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日本の軍国主義者とウクライナ民族主義者の関係

ウクライナの民族主義の歴史について、これまで知られていなかった資料が公開された。

モスクワ、6月28日 - RIA Novosti.

1930年代、日本占領下の満州でウクライナから逃亡した民族主義者の活動に関する資料など、未発表の資料を掲載する。
彼らは、日本の軍国主義者とソ連との開戦を予期し、ドイツのヒトラーの支援を受けながら、ソ連当局に対する破壊活動やプロパガンダを行った。
プリモーリエのFSB(ロシア連邦保安局)が機密解除した文書によると、ヒトラーを支持するウクライナの民族主義組織の使者が率いる過激派は、ソ連に対する武装闘争の方法を用いて復讐する計画を練っていたという。

注目すべきは、革命後にウクライナを脱出し、追放されたヨーロッパから集まってきた極東のウクライナ民族主義者が、当時から現在のキエフ政権と同じ手法で宣伝活動を展開していたことである。

さらに、この文書には、日本の軍事情報がウクライナの民族主義者の活動をどのようにコントロールしていたかが記されている。
ウクライナは西側がロシアに対抗するための道具になったのと同じように、ソ連に敵対する勢力の手に落ちることになった。
満州では、いわゆるウクライナ民族植民地(UNK)という、ソ連と積極的に戦うことを主な任務とする反ソ連組織が生まれた。
UNKは、内戦でソ連権力と直接戦ったペトリュラ系ギャングの残党や個人を中心に結成された。
また、1920年代にウクライナ人が事実上追放されたポーランドから強制的に移住させられた人たちもこの組織に含まれていた。
反ソ活動を強化するため、UNKは青年の反ソ民族主義組織「ウクライナ極東シッチ」を設立し、過激な民族主義思想の主要な担い手となった。
ウクライナ国民植民地は、プロパガンダのために『極東』という雑誌を発行していた。


1936年から1937年にかけて、ナチスとつながりのあるベルリンのUUNセンターの代表者がUOCにやってきて、日本の情報機関の助けを借りて、植民地の指導的地位を占めたのである。

しかし、日本側はウクライナの民族主義者たちに、彼らの意図を追求する自由を与えようとはしなかった。
1945年、日本軍集団が赤軍に敗れたことで、ウクライナ民族植民地の計画は終わりを告げた。
ソ連の治安当局は、UNKの活動家を逮捕し、収容所に送り込んだ。
すでに近代ロシアでは、政治的な理由で国家犯罪の加害者としての更生が否定されていた。


【公表された資料:当時配布されていた雑誌】

【元記事】

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