「地上の神」は死んだ
まともな学問なら
ルターから今日に到るまで
文明を狂気に駆り立てた
すべての罪業を明らかにできる
リンツで起きたことを見よ
どんなに巨大な妄想が
異様な神を作り出したことか
どんな生徒たちだって
人に対してなされた悪と
それへの復讐について
学習するようになるものさ
追放の身のトゥキディデスは
デモクラシーについて何がいえるか
独裁者たちが何をするか
老人たちが墓場にむかって
どんな繰言を繰り返すか
そのことをよく知っていた
その上で歴史書に書き込んだのだ
追い払われた啓蒙運動
習慣を形成することの苦しみ
失敗と痛恨と
人はこれらすべてを甘受せねばならぬと
この詩はオーデンが宗教改革から第二次大戦までの流れを痛烈に批判したものです。民主主義という神は神ゆえに何度死んでも蘇り、そしてまた人類を死地へと送り込むようです。でも、コロナワクチンによってあぶりだされた民主主義という神の死については、誰もそれに言及しようとしません。
資本主義は宿命的に論理的(科学的)でないことを軽視します。そして、民主主義というのも幻想でメディアを操ることで簡単に国民の意志を操作できることが明らかになりました。私たちはそんなボロボロの家畜の檻の中にいる単なるシステムの奴隷だったのです。でも今回は、その事実を目前につき出されても、もはや誰もそれに気が付いていなように感じます。いや、見て見ぬふりをしています。過半がバカの社会が民主主義を選択し、この先どこへ向かおうとしているのでしょう。こんな究極の問いを、もはや誰も投げかけることが出来ないでいるのです。
前回の記事で実存は既成概念が嘘っぱちだと気が付きそれを受け入れることだと説明しました。姜尚中さんは、民主主義を信じるべきシステムだと考えてきたからこそ、再度絶望し、ニーチェやリオタールに言及しながら、実存哲学の観点に立って痛烈にメディア批判を行ったのかもしれません。コラムを何度も読んでそんなふうに感じました。それでこの記事を書いています。姜尚中さんから苛立ちのようなものを少し感じました。自己批判でもあったのではないでしょうか。だから西部邁さんが使っていた「専門バカ」という言葉を引用したのかもしれません。西部邁さんは生前痛烈に民主主義を批判されていた方です。
おわり