取り返しのつかないモノを生み出すことで、取り返しのつかない事が起きてしまうと思います。映画「天空の城ラピュタ」で描かれた「ラピュタ」や映画「風の谷のナウシカ」で描かれた「巨神兵」は取り返しのつかないモノを象徴していたと思います。これらの作品には、取り返しのつかないモノを作ってはいけない、生み出してはいけないという強烈なメッセージが込められていたのではないでしょうか。

ナウシカの映画版の方では、巨神兵は最後に腐ってしまうのですが、大ババ様はそれを嘆く幼い子供たちに、それで(腐って)よかったんだと言います。このシーンのメッセージは強烈です。迫りくるオームの大群を阻止してくれている巨神兵が腐ってしまうことは、自分たちに確実な死が迫ってくることを意味しているのですが、大ババ様は自分たちの命より、取り返しのつかないモノが消え去ってしまうことのほうを優先すべきだと子供たちを諭したのです。

このクライマックスのシーンの前に、「こんなもの(巨神兵の卵)掘り起こすからいけないのよ!」と言ってナウシカがペジテの人々に激怒するシーンもあります。わたしは子供の頃にこの映画を見て、取り返しのつかないモノは絶対に作り出しちゃいけないんだと素直に思いましたし、そして今でもそう思ってます。だから、もちろん原発には反対だし遺伝子組み換えにも反対です。取り返しのつかない技術だからです。つまり、わたしを生んだのはある意味で宮崎駿です。わたしがnoteでいつもギャーギャー文句を言っているのは宮崎駿のせいです。なので、わたしに文句がある人は宮崎駿に言ってください。

でも、わたしは不思議です。日本人の多くがこの映画を見ているはずなのに、原発事故やその後の処理方法について深刻に考えているようには思えないし、ゲノム編集真鯛についても積極的に声を上げているようには思えないからです。わたしはこの鯛のことを完全に巨神兵だと直感しています。だからわたしはこれを、自分の命に代えても阻止すべき取り返しのつかないモノだと思っています。だからギャーギャー文句を言い続けます。大ババ様の教えをわたしは自分の人生において実践しているのです。

平気で取り返しのつかないモノを生み出してしまう人と、大人になってもそういうことをしちゃいけないと考えるわたしのような人間との差は何なのかな、とわたしは長らく考えてきました。風の谷のナウシカを見て素直に影響を受ける子供とそうでない子供の差は何なのでしょう?

ひとつには、わたしはド田舎ではありませんでしたが、わりと豊かな自然環境の中で育ったので、環境を破壊することがいけない事だということを感覚として学べたからではないかなと考えています。両親の影響もあります。わたしの父はものすごく自然が好きでしたから。それから、わたしは超イケメンだったので、お金のために自然破壊につながるような先端技術を学ぶことに何の価値も見出せませんでした。

わたしは学生のころから勉強やスポーツが出来なくてもモテてしまいました。中学のころから学年で1番か2番くらいにモテてましたし、大学に入って初めて行ったコンパではわたしを取り合って女性が喧嘩を始めてしまうほどでした。それから一切コンパによばれなくなり、わたしも行くのが申し訳なくなってよばれない方が楽でした。前に記事でも書きましたが、私はいわゆる女遊びというのにあまり興味がなく、モテ過ぎてしまうことが正直面倒でした。モテ過ぎることで中学くらいから妬み僻みに囲まれて辛い思いを沢山してきましたし、わたしのような真のイケメンにとって人生は決して楽なものではなく、むしろ試練の連続でした。そして、このような経験がわたし独自のルサンチマン哲学へと繋がっています。

会社員になっても平気で嫌がらせをしてくる人もいました。周りからモテている男性が気に入らない人が出てきてしまうので、本当に対処に困りました。対処しようがないからです。本人にしてみたらどうにもならないことを理由に攻撃してくる人間が驚くほど多い。男性にも女性にもそういう人がいました。日本って常に他人が気になる人が異常に多いと思います。職場ではあの人がトイレからなかなか帰ってこないとか、タバコの回数が多すぎるとか、いちいち文句を言ってる人がいますよね。わたしはタバコを吸いませんが、他人のことなんて気になりません。

障がい者差別や朝鮮人差別をする人も同じです。当事者にしてみたらどうにもならないことなのに差別をして社会的に追い込む。酷い社会ですよ日本は。他人が気になって仕方ない人だらけ。同調圧力っていうらしいですけど安易すぎます。漫画「キングダム」で桓騎将軍が言ってました。マジョリティが無責任すぎるって。本当にその通りだと思います。相手の気持ちを理解しようとしない無責任な大衆。わたしも中学から妬み僻みの中で生きてきたのでマイノリティの人々の気持ちが分かるような気がします。イケメンというのも結構面倒な事実だし、社会のなかではマイノリティと同じだなと感じることが多々ありました。

大企業の人でも平気で障がい者差別をする人がいるんですよ。障がい者雇用の担当者がうちの現場には障がい者が沢山いるとニヤニヤしながら自慢してるのを目の当たりにしたことがあります。ハッキリ言って人間のクズです。同じ組織であっても現場の工員を奴隷としか見てないんです。みなさんは朝鮮人とか、意図的に作られたマイノリティを差別しますが、上にいる人間は日本人もひっくるめて差別しています。両者奴隷扱いです。奴隷同士にプロレスさせてガス抜きさせてるんですよ。為政者の意図を知りましょう。戦中に大本営が「どれくらい(日本兵を)殺せばあの陣地を取れる」って勘定でいつも作戦を立ててたのは知ってますか?有名な話です。この国では末端の人間はみんな奴隷扱いなんですよ。そして、こういう体質が残っている大企業っていうのは今でも普通に存在します。

わたしはナウシカのように自然と戯れることを好み、そのため、中学から帰宅部で自由の中で独自の感性と創造力を養ってしまいました。そのことで人間としてのユニークさも兼ね備えてしまったため、それがまたモテる要素になってしまい、最強のイケメンかつ天才となってしまいました。これがわたしがクリシュナの器になることができた最大の要因ではないかと考えています。ルサンチマンのない独創的な超イケメンというのが器としての条件だったのでしょう。

わたしの基本的な主張は、「ルサンチマンが取り返しのつかないモノを生み出す」です。バタイユが言った禁止に対する侵犯って言葉も同じことです。ブサイクにとってはモテないということが禁止事項となりますからね。弱者の妬み僻み(ルサンチマン)が必然として社会を悪い方、悪い方へと導き最後に取り返しのつかないモノを生み出してしまう。これにどう抗ってゆくべきか。この話も長くなるので割愛。ただ、この辺りは私の独自解釈もあるので、まともに勉強してきた人はわたしの記事を読んでると頭がおかしくなると思います。

勉強してきたことを自分の経験によって独自解釈し、自分の論点にしてゆく。これがわたしのやり方です。これが正しいやり方かどうかは知りませんが、哲学を早い時期に学んだ人はだいたいこんな感じなんじゃないでしょうか。そもそも独学だったし学生のころに勉強したことは今ほとんど忘れていて、今自分の中にあるのは誰かの哲学じゃなくてわたしの哲学です。
だから、わたしの記事は教科書的な解釈からすればかなりずれた頓珍漢なことを言ってる記事も沢山あると思います。でも、そういう人って面白くないですか?このあたりもわたしがモテてしまう要因でしょう。嫌いなんですよ、いい歳して他人の書籍の内容をまとめたりパクったりしてYouTubeやらで発信して小銭稼ぎしてる人たち。空っぽな人間だと思います。大人になっても偉人が書いたことが無条件に正しいと思ってる人も多いですが、偉人が言ってる通りに考えたり、行動すればいいと考えてる人は空っぽです。

そんな生き方してるから操作されてワクチン打ってしまうんだと思いますよ。アフリカ人を見習ってください。読書は大切ですが、バカみたいに本を読めばいいとは思いません。バカみたいに勉強してきたのにワクチン打ってしまった人は、毎日牛のウンコを集めて家の壁を作ったり、牛の血を飲んでるアフリカ人以下です。アフリカ人の生き方の方がよっぽど楽しそうだし、地に足がついていると思います。勉強したことが生きる力になってない人はハッキリ言って最悪の人生の無駄遣いです。取り返しのつかない人生です。何もせずにハナクソほじってた方がよかった人生なんて最低です。

おわり