫取り網を木に立てかけ一息ついたときだ。隣の木の幹に煌めく個体が見えた。
――いた。
 アオイロキンバエ。青色の金属光沢のあるハエの一種。通常のキンバエと色彩がことなり、日本で生きたまま観察されるのは大変珍しい。マニアにとってはたまらない出会いだ。その鮮やかな色彩から界隈では幸福を呼ぶハエと呼ばれ、数日間観察しながら共に過ごすことでそのご利益があるとされている。満足したらまた自然に解き放つのが作法である。

 幸運を呼ぶなんてばかばかしいけど、捕まえたらなにかいいことあるんじゃないかって、少しだけ期待している自分がいる。なにかが変わるんじゃないかって。
 誰とも関わらず虫を中心にまわってくこの生活に満足していないわけじゃないけど、だけど……。
 翠の思惑をよそに、キンバエは煌めく胴体を震わせ飛び立った。
 ハエは身の危険を察知したとき、身体を反転させて離陸する。物が動くときの風圧を感じ取って危険を回避するのだ。その速さ人間のまばたきの五十分の一。振りつける雨粒でさえも、いとも簡単に避けて飛ぶことができる。
――見える
 翠は虫取り網を伸ばしてキンバエの飛行の軌道に合わせた。キンバエは自ら飛び込むようにして虫取り網に収まった。
「やった」
 思わず声をあげ、虫取り網を引き寄せようとしてぎょっとした。
 翠が手に持っていたものは、いつもの使い古した虫取り網ではなかった。ひんやりしたステンレスの柄の先についているのは曲線の美しいプラスチックのフレーム。フレームに張られているのは、白い紐で形作られた独特な編み目。
「なにこれ」
 振り返ると、自分の虫取り網は木に立てかけてあった。いつの間にか、別のなにかと取り違えてしまったらしい。

「それ、あたしのクロスだよ」
 頭の上から声がして翠は驚いて顔を上げた。
 樫木の太い幹に、女が寝そべっているのだ。
「今の動き、なんなの?」
 昔読んだ不思議の国のアリスにでてくるチシャ猫みたいにうつ伏せになって、肘をたてて翠を見下ろしている。よく見ると制服を着ていて、驚くべきことにそれは群青女子高校指定の半袖の白いシャツと、群青色のプリーツスカートだった。パンツが見えてしまうんじゃないかといらない心配をする。スカートの下には黒いスパッツが覗き、そこからは逞しい脚が伸びていた。足先はなんと、裸足にビーチサンダルだ。

「その虫がそっちの方に飛んでいくなんて、思わなかったよ。よく捕まえたね」
 褐色の肌が太陽の光を照り返し、黒い短髪が風に靡く。彼女は凛々しい眉を動かして、不思議そうに翠と翠の持つ〝クロス〟をみていた。
「目はいいほうなんだ。昔からよくこうやって虫を追いかけていたから。最初に羽ばたく瞬間が見えれば捕まえられる。虫の飛ぶ軌道ってのは、突然変わったりしない」
 早口でまくしたてて、気恥ずかしくなった。普段人間と話していないことが災いして、こういうときの距離感というものがわからない。今のは多分、はずしたと思う。
「虫を捕まえてたら、目が良くなった?」
 彼女の青みのある瞳が、探るようにして煌めいた。蛇に睨まれたカエルのようになってじっとしていると、彼女は突然、ふはっと笑った。
「水飲む? 今日、あついよ」
 そういって木の上からやかんを差し出した。いまどきやかんで水を飲むのなんて、団地の老人と運動部だけだと思っていたけど、そうか、うちの学校の運動部のひとなのかもしれない。野球部とか、ラグビー部とかがそうやって水分補給をしているのを、昔の漫画で読んだことがある。

 陽の光をうけて、やかんは黄金の宝玉のように輝いていた。天から恭しいものを授かるように両手を伸ばし、翠はやかんを受け取った。運動部に所属する人間なんてものは、翠からすれば神様みたいな存在だ。毎日授業を受けるのだって大変なのに、それに加えて放課後に三時間も運動してそのうえ厳しい上下関係やコーチの叱咤激励に耐えるなんて、常人には考えらえない所業だ。
 やかんのふたを開けると、なかには水がたっぷり入っていた。
「でも、今はコップを持ってない」翠が眉をさげると、彼女は白い歯を光らせて笑った。
「ふは。お嬢様なんだ。ねぇ名前なんての」
 自分と違って、滑るようにして口から言葉がうまれてくる。その言葉に聞き入って、翠はずっと顔をあげていた。心臓がむやみやたらに暴れているのは、多分家族以外の人間と話すのが、随分と久しぶりだからだ。
「名前は、二階堂翠」
「それヘラクレス?」彼女は翠のTシャツのプリントを指差した。名前を尋ねたくせに、自分は名乗らない。質問ばかりするひとだ。
「違う。これは普通のヤマトカブトで日本にいるのは大体こういった……あなたは、木の上でなにをしてるの?」
「ラクロス部が朝練を始めるのを待ってる」
「ヘラクレス部?」
 少し間ができた。何の間なのかわからない。
「もしかしてラクロス部、ないの?」
 彼女が絶望したように言って、また間があいた。気まずい、というほどでもないけれど、心地良い空気ではなかった。二人のあいだにはどうにも通じ合わないなにかがあった。
「……うちにさぁ、ヘラクレスが一匹いるよ。南アメリカで捕まえたやつ。ほしい?」
 ヘラクレスの価格はどんなに小さいものでも数万程度で、去年のお年玉をはたくかどうか悩んでいたところだ。喉から手が出るほどほしい。「いいの?」と思わず声が上ずる。
「いいんだけどさぁ」
 木に優雅に寝そべって肌を黒光りさせている彼女が、昆虫界の頂点に君臨するヘラクレスオオカブトに見えてきたのはいうまでもない。

 翠の胸は痛いほど脈打っていた。こんなのは知らない。自分の心臓がこんなに元気に伸縮を繰り返しているのはうまれて初めてかもしれない。
「あたしと一緒にラクロスするなら、あげるよ」
「え?」
「あたしはね、ラクロスで世界最強になるんだ」
 翠は金色のやかんを抱えたまま、口をぽっかり開けていた。

「二階堂さん!」
 知らない声がした。振り返るとシャツのボタンをぴっちり閉めた真面目そうな生徒が走ってくるところだった。
「驚かせてごめんね。私二年F組学級委員長の三浦深雪。二階堂さん、新学期始まってから教室にこなくなっちゃったから心配してたの。今日は学校これたのね。良かったほら、学校って三分の一欠席すると進学できなくて大変なのよ」
 深雪は大きな目を輝かせてしゃきしゃき喋る。どのクラスにもひとりはこんな風に、はみだし者に手を差し伸べることを使命としている人間がいるものだ。委員長だからそういう使命を負うのか、そういう使命を遂行する免罪符として委員長になるのかはわからない。
「最初に友達つくっておかないと、そのあとクラスに馴染めないからさ。なにごとも最初が肝心っていうでしょう。まだ始まったばかりだから大丈夫。ひとつずついこう」

 おせっかいもここまでくると清々しい。翠には、休み時間に一緒にトイレにいく友達も放課後ドーナツ屋に何時間も居座る友達もいないけど、そんなものは望んでいない。キンバエを捕まえにいくより大切だとは思えない。
「そういえば二年の学期始めには必ず模試があるけど準備は大丈夫? いつもみたいにテスト期間がないのよ。もし心配だったら、テストのヤマをあて合う部っていうサークルがあるけどはいる? 友達もできて点数もとれて一石二鳥。あれ、そのやかん、どうしたの?」
 深雪は翠の抱えるやかんを見るなり目を丸くした。これはあの人が……と木の上に顔を向けると、そこにはもう光り輝くヘラクレスオオカブトの姿はなかった。
「名前、聞きそびれた……」
 これは、と深雪がやかんをひったくって、地球儀みたいにくるくるまわした。よく見ると、下の方に黒いペンでなにか書いてある。

「『全日優勝するぞ! 百瀬桃子』……英語科の百瀬先生のことだわ。間違いない。これは、三十年前のラクロス部の備品! これがここにあるってことはつまり……市川一華が帰ってきたのね!』
「誰?」
「ついに三十年の時を経て、復活のときがきたんだわ」
 金のやかんを高々と掲げている深雪と、関わり合いになりたくないというのが本心だった。翠は静かに帰路につこうとするが、深雪の腕がそれを許さない。
「出席数がたりなくなっちゃうわよ」


 職員室には忙しない声が飛び交っていた。
 誰の親から電話がはいったとか、何限の授業を交代してほしいとか。
 窓際の席でパソコンを叩いているのが、英語科の百瀬だ。深雪が声をかけると、ウェーブのかかった髪をかき上げて、眼鏡を――たぶん老眼鏡――をはずした。
「そのやかん。どうして」
 百瀬は言葉を失って、水のたっぷりはいったやかんを翠から取り上げた。
 やかんを愛おしそうに抱きしめる中年女性をまえに、翠と深雪はどんな顔をすればいいのか迷って曖昧に微笑んだ。

「これが日本にあるということは、つまり、市川一華が帰ってきたのね。まったく。連絡もよこさないなんて……」
「二階堂さん、市川一華っていうのは、日本最強ラクロッサー市川千華の娘で、と、とにかくすごい人なのよ。どうしてこのやかんを持っていたの? 二階堂さん、市川一華と友達なの」
 深雪が矢継ぎ早に聞くので、翠はいや……と口ごもった。友達、という言葉に怖気ついたのは隠しようのない事実だった。

 翠の心に、樫木の幹に寝そべっていた彼女の眩い笑顔が蘇る。思い出しただけで、心臓が少しはやくなる。二言三言交わしただけの、昆虫界の王のようなひとを、友達と呼んでもよいものだろうか。友達というのは対等で同等程度の価値を持った人間同士のことをいうんじゃないだろうか。
「市川一華は、なにか言ってた?」
「……世界最強になるって」
「さすがだわ。ついにきた。私はこのときをずっと待ってたのよ。もういいんでしょう、百瀬先生! これが復活の合図でしょう。これ以外にないわ」
 興奮する深雪とは対照的に、百瀬は顔を曇らせた。
「合図というか……一華が十人目ってことでいいのね? そういう約束のはずよ。少なくとも十人集めるって」
「いえ。市川一華は九人目。十人目はここに」
 深雪が翠の腕を掴んで、百瀬は今初めて翠がそこにいることに気が付いたような顔をした。

「この子にラクロスをやらせる気なの?」
「ラクロスってなんですか」
「やらないって言ってるわよ」
「やります。やることになりますよ。だってもう、市川一華に会ったんですから」
 真面目そうにみえて、根拠のないことを滔々と述べる。翠はだんだんと居心地が悪くなってきた。
「待って。私は運動はからきしで。虫を追いかけたことしか」
「大丈夫。ほら、ラクロスって、昆虫採集とさほど変わらないのよ。ほら、こう」
 深雪持っていた棒――市川一華が置いていったクロス――を取り上げて、虫取り網のように振ってみせた。
 翠が眉をひそめると「ラクロスは見てもらわなきゃ伝わんないわ」と百瀬がパソコンの画面を翠のほうに向けた。

 小さなパソコンの画面上を、ミニスカート姿の女子が横切る。カメラがズームアウトしていくと、人口芝のフィールド全体が映し出された。同じ群青色のユニフォームを着た女子たちは、みんな一メートルくらいの長さの棒を持ってフィールド上を走り回っていた。
 ひとりが棒を振り切ると、たぶん得点が決まったのだろう。嬉しそうに両手をあげた。そのまわりに仲間たちが集まってきて、背中を叩き合ったり肩を抱いたりしている。
 選手たちの眩しいくらいの笑顔が、翠の心を萎ませる。翠にとって、もっとも遠い世界だ。
「ラクロスは楽しいよ。地上最速の球技って呼ばれて、ルールも複雑で。みんなでパスつないでシュートが決まって、それで勝利した瞬間が最高なの。まぁ、私はちゃんと試合に出たことはないんだけどね。仲間と『全日』に行くのが夢なの。ひとりでは無理だけど、みんなとなら、行けると思うの」
 深雪の希望に満ちた笑顔に、翠はまた居心地が悪くなった。
「でも私、誰かと協力するのも苦手で、友達だってひとりもいないし。みんなで繋ぐなんてそんな……」
「ラクロスしてたら、友達なんてあっという間にできるわ。ほら、私がひとりめの友達!」
 職員室の真ん中で深雪にぎゅうと抱きしめられて、翠は驚いて身体を硬直させた。

 初対面の人に密着するなんて、体育会系のひとは距離感がおかしい。それに、友達だなんて。
「本当にスポーツしたことないから、ルールだって」
 翠はむず痒くなって、頑なにいった。
「大丈夫だよ! ラクロスって大学から始めるひとがほとんどなの。私達は、すごい早いほうだよ! ルールブックがあるから貸すわね。いろいろ書き込んでるけど、気にしないで」
 深雪から薄い冊子を押しつけられて、翠はまごついた。所々カラフルな付箋が突き出して、そのひとつひとつに几帳面な文字が並んでいる。
 翠は百瀬の見せるパソコンの画面を見た。屈強そうな女子が、ミニスカート姿で走る。
 ラクロスなんて、自分にできるはずがない。体育だってまともに参加したのは数えるほどなのに。こんなに激しくて、チームワークが必要そうなスポーツ……。

「これが市川一華?」深雪が食い入るように画面を覗いた。
 木の上にいたやかんのあの人が、両膝に手をついて肩で息をしているところだった。
 翠は画面のなかの一華の煮詰まったような顔を見た。ラクロスというのはよっぽど激しいスポーツなんだろうか。あの、太陽からうまれてきたような人が、こんな顔をするなんて。
 ボールが転がってきたかなにかして、一華が動こうとしたとき、百瀬が突然ノートパソコンの画面を閉じた。
「一華は、将来一流のラクロッサーになるわ」
 百瀬はまるでその全ての責任が自分にあるかのように、力強くいった。翠は、百瀬が何を隠そうとしたのかが気になっていた。画面が閉じるまえの一華の動きが、翠の脳裏に焼き付いてはなれない。
 一体、なにものなんだろう。この人を見ているとどうしてこれほどまでに、胸を鷲掴みにされるような痛みに襲われるんだろう。
「ラクロス、やる気になってくれた?」
「……ラクロスっていうか、ヘラクレスが気になって」


 翠はスクールバッグの紐をぎゅっと握り締め、二年F組の教室に向かった。前を歩く深雪の柔らかそうなポニーテールが揺れる。
「そんなに緊張しなくても、うちのクラスは平和よ。堅実で結実」
 深雪はそういうが、学校へいくということと、教室へいくということは、意味するところが大分違う。翠にとっての学校は基本的には生物室。二割が保健室で、一割がカウンセリングルーム。教室にいくというのは概して勇気のいる行為だ。
 これまで、クラスにおける翠の立ち位置は、それなりに陰鬱な学生生活を強いられるものであった。翠が見舞われるいじめは『シカト』とか『ムシ』とかそういう括りのもので、大体のはこびとしては「あいつきもい」「生理的に受けつけない」という言葉や文字を浴びせられ、一体なにが悪かったのだろうと内省し、どうしたら楽に死ねるかまで考えて痛そうだから脳内にとどめる、そういうパターンのものだ。なにもしていなくても、自然とそうなるのだ。
 元来、いじめというのは持ち回りで、多感な時期の女子集団に属していれば数か月おきにその役割がまわってくる。トップに君臨するクイーン以外は、どんなに地位が高くても回ってくる。程度はあれどそういうものだ。自分がいじめられていないときは別のクラスメイトがいけにえになっていて、束の間の安息を味わったりする。
 翠はどういうわけか、持ち回りの頻度が高い方ではある。多分、虫が好きだとかは関係ない。多分。

「あいつきもくない?」
 入室してものの五分。自分の席を見つけて着席したときに、そういう囁き声がした。あまりのターゲティングの速さに舌を巻く。やっぱり虫好きは関係ない。関わりもしないうちから「きもい」ということは、外見や所作のことを言われているに他ならない。
 規定通りのスカートの長さとか、指定の靴下をひざ下まで伸ばして履いているところとか。あと流行りの化粧をしていないところと、髪が寝癖でぼさぼさのところ。
「暗いよ」
 これがこのクラスのクイーンか。と翠は目の端で見定めた。ストレートロングヘアの、しっかりしたガタイの人。釣り目で、唇が厚くて、いかにも世の中の大人には絶望していますといった眼差し。この人は一年生のときから有名だった。名前は確か八ヶ崎潤。
 翠は潤の顎のあたりに目線をもっていき、間接視野で潤とその周りの取り巻きを見た。

 潤とまったく同じ髪型のストレートロングヘアの女子たちが潤と同じように翠を蔑んだ眼でみている。前髪があるか、ないかの誤差。潤の身体がひとまわり大きくそれだけが、この人がクイーンであることの証だ。
 このひとたちはいつも、こうしてつるんで行動してる。潤の周りにいるということがきっと一種のステータスなのだ。潤の好きなやつは好き。潤の嫌いなやつは嫌い。嫌いなやつは、徹底的になわばりから排除する。

 例えるならそう、オオスズメバチの女王蜂だ。
 気性が荒く、警戒心が強く、強靭な顎と毒針をもつ昆虫界最強の女戦士の――オオスズメバチの働き蜂は皆メス――トップに君臨する女王。怒られるだろうから、誰にもいわないけど。
「おい、二階堂。ムシしてんじゃねぇよ」潤は翠の机を蹴りあげた。
 クイーンは、息をするようにムシをするけど、自分がムシされるのは大嫌い。自分が一番気持ち良くないと機嫌が悪くなるし、機嫌が悪くなれば攻撃的になる。ムシがだめだからといって、何か口を聞いても同じことだ。

 翠は耳を閉ざしたくなるのを堪えて、代わりに目をぎゅっと瞑った。
 きっとクイーンの家庭は複雑で、子供が当たり前に享受できるはずのなにかが満たされていなくて、そのうっぷんは教室で晴らすしかないんだろうと、憶測をたてる。そうじゃないと説明がつかない。なにもない人が、こんな風に人に感情を当たり散らすなんてそんなのおかしい。
 他のクラスメイトたちも、目線を向けずにこちらに集中していた。気にしつつも黙っている女子たちの態度が「これはやばい」という危機察知の表れなのか「また始まった」という諦めなのか、翠にはわからない。
「なんでそんなに暗いんだよ。友達に言われない? もっと笑えばって。あー、友達いないのか」
 少しだけ顔をあげると、斜め前の席に座っている深雪と目があった。生真面目そうな瞳はすっかり怯え、自信は消え失せ、唇は真っ青になっていた。もしかして責任を感じているのかもしれない。教室に生贄を投じてしまった責任を。
 それでも椅子から少し腰をあげて、唇を細かく動かしていた。学級委員長の責務か、部長のリーダーシップか、よくわからないけどそういうものを奮い立たせようとしているみたいだった。

 深雪を虫に例えるならクロヤマアリ。
 社会性に富み、自分の役割に実直。どこにでもいるごく普通の昆虫で、翅がないところがそれっぽいと思う。何にも惑わされずに地面にへばりついて、目的に向かって文句も言わず地道に努力する様が目に浮かぶ。
 クロヤマアリの健やかな生活を壊したくない。だからできれば、これ以上自分に関わらないで欲しい。
 何もいわない翠にクイーン・潤はついに痺れをきらして、おもむろに手を動かした。机に置いてあった、ラクロスのルールブックにその手は伸びた。

 その初動をみて、翠は反射的に立ち上がる。翠が突然起立したのに驚いた潤は動きを止めて、怪訝な顔を向けた。潤の射るような眼差しに翠は身を強張らせた。

 潤の肩は肉厚で強靭にみえた。自分のひ弱で脆弱な腕とは比べものにならない。背丈だってまるで大人と子供だ。力技に持ち込まれたらひとたまりもない。額に溜まっていた汗がこめかみを伝う。
「席につけぇ」
 年配の担任の先生が頭を掻きながら教室に入ってきて、翠は一命を取り留めた。潤は今までの殺伐とした雰囲気がまやかしだったかと思うほどすっと表情を殺し席へ戻っていった。
 翠は長く長く、息をついた。クイーンに目をつけられた。もう、この教室には二度と来られないだろう。


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