9月末。
冷え込み始めるこの頃。
自転車を漕いでいた。
ふと腕に吸血中の蚊を見た。
実際に自分を吸血している蚊を見ることはなかなか無い。
私は自転車を漕いでいる足を緩め、蚊を注視した。
蚊は微動だにしない。
夏の終わり、散りゆく定めの命。
儚さを感じた帰路。

 私は普段、蚊やコバエがいたら無条件に殺そうとする。殺した後には、潰れた黒い物体と、私の怒りの残滓が只在るだけだ。一方、私が自転車で見た蚊は違った。そこには私が想像したストーリーがあった。同じ死という結末を迎える蚊に対して、一方は簡単に踏み躙り、一方には意味を与える。これは身勝手で自己中心的な人間の感性の良い例だと思う。

なぜ人は「死」に対して敏感に感受するのか。
親しかった友人、恩師、そして家族など、自身にとって大切な人の死に対する悲しみなどの感情は当然理解できる。しかし、死ぬ人物に関して、死の前後以外の一切の情報がないとしても、その死に涙することがあるということは奇妙だ。

戦争で何万人が死んだ。ウイルスで何万人が死んだ。前の駅で人身事故が発生した。それらに一切無関心な人がいる。関心があってもすぐに忘れる。駅のホーム。交差点。人混みですれ違う人、その一人一人に意思があり、生と死があるのに、気が付かないふりをする。なのに、普段はそんな態度なのに、一度感受すると一変する。

私が言いたいのは「死」は美でもないしドラマでもない。むやみに感情移入して、その半生などを勝手に想像するのは、非常に無責任だということだ。ただし、無責任=悪ではない。死という事実が内包するものを理解し、自身の思考を顧みることができれば、自ずと正しい姿勢となる。私自身もこれから「死」と向き合い、善い生き方を探求したい。



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