見出し画像

正しく生きようと思っていた

 そもそも正しく生きるってなんだ?って話ではある。最近は開き直って、「ただ通うだけで金もらえんならいっか♪」と思うことにした。まともに働いてないことに罪の意識を感じていたけど、そんなものは必要なかった。だって会社が勝手に命じてきた異動なんだし、異動先には仕事がなかったんだし。とにかくいいかげんな会社だってことがよくわかったから、こちらが真面目に取りあう必要はまったくないのだ(ハム太郎)。
 結局は会社勤めって組織に属するってことなので、当然そこのカラーに合う合わないは存在するし、社不であるからどこの組織にも基本的にはうっすら合わないという前提はあるとしても、弊社とはガチで合わない。一言でいうと、詰めが甘くだらしない。けれど全体がそういう組織である以上は、個人の頑張りで変わるものではないということも、さすがに理解した。だからもう頑張らない。ここではね。ずっとこんな風にのんべんだらりと暮らしていいはずがないということは百も承知である。

 最近はほんとにね、生きてるだけで勝ちだと思う。というか、何かに負けてしにたくない。
 自分の生き方は「食わず嫌い」のようなものだと思う。圧倒的に経験が少ない。やったことがないのなら、やってみればいい。たしかに、そんなにそうそう冒険もできないお年頃ではあるんだけど、「幸運を待ち望むだけの人生」は、いい加減ここらでやめないと本格的に中年に差し掛かってきたらマジで万策尽きると思っている。
 自分がどういう人間なのかすらよくわかっていなくて、そんなんだったから他人のことなんてもっとわからなくて、けれど社不なりに、「あ、社不じゃない人たちってこういうふうにコミュニケーションを取るんだな」ということを、30超えてようやっと学び始めてる。これは成長といえるのではないだろうか。
 自分にしか焦点が向いてなかった。それが子どもとしてのふるまいだったことに気づきもしなかった。人の中で生きていく以上、思う通りにはならないということを、多分みんなどこかのタイミングで学ぶのだろう。それをいつ迎えるかは人それぞれなんでしょうけれど。
 一番に守るべきは自分であり、それは悪いことでもなんでもなくて、不満がありながら全部に耐えて押し黙って、蓄積させて爆発させるようなふるまいしかできなかった私は、子どもだったと反省している。他人は変えられないが、諦めて閉じこもる前に、対話を試みればよかったなと思う。その上でダメなら仕方ないけど。
 自立するって一人で何でもかんでも抱え込むことじゃなくて、自分の力で解決するのが難しいことは、他人にお願いして手伝ってもらう、そうするためにふだんから他人とのつながりを意識した行動をする…ということなんじゃないかと思う。社不なりに。自分一人で生きてるわけじゃないんだから。まぁ苦手だけどね人付き合いはどうしたって。

 今までの私が望んでたのって、無償の愛だったんだなと思う。けどそんなのって土台無理な話だってことに本当に気づけなかった。親から子への愛を、血の繋がらない他人に求めてた私ってそもそも根本から間違ってたんだよね。そりゃ生きにくいはずだわ。手に入らないものを求め続けるのはつらいし、求められる側だってつらい。そんな状態で恋愛なんかまともにできるはずがなかったのよね。

 間違いだらけよ本当に。つらいことばっかり起こるなって思ってたけどさ、それは私が間違った方向に進んでたからってのも大いにあるわな。
 自分の力でやれることを増やしつつ、けれど困ったときは素直に人に頼って助けてもらって、もらいっぱなしにしないで今度は自分が助けて…そういう営みを面倒と思わずできるようになったとき、また一段階成長するんじゃないかな。今は考えただけでめんどいですが。
 今までは、独力でどこまで行けるかを突き詰めるフェーズにいたけど、今後は他人と共生する術を身につけるフェーズに移行していく、そういう時期なのかなと思います。それが楽しいかどうかはさておき。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?