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ヒトラーの我が闘争続編:『政治とは歴史を作ることである』

これは、アドルフ・ヒトラーが『我が闘争』の出版からわずか数年後に書いた、題名もなく、未発表で、長い間弾圧されていた第二作の中の言葉である。

200ページに及ぶ原稿は当初2部しか作成されず、公開されたのはそのうちの1部のみである。

ヒトラーの命令で厳重に秘匿されたこの文書は、1935年に空襲用のシェルターに入れられ、1945年に米軍将校によって発見されるまで保管されていた。

この本の信憑性は、ヨーゼフ・ベルク(ナチ党のエーア出版社の元社員)とテルフォード・テイラー(元米国連邦准将、ニュルンベルク戦争犯罪裁判主任弁護人)によって検証されており、1961年に行われた分析の結果、彼はこうコメントしている。

「ヒトラーの1928年の著書は、その間の時代背景を踏まえて読めば、学者だけでなく、一般の読者も興味を持つだろう」

序文

1925年8月、第2巻の執筆に際して、私は、状況によって与えられた短い時間の中で、国家社会主義者の外交政策の基本的な考え方を定式化した。

その本の枠組みの中で、私は特に南チロルの問題を扱ったが、この問題は、運動に対する根拠のない暴力的な攻撃を引き起こした。
1926年、私は第2巻のこの部分を特別版として出版せざるを得なくなった。

そうすることで、南チロルをめぐって大騒ぎしている反対派が、憎むべき国家社会主義運動との闘いのための歓迎すべき手段であると考えるようになるとは思わなかったからである。

そのような人々には、真実か誤りか、正しいか間違っているかという問題はまったく関係ないからだ。

ある問題が、政党の目的のため、あるいは極めて個人的な利益のためであっても、利用するのに適していると思われるやいなや、目下の問題の真実性や緊密性はまったく関係なくなる。

それによって私たちみんなの一般的な覚醒の大義に損害を与えることができるのであれば、なおさらである。

というのも、ドイツが崩壊したときから続くドイツの破壊に責任を負っているのは、現在の支配者たちであり、当時の彼らの態度は現在に至るまでいかなる点においても変わっていないからである。

当時、教条的な党派観のために、あるいは自分たちの利己的な利益のために、ドイツを冷淡に犠牲にしたように、今日も同様に、自分たちの利益に反する者に対しては、たとえその人がドイツ復活のためのあらゆる根拠を千倍にして自分の側に持っていたとしても、憎しみを爆発させるのである。

さらに、ある名前に代表される我が民族の復活が見られると信じるやいなや、彼らは通常、そのような名前から発せられる可能性のあるものすべてに反対の立場をとる。

最も有益な提案、実際最も明白に正しい提案は、単にそのスポークスマンが、名前として、彼らが政党や個人的見解に基づいて戦わなければならないと推定する一般的な考えと結びついているように見えるという理由で、ボイコットされる。

そのような人たちを改心させようとするのは絶望的だ。

それゆえ1926年、南チロルに関する私のパンフレットが印刷されたとき、私は当然のことながら、彼らの一般的な哲学的・政治的態度の結果として、すでに私を彼らの最も激しい敵対者とみなしている人々に、私が印象を与えることができるという考えには、一秒たりとも思いを馳せることはなかった。

そのとき私は、当初は国家社会主義者の対外政策に悪意を持って反対していたわけではなかった人々のうち、少なくとも何人かが、まずこの分野での私たちの見解を検討し、その後で判断してくれるだろうという期待を抱いていた。

間違いなく、これは多くの場合にも起こったことである。

今日、私は、公の政治に携わる人々の間でも、ドイツの外交政策に関して以前の態度を改める人が大勢いることを、満足げに指摘することができる。

たとえ特定の点ではわれわれの立場に同調できないと思っていたとしても、われわれをここに導く立派な意図を認めてくれたのである。

もちろん、この2年間で、当時の私の文章が、実は国家社会主義者の一般的な見識を前提に構成されていたことが、より明確になった。

また、悪意からというよりも、ある種の無力感から、多くの人が私たちに従ってくれないことも明らかになった。

当時は、狭い枠の中で、われわれの国家社会主義的外交政策構想の健全性について、本当の意味での根本的な証明をすることはできなかった。

今日、私はこれを埋め合わせなければならないと感じている。

なぜなら、ここ数年、敵の攻撃が激化しているだけでなく、敵の攻撃によって、無関心な人々の大陣営もある程度動員されているからである。

この5年間、イタリアに対して組織的に行われてきた扇動は、徐々に実を結びつつある。

このように、他の問題でしばしば起こってきたように、国家社会主義運動は、その外交政策的立場において、ドイツ国民とその政治生活の共同体の中で完全に孤立し、孤独な立場に立っている。

わが民族と祖国の一般的な敵の攻撃は、国内では階級政党の愚かさと無能さ、広範な大衆の怠惰、そして特に強力な味方としての臆病さによって加えられている。
その臆病さとは、マルクス主義の疫病に何の抵抗もできず、そのために、マルクス主義との闘いよりは危険ではないが、マルクス主義と似たようなもののように見え、聞こえる問題で、世論の注目を集めることができるのは、実に幸運なことだと考えている人々の中に、今日観察することができる臆病さである。

今日、南チロル地方で喧騒を巻き起こすとき、彼らは民族闘争の利益に奉仕しているように見えるが、逆に、ドイツ民族の最悪の内敵に対する真の闘争からは、限りなく身を引いているのである。

しかし、これらの愛国的、民族的、そして部分的には民俗的な擁護者たちは、まさにこれらの要素に対して真剣な戦争を戦うよりも、慈悲深い支援のもとで、民俗と祖国を裏切るマルクス主義者と結託して、ウィーンやミュンヘンでイタリアに対して戦意を高揚させる方がはるかに容易であることに気づいている。

今日、多くのことが見かけ倒しになっているように、これらの人々による国家的な見かけ倒しは、長い間、外面的な見せかけに過ぎなかった。

南チロルの問題をドイツの対外政策の軸に据えようとするこの強力な連合に対し、国家社会主義運動は、支配的なフランコ主義的傾向に対抗するイタリアとの同盟を揺るぎなく提唱して戦っている。

それによって運動は、ドイツの世論全体とは対照的に、南チロルはこの政策の障害にはなりえないし、なるべきでもないと強調している。

この見解こそが、外交政策における現在の孤立と、われわれに対する攻撃の原因なのである。

後に、それがドイツ民族の復活の原因となることは間違いない。

私がこの本を書いたのは、この確固とした観念を詳細に立証し、理解できるようにするためである。

ドイツ民族の敵に理解されることが重要でなければないほど、私は、ドイツ民族の民族的な思想を持つ人々、つまり、情報が不足していたり、誤った方向に導かれていたりする人々に対して、真のドイツ外交政策という国家社会主義者の基本的な考え方を提示し、指摘することに力を注ぐ義務があると感じている。

私は、ここに提示された構想を真摯に検討した後には、彼らの多くがそれまでの立場を放棄し、ドイツ民族の国家社会主義的自由運動の隊列に入る道を見出すであろうことを知っている。

こうして彼らは、いつの日か、彼らの思想と行動が彼らの民衆の幸福によってではなく、彼らの党派や自分自身の利益によって決定されるために、教えられることができない人々との最終的な決着をもたらす力を強めるだろう。

第1章:戦争と平和

政治とは、歴史を作ることである。
歴史そのものが、民衆の生存のための闘争の経過を示すものである。

私がここで意図的に「生存のための闘争」という言葉を使ったのは、実のところ、日々の糧を得るための闘争は、平和であれ戦争であれ、何千何万もの抵抗との永遠の戦いであり、ちょうど人生そのものが死との永遠の闘いであるのと同じだからである。

人は、この世の他の生き物と同じように、自分がなぜ生きているのかをほとんど知らない。
ただ生命だけが、自分自身を守りたいという切望に満ちている。
最も原始的な生き物は、自分自身の自己保存という本能しか知らない。

見かけ上、人間は種のために自己保存の本能を放棄することが多いが、実際には最高度に自己保存の本能に奉仕している。
というのも、全体、そして個々人の生命を維持するためには、個々人によるこの放棄が不可欠だからである。

それゆえ、幼子を守る母親の突然の勇気や、自分の家族を守る人間の英雄主義が生まれるのである。
飢えと愛という2つの強力な生命本能は、自己保存本能の偉大さに対応している。
永遠の飢えを鎮めることが自己保存を保証する一方で、愛の充足は民族の存続を保証する。
実のところ、この2つの衝動が生命の支配者なのである。

たとえ肉体のない美学者がこのような主張に対して千の抗議を申し立てたとしても、彼自身の存在という事実が、すでにその抗議の反論となっているのだ。
肉と血でできたものは、その誕生を決定づけた法則から逃れることはできない。
人間の心は、自分がそれらよりも優れていると信じるやいなや、心の担い手である現実の物質を破壊する。
しかし、個々の人間に当てはまることは、国家にも当てはまる。

国家とは、多かれ少なかれ似たような個々の存在の集合体にすぎない。
その強さは、国家を形成する個々の存在の価値と、その価値観の特徴および同質性の程度にある。
したがって、個人の生活を決定し、個人が従うのと同じ法則が、民族にも当てはまる。

自己保存と継続は、そのような身体がまだ健康であると主張できる限り、すべての行動の根底にある偉大な衝動である。
したがって、これらの一般的な生命の法則がもたらす結果でさえも、個人間でそうであるように、家族間でも同様であろう。

この地球上のすべての生物にとって、自己保存の本能が、自己の維持と継続という双子の目標において、最も初歩的な力を発揮するとすれば、それにもかかわらず、満足の可能性は限られており、その論理的帰結は、この生命を維持する可能性、すなわち自己保存の本能を満足させるためのあらゆる形態の闘争である。

地球上のあらゆる生物の種は数え切れないほどあり、個体の自己保存本能や継続への憧れは、どの瞬間にも無制限である。

何十億、何百億という生物が繰り広げる生存と生命存続のための闘争は、正確に測定された球体の表面で行われる。
生存のための闘争に従事せざるを得ないのは、生活空間が限られているからである。
しかし、この生活空間をめぐる生命闘争の中に、進化の基盤もある。

人間以前の時代、世界史は主に地質学的な出来事の提示であった。
自然の力が互いに闘い、この惑星に人が住める地表が生まれ、水が陸地から分離し、山や平野や海が形成された。
これがこの時代の世界史である。
その後、有機生命体が出現すると、人間の関心は、千変万化の形態が変化し、消滅していく過程に集中した。

こうして世界史という概念によって、人間は何よりもまず、自分自身の成り立ちの歴史、つまり自分自身の進化の提示だけを理解するようになったのである。
この進化は、人間の獣に対する、そして人間自身に対する永遠の闘いによって特徴づけられる。
目に見えない有機体の混乱から、ついに形成物が生まれた:氏族、部族、民族、国家である。
その起源と滅亡の描写は、存在をめぐる永遠の闘争を表しているにすぎない。

しかし、政治が歴史そのものであり、歴史そのものが人間や国家の自己保存と存続のための闘争の表現であるとすれば、政治とは、実のところ、国家の存続のための闘争の実行なのである。
しかし、政治とは、そのような国家の存続のための闘争であるだけでなく、私たち人間にとっては、むしろこの闘争を遂行する技術なのである。

歴史は、国家の存立をかけたこれまでの闘争の表象であると同時に、ある瞬間に優勢であった政治の石化された表象である。
政治の最高の任務が、民衆の生命の維持と継続であるとすれば、この生命は、政治が闘う永遠の賭け金であり、この闘争のために、またこの闘争をめぐって決定されるものである。
したがって、その任務は、肉と血でできた物質の保存である。
その成功とは、この保存を可能にすることである。
その失敗は破壊、つまりこの物質を失うことである。

その結果、政治はつねに生存のための闘争の指導者であり、闘争の指導者であり、闘争の組織者であり、その効力は、人間がそれを形式的にどう呼ぼうと、民衆の生死を決定するものである。
平和政策か戦争政策かという二つの概念は、これによって直ちに無に帰してしまうからである。

政治が格闘する杭はつねに生命そのものであるから、政治が民衆の生命を守るための闘争を遂行しようとする手段のいかんにかかわらず、失敗か成功かの結果は同じである。
失敗する平和政策は、失敗する戦争政策と同じように、人々を破壊すること、すなわち、その肉と血の実体を消滅させることに直結する。
一方の場合も、他方の場合と同様に、生命の前提条件の略奪が、人々を死に至らしめる原因なのである。

敗戦はむしろ、生命を維持するための手段を奪った、あるいは、よりよく表現すれば、そのような奪取をもたらした、あるいは、それを防ぐことができなかったのである。
実際、戦争によって直接もたらされる損失は、そのような民衆の不健康で悪い生活からもたらされる損失には決して比例しない。
静かな飢餓と悪徳が10年でもたらす死は、戦争が1000年でもたらす死よりも多い。

しかし、最も残酷な戦争は、まさに現代の人類にとって最も平和的に見える戦争、すなわち平和的経済戦争である。
その究極の結末において、この戦争は、世界大戦の犠牲さえも無に帰すような犠牲をもたらすのである。
この戦争は、生きている人たちだけでなく、これから生まれてくる人たちすべてに影響を及ぼすからである。
戦争がせいぜい現在の断片を殺すのに対して、経済戦争は未来を殺すのである。

ヨーロッパで避妊手術が行われた1年で、フランス革命から現代に至るまで、世界大戦を含むヨーロッパのすべての戦争で戦死したすべての人よりも多くの人が死亡している。
しかしこれは、多くの国々にとってさらなる健全な発展の可能性を残すことなく、ヨーロッパを人口過剰にした平和的経済政策の結果である。

一般的に、次のことも述べておく必要がある。

民衆が、政治の任務は、あらゆる手段を使って、あらゆる可能性に従って、その生命を維持することであることを忘れ、その代わりに、政治を明確な行動様式に従わせることを目指すやいなや、自由とパンのための宿命的な闘争において民衆を導く芸術の内的意味を破壊する。

根本的に好戦的な政策は、人々を多くの悪徳や病的な症状から遠ざけることはできても、何世紀にもわたる内面的な価値観の変化を防ぐことはできない。

戦争が永続的な現象になれば、戦争それ自体に内なる危険が潜んでおり、それは、国家を構成する基本的な人種的価値観が異質であればあるほど、よりはっきりと際立つ。
このことは、すでに古代のすべての既知の国家に当てはまり、特に今日、すべてのヨーロッパ国家に当てはまる。

戦争の性質は、千倍にも及ぶ個々の過程を通じて、民族内の人種的選別につながることを意味しており、それはその最良の要素の優先的破壊を意味する。

勇気と勇敢さへの呼びかけは、数え切れないほどの個々の反応にその反応を見いだすが、それは、最良で最も価値のある人種的要素が、何度も何度も自発的に特別な任務のために名乗りを上げるか、あるいは、特別編成という組織的方法を通じて組織的に育成されるからである。

いつの時代も、軍隊の指導者は、特別な軍団や、選ばれた精鋭部隊を警備連隊や突撃大隊に編成するという考えに支配されてきた
ペルシャの宮廷衛兵、アレクサンドリアの精鋭部隊、ローマのプレトリアンの軍団、傭兵の失われた部隊、ナポレオンやフレデリック大王の衛兵連隊、世界大戦の突撃大隊、潜水艦乗組員、飛行隊などは、大勢の兵士の中から、それに対応する高い任務を遂行するために最高の適性を持つ者を探し出し、特別な編成にまとめるという同じ発想と必要性に由来している。
もともと、すべての衛兵隊は教練隊ではなく、戦闘部隊だったのだから。

このような共同体の一員であることに付随する栄光は、特別な精神を生み出すことにつながったが、しかしその後、この精神は凍結され、最終的には単なる形式的なものに終わる可能性があった。
つまり、大勢の兵士の中から適任者が探し出され、集中した集団で戦争に駆り出されるのである。
こうして、国家の最良の死者の割合が不釣り合いに増加する一方で、逆に最悪の要素の割合が最も高く保たれることになる。

民衆共同体のために自分の命を犠牲にする用意のあるきわめて理想主義的な男たちの向こうには、同様に自分の単なる個人的な生命の維持を現世の最高の仕事とみなす、もっとも惨めなエゴイストの数が立っている。

英雄は死に、犯罪者は守られる。

このことは、英雄的な時代、とりわけ理想主義的な若者にとっては自明の理である。
そして、これは良いことである。
なぜなら、これこそが民族の価値が今なお存在することの証明だからである。
真の政治家は、このような事実を関心を持ってとらえ、考慮に入れなければならない。

なぜなら、一度の戦争ではたやすく我慢できることでも、百度の戦争になると、国家の最も優れた、最も価値ある要素が徐々に失われていくからである。
それによって、勝利は確かに勝ち得たが、最後にはこの勝利にふさわしい民族はもはや存在しなくなる。

後世の人々の哀れさは、多くの人々には理解できないようだが、かつての成功の結果であることが少なくない。
したがって、ある民族の賢明な政治指導者たちは、戦争が民族の生命の目的であるとは決して考えない。
政治指導者は、託された人的資源を最高の男らしさまで教育しなければならないが、最高の良心をもって統治しなければならない。

必要であれば、民衆の生命が危機に瀕しているとき、彼らは血を流すことを恐れてはならないが、平和がいつか再びこの血に取って代わることを常に心に留めておかなければならない。
その性質上、流された血の代償が保証されない目的のために行われる戦争は、国家に対する冒とくであり、民族の未来に対する罪である。

しかし、永遠の戦争は、人種構成に不平等な要素を持ち、その一部しか国家を維持するものと見なすことができないような民族の間では、恐ろしい危険となりうる。
ヨーロッパ民俗の文化は、北欧の血が何世紀にもわたって注ぎ込まれた土台の上に成り立っている。
この北欧の血の最後の残滓がなくなれば、ヨーロッパ文化の様相は一変し、国家の価値は低下する、
しかし、国家の価値は、民俗の価値が沈んでいくのに従って下がっていく。

第2章:争いの必要性

民族の生存のための闘争は、何よりもまず、次の事実によって決定される。
民俗の文化的重要性がどれほど高かろうと、日々の糧を得るための闘争は、あらゆる重要な必需品の最前線に立つ。
確かに、優秀な指導者は民衆の目の前に偉大な目標を掲げ、より高い精神的理想に奉仕するために、物質的なものからさらに目をそらすことができる。
一般的に、単に物質的な関心は、理想的な精神的展望が消え去ろうとしている過程に正確に比例して高まるだろう。
人間の精神生活が原始的であればあるほど、人間はより動物的になり、ついには食物を摂取することが人生の唯一無二の目的と考えるようになる。

それゆえ民衆は、積極的な理想という形で代償が与えられる限り、物質的な目標がある程度制限されても十分に耐えることができる。
しかし、このような理想が民族の破滅を招かないためには、物質的な栄養を犠牲にして一方的に存在し、それによって民族の健康が脅かされるようなことがあってはならない。

飢餓状態にある民衆は、肉体的な栄養不足の結果として崩壊するか、あるいは強制的にその状況に変化をもたらすかのどちらかだからである。
しかし、遅かれ早かれ、肉体的な崩壊は精神的な崩壊をもたらす。
そのとき、すべての理想も終焉を迎える。

このように、理想とは、それが民衆の内面的な力と全体的な力を強化し続け、最終的にそれが再び生存のための闘争に役立つ限り、善良で健全なものなのである。
この目的を果たさない理想は、外見上は千倍美しく見えても悪である。

しかし、民衆が必要とするパンは、民衆が自由に使える居住空間によって決まる。
少なくとも健康な民族であれば、常に自らの土壌でその欲求を満たそうとする。
それ以外の条件は病的で危険である。
たとえそれが何世紀にもわたって民族を維持することを可能にしたとしてもである。

世界貿易、世界経済、観光客の往来などは、すべて国家の糧を確保するための一過性の手段である。
それらは、部分的には計算の及ばない要因に依存しており、他方では、国家の力の及ばないところにある。
いつの時代も、民族の存続のための最も確かな基盤は、自国の土壌であった。
しかし今、私たちは次のことを考えなければならない。

民衆の数は変動要因である。

健康な民族は常に増加する。
実際、このような増加だけで、人間の計算に従って民族の将来を保証することが可能になる。
しかし、その結果、商品の需要も絶えず増加する。
たいていの場合、国内の増産と呼ばれるものは、人類の高まる需要を満たすだけで、増加する人口を満たすことはできない。
これは特にヨーロッパ諸国に当てはまる。

ここ数世紀、特に最近のヨーロッパ諸国では、ヨーロッパ民衆のニーズが非常に高まっており、好条件下では年々可能なヨーロッパの土壌生産性の上昇も、一般的な生活ニーズの増加には追いつかないほどである。
人口の増加は、生活空間の拡大によってのみ均衡を保つことができる。
民族の数は変動するが、土壌は一定である。
つまり、民族の増加は、あまりにも自然であるがゆえに自明のプロセスであり、特別なこととは見なされないのである。
他方、領土の増加は、世界における所有物の一般的な分布によって条件づけられる。
特別な革命の行為であり、非日常的な過程である。

しかし、人口と領土の関係を調整することは、国家の存続にとって非常に重要である。
実際、民族の生活闘争のすべては、増加する人口を維持するための大前提として必要な領土を守ることにあると言ってもよい。

人口が絶え間なく増加し、土壌は静止したままであるため、次第に緊張が生じざるを得なくなり、最初は苦痛として表出するが、一定の期間、より大きな産業、より独創的な生産方法、または特別な緊縮財政によって均衡を保つことができる。
しかし、このような緊張が、そのような手段ではもはや解消できない日が来る。

そのとき、国家の存亡をかけた闘争の指導者たちの任務は、耐え難い状況を根本的な方法で解消すること、すなわち、人口と領土との間の許容可能な関係を回復することにある。
国家生活において、人口と領土の不均衡を是正する方法はいくつかある。
最も自然な方法は、土壌を人口増加に適応させることである。
そのためには、戦う決意と流血の危険を伴う。

しかし、この流血は民族にとって唯一正当化できるものでもある。
この流血によって、民族をさらに増大させるために必要な空間が獲得されるため、民族は自動的に、戦場に賭けられた人間性に対する多様な補償を見いだすのである。
こうして、戦争の苦難から自由の糧が育つのである。
剣は鍬の道を切り開くものである。

そして、もし我々が人権について語りたいのであれば、この一件において、戦争はすべての権利の中で最も高い権利に奉仕したのである。
この土は誰にも割り当てられていないし、誰かに贈与されるものでもない。
それを所有する勇気、それを守る力、それを耕す産業を心に持つ人々に、摂理が与えるのである。

それゆえ、健康で精力的な民族は皆、領土の獲得に何の罪もないと考えている。
この神聖な権利を否定する現代の平和主義者は、少なくとも自分自身がかつての不正の上に養われているという事実をまず非難されなければならない。

さらに、この地球上で、永遠に民族の住処と決められた場所は存在しない。
なぜなら、自然の支配は何万年もの間、人類に永遠に移住を強いてきたからである。
最後に、現在の地球上の所有物の分配は、崇高な力によってではなく、人間自身によって設計されたものである。

しかし私は、人間によってもたらされた解決策を、摂理がその保護下に置き、未来の法則として神聖化する永遠の価値とみなすことはできない。

このように、地球の表面が地質学的に永遠に変化し続け、新しいものを発見するために有機生命体を絶え間なく変化させながら滅ぼしていくように、人間の住む場所の制限もまた、終わりなき変化にさらされているのである。

しかし、多くの国々は、ある時期には、世界の領土の現在の分布を、自分たちの利益に対応するという理由から、永遠に拘束されるものとして提示することに関心を持つかもしれない。

地球上からこの闘争を永久に追放しようとする者は、おそらく人間同士の闘争を廃止することになるだろうが、同時に、人間同士の発展のための最高の原動力も排除することになる。
市民生活において、特定の人間の富や特定の事業会社の偉大さを永久に存続させ、そのために自由な力、競争を排除しようとするのとまったく同じである。

その結果は、国家にとって破滅的なものとなるだろう。

現在の世界空間の一方的な分配は、個々の国家に非常に有利であることが判明した。
しかし、これらの国々が享受している豊かすぎる領土は、他の国々の貧しさと対照的である。
これらの国々は、最大限の産業にもかかわらず、日々の糧を生産して生きていくことができない。
もし彼らもまた、自分たちの糧を守る土地の領有権を主張するのであれば、彼らに対してどのような高次の権利を反対したいと思うだろうか。

そうではない。

この世の第一の権利は、そのための力がある限り、生命に対する権利である。
それゆえ、この権利に基づき、活力ある国家は、その領土を人口規模に適応させる方法を常に見つける。

国家の弱さ、あるいは指導力の欠如の結果、土壌の生産性を向上させることで、増加した人口と一定の領土との不均衡を解消することができなくなれば、必然的に他の方法を模索することになる。
そして、人口規模を土壌に適合させるのである。
栄養不足の土壌に対する人口規模の最初の適応は、自然自身が行うのである。
苦悩と悲惨は自然が仕組んだことなのだ。
民衆はこれらによって壊滅させられ、それ以上の人口増加は事実上停止する。

民族の土壌への自然な適応がもたらす結果は、いつも同じとは限らない。
まず第一に、生存のための非常に激しい闘争が始まり、最も強く、最大の抵抗能力を持つ個体だけが生き残ることができる。
乳幼児の死亡率が高いこと、高齢者の割合が高いことは、個人の生命を軽視する時代の主な兆候である。
このような状況下では、すべての弱者が急性の苦痛や病気によって一掃され、健康な者だけが生き残るので、一種の自然淘汰が起こる。
こうして、民族の数は容易に制限を受けることになるが、内面的な価値は残ることがあり、実際、内面的な高まりを経験することがある。

しかし、このようなプロセスが長く続くことはない。
完全に等しい価値を持っているわけではない人種的要素で構成された国家では、永続的な栄養失調は最終的に苦痛に鈍い降伏をもたらし、次第にエネルギーを低下させ、自然淘汰を促進する闘争の代わりに、徐々に退化が始まる。
人間が慢性的な苦痛をコントロールするために、数を増やすことに価値を見いださなくなり、自ら避妊に頼るようになれば、このような状況になるのは間違いない。
そうなると、人間自身、自然が歩んできた道とは正反対の道を歩むことになる。

自然が、生まれてくる多数の存在の中から、健康状態や抵抗力の点で人生の闘争に最も適している数少ない存在を惜しむのに対し、人間は出産の数を制限し、そして、生まれてきた者たちの本当の価値や内面的な価値を無視して生かそうとする。
ここで彼の人間性は、彼の弱さの召使いに過ぎず、同時にそれは、彼の存在の最も残酷な破壊者でもある。
もし人間が、産児制限から生じる恐ろしい結果を生むことなく、自分自身で出産の数を制限したいのであれば、出産の数には自由裁量権を与えなければならないが、生きている者の数は減らさなければならない。

かつてのスパルタ人は、このような賢明な策を講じることができたが、現在のような階級愛国主義的な無意味な感傷に浸るようなことはできない。
六千人のスパルタ人が三百五十万人のヘロテ人を支配することは、スパルタ人の高い人種的価値の結果としてしか考えられなかった。
しかし、これは体系的な種族保存の結果であり、したがってスパルタは最初の民俗国家と見なされなければならない。

病弱で奇形の子供たちをさらし者にすること、要するに滅亡させることは、最も病的な対象を保存し、実際どんな代償を払っても、産児制限の結果、あるいは堕胎によって10万人の健康な子供の命を奪い、その後に病気に苦しむ退化した種族を繁殖させようとする現代の惨めな狂気よりも、よりまともであり、実のところ1000倍も人道的であった。
それゆえ、一般的に言えることは、苦難や人為的な手段による人口の制限は、不十分な生活空間へのおおよその適応をもたらすかもしれないが、現存する人間の素材の価値は絶えず低下し、最終的には衰退するということである。

人口規模を土壌に適応させようとする第二の試みは、移住である。
移住も、それが部族的に行われない限り、同様に、残された人的資源の価値を下げることにつながる。
人間の避妊は最高の価値を持つ者を一掃し、移住は平均的な価値を破壊する。
国家が人口と領土の不均衡を均衡させようとする方法は、まだ2つある。

ひとつは国内の土壌の生産性を高めることで、これはいわゆる国内植民地化とは何の関係もない。
もうひとつは、商品生産を増やし、国内経済を輸出経済に転換することである。

一度決められた境界線の中で土壌の収穫量を増やすという考えは、昔からあるものだ。
人類の土壌耕作の歴史は、永続的な進歩、永続的な改良、そしてそれによる収量の増加の歴史である。
この進歩の第一段階は、土壌耕作の方法と集落の建設にあったが、第二段階は、不足または不十分な栄養分を導入することによって、土壌の価値を人為的に高めることにあった。
この路線は、かつての鍬から現代の蒸気耕まで、厩肥から現在の人工肥料まで続いている。
その結果、土壌の生産性が限りなく向上したことは間違いない。

しかし、どこかで限界があることも確かである。
特に、文化的な人間の生活水準は一般的なものであり、個人が手に入れることができる国家の商品の量によって決まるものではなく、むしろ周辺諸国の判断に左右されるものであり、逆に、周辺諸国内の条件によって確立されるものであることを考えれば、なおさらである。
現在のヨーロッパ人が夢見る生活水準は、ヨーロッパの潜在的な可能性と、アメリカの現実的な条件から導き出されるものである。

近代技術とそれが可能にするコミュニケーションによって、国家間の国際関係は非常に簡単で緊密なものとなり、ヨーロッパ人はしばしば意識することなく、アメリカの状況を自分の生活の基準として適用している。
しかし、それによって彼は、アメリカ大陸の土壌表面と人口の関係が、ヨーロッパ諸国の生活空間に対する類似の条件よりもはるかに有利であることを忘れてしまうのである。
イタリアが、あるいはたとえばドイツが、どのように土壌の内部植民地化を行おうとも、科学的で理路整然とした活動によって土壌の生産性をさらに高めようとも、アメリカ連合の土壌に対する人口との関係に対して測定される土壌に対する人口数の不均衡は常に残るのである。

そして、もし、イタリアやドイツで、最大限の産業を通じて人口のさらなる増加が可能だとすれば、アメリカ連合では、その倍数まで可能であろう。
そして、最終的にこれら2つのヨーロッパ諸国におけるさらなる増加がもはや不可能になったとき、アメリカ連合は、今日のような関係に達するまで、何世紀にもわたって成長を続けることができるのである。
特に、国内植民地化によって達成しようとする効果は、誤りである。
土壌の生産性を大幅に向上させることができるという意見は誤りである。
例えば、ドイツで土地がどのように分配されようとも、それが大規模農地であろうと小規模農地であろうと、あるいは小規模入植者用の区画であろうと、1平方キロメートルに平均136人が住んでいるという事実に変わりはない。
これは不健康な関係である。
このような前提のもとでは、民衆を養うことは不可能である。

実際、内部植民地化というスローガンを大衆の前に掲げることは、混乱を招くだけである。
大衆はこのスローガンに希望を託し、それによって現在の苦境から解放される手段を見つけたと考えるだろう。
これはまったく事実ではない。
苦境は、間違った土地分配の結果ではなく、今日のわが国が自由に使えるスペースが全体として不十分であることの結果だからである。

しかし、土壌の生産性を向上させることで、民衆の負担を軽減することは可能である。
しかし、長い目で見れば、不十分となった国民の生活空間を人口増加に適応させる義務から免れることはできないだろう。
最も有利な状況での内地植民によって、社会改革と正義の意味での改善のみが起こりうるのである。
民族の完全な維持に関しては、まったく重要ではない。

植民地化は、民族を現実的な思考から遠ざけてしまうような希望を呼び起こすので、国家の外交政策上の立場にとって有害であることが多い。
そうなると、普通の立派な市民は、新たな生活空間を獲得するためには民衆の力を集中させなければならないことに気づくどころか、産業と勤勉さによって日々の糧は自国でも得られると本気で信じるようになる。
経済学は、特に今日、多くの人々に苦痛や介護、飢えや悲惨からの救世主とみなされているが、ある種の前提条件のもとでは、自国の土壌との関係の外にある存在の可能性を民衆に与えることができる。
しかしこれは、ここで簡単に触れておかなければならないいくつかの前提条件と結びついている。

このような経済システムの意味は、ある国家が、自国が使用するために必要な量よりも多くの重要物資を生産しているという事実にある。
この余剰分を自国の共同体の外で販売し、その収益で不足している食料品や原材料を調達する。
このように、この種の経済学は、生産の問題だけでなく、少なくともそれと同程度に販売の問題を含んでいる。
特に現在、生産量の増加について語られることが多いが、そのような増加は、買い手が手近にいる限りにおいてのみ価値を持つということが完全に忘れられている。

一国の経済生活の輪の中では、生産の増加はすべて、それによって個人が手に入れられるようになる商品の数を増やす程度に利益をもたらす。
理論的には、国家の工業生産が増加するたびに、商品の価格が引き下げられ、ひいては商品の消費が増大し、その結果、個々の民衆同志は、より多くの重要な商品を所有する立場になるに違いない。

しかし、実際には、このことは、土壌が不十分である結果、国家の糧が不十分であるという事実を何ら変えるものではない。
確かに、ある種の工業生産高は、実に何倍にも増やすことができるが、食料品の生産高は増やせないからだ。

いったん国家がこのような事態に陥れば、自国内で手に入らない食糧を外部から補うために、過剰に生産された工業製品の一部を輸出することで、初めて調整が可能となる。
しかし、このような目的による増産は、買い手、それも国外の買い手を見つけたときに初めて、望ましい成功を収めるのである。
こうして私たちは、販売可能性、すなわち市場という、極めて重要な問題の前に立ちはだかるのである。

現在の世界の商品市場は無限ではない。
工業的に活発な国の数は着実に増えている。
ほとんどすべてのヨーロッパ諸国は、土壌と人口の関係が不十分で不満足である。
それゆえ、彼らは世界の輸出に依存している。
近年、アメリカ連合は輸出に転じ、東の日本も同様である。
こうして、限られた市場をめぐる争いが自動的に始まるのだが、これは工業国の数が増えれば増えるほど厳しくなり、逆に市場が縮小すればするほど厳しくなる。

一方では、世界市場を求めて奮闘する国の数が増える一方で、商品市場そのものは徐々に縮小していく。
その理由のひとつは、自力による工業化の過程であり、もうひとつは、資本主義的な利害からそのような国でますます増えている支社制度である。

例えば、ドイツ国民は、ドイツの造船所で中国向けの船舶を建造することに強い関心を抱いている。
しかし、ドイツ人民は、ドイツの金融グループやドイツの工場が上海にいわゆる支店造船所を開設し、中国人労働者と外国鋼材を使って中国向けの船舶を建造することには、たとえその企業が利子や配当の形で確実に利益を得るとしても、何の関心も持たない。

それどころか、その結果、ドイツの金融グループが何百万ドルもの利益を得たとしても、受注が失われた結果、その何倍もの金額がドイツの国民経済から引き出されるだけである。
純粋な資本主義的利害が現在の経済を決定し始めれば始めるほど、金融界と証券取引所の一般的な視点がここで決定的な影響力を獲得すればするほど、この支店制度はますます拡大し、その結果、かつての商品市場の工業化を人為的に実施し、特にヨーロッパの母国諸国の輸出可能性を抑制することになる。

今日、多くの人々は、この将来の発展についてまだ微笑んでいる余裕があるが、これがさらに前進すれば、30年以内にヨーロッパの人々はその結果に呻くことになるだろう。
市場の難局が拡大すればするほど、残された市場の争奪戦はより激しくなるだろう。
この闘争の主要な武器は、価格設定と、各国が競争的に互いを打ち負かそうとする商品の品質にあるが、結局のところ、究極の武器はここでも剣にある。

世界の平和的経済征服と呼ばれるものは、地球が純粋な農耕国家と、工業的に活発で商業的な国家からなる場合にのみ起こりうる。
今日、すべての大国は工業国であるため、いわゆる平和的経済征服は、より強い国々がそれで勝利できると信じている限り、つまり現実には、平和的経済で他国を殺すことができる限り、平和的であり続ける手段との闘いにすぎない。
これが、平和的経済手段で他国に勝利した国の本当の結果なのだから。
それによって、一方の国家は生存の可能性を手にし、他方の国家はそれを奪われるのである。
ここでも、危機に瀕しているのは常に、私たちが民衆と呼ぶ生身の人間である。

本当に勢いのある民族が、平和的な経済的手段では他を征服できないと考えるなら、あるいは経済的に弱い民族が、経済的に強い民族に殺されることを望まず、その糧を得る可能性が徐々に絶たれていくなら、どちらの場合も剣を手にする。

排他的な意味での経済活動の民衆にとっての危険は、経済学によって最終的に運命を切り開くことができるという信念に、あまりにも簡単に屈してしまうという事実にある。
こうして後者は、純粋に二次的な位置から一次的な位置へと前進し、ついには国家を形成するものとさえみなされるようになり、最終的な分析において、国家や民族がこの地球上で生命を維持することを可能にする美徳や特性そのものを、民族から奪ってしまうのである。

しかし、平和的経済政策と呼ばれるものの特別な危険性は、何よりも、それが人口の増加を可能にするという事実にある。
不充分な生活空間を人口で過剰に埋め尽くすことは、文化センターというよりは、むしろあらゆる悪、悪徳、病気が一体化したような、国民の体にできた膿瘍のような労働センターへの人口集中を招くことも少なくない。
とりわけ、混血や私生児化、人種差別の温床となり、その結果、国際的なユダヤ人種のウジ虫が繁殖し、最終的にさらなる破壊をもたらすような、感染センターとなるのである。

まさにそれによって、そのような民族の内なる強さが急速に失われ、すべての人種的、道徳的、民族的価値が破壊の対象となり、理想が損なわれ、最終的には、世界市場をめぐる闘争の究極の結末を自らのものとするために民族が緊急に必要とする前提条件が排除されるという腐敗への道が開かれるのである。
悪質な平和主義によって弱体化した民族たちは、もはや血を流して自分たちの商品の市場のために戦う覚悟はないだろう。

したがって、より強力な国家が、平和的な経済手段の代わりに政治力の真の強さを打ち出すやいなや、そのような国家は崩壊し、自らの非行が復讐を果たすことになる。
彼らは人口過剰であり、今、すべての真の基本的必要条件を失った結果、増えすぎた大量の国民を十分に養うことができる可能性はもはやない。
彼らには、敵の鎖を断ち切る力も、尊厳をもって運命に耐えるための内的価値もない。

かつて彼らは、平和的な経済活動のおかげで生きていけると信じ、暴力の行使を放棄した。
運命は彼らに、最終的には、人口と生活空間が自然で健全な関係にあるときにのみ、民族が維持されることを教えるだろう。
さらに、この関係は随時検討されなければならず、実際、土壌に対して不利に推移するのとまったく同じ程度に、人口に有利に再確立されなければならない。
しかしそのためには、国家は武器を必要とする。
土地の獲得は、常に武力の行使と結びついている。

政治の任務が民衆の生存のための闘争の遂行であり、最終的な分析において民衆の生存のための闘争が特定の人口を養うために必要な量の空間を確保することから成り、このプロセス全体が民衆の力の行使の問題であるとすれば、そこから次のような結論の定義が導き出される。

政治とは、地上での生存のための民衆の闘争を遂行する技術である。

外交政策とは、民族にとって量的にも質的にも瞬間的に必要な生活空間を守る技術である。

国内政策とは、民族の価値と数という形で、そのために必要な力の雇用を維持する技術である。

3章以降は随時更新予定…

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