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みんなが知らないCCJ。4

昭和のバブル経済が起こる少し前。大学を卒業し健康食品会社に入社した青年、原田浩光さん。入社3年目25歳の時、日本初クラウン養成学校の担当者に任命され、1988年8月、米国・フロリダ州でクラウンカレッジに入校。翌1989年3月にはリングリング・サーカスのニューヨーク公演に出演します。さて帰国しますが・・・・・。


大きな二つの動き

原田さんが日本を空けていた間もクラウンカレッジジャパンの事業は進められていました。留守中、大きな二つの動きが有り、それらが原田さんを現実に引き戻すのでした。1989年は本当に重要な年となります。

1  新会社「株式会社クラウンカレッジジャパン」の設立。

ここが一番ややこしいのです。学校の名前が「クラウンカレッジジャパン」。それとは別に、学校事業に関わらない、いわゆるイベント会社として「株式会社クラウンカレッジジャパン」が存在していたのです。

「株式会社クラウンカレッジジャパン」1989年5月設立。
ナチュラルグループ本社・三菱商事・TSP太陽3社のジョイントベンチャーでした。このジョイントベンチャーというのが後に影響が出るのですが、それはまたいずれ書くとして。

この会社の主な業務内容はライブショー、イベント派遣、マーチャンダイジング(商品開発)など。

パンフレットより。


2 学校「クラウンカレッジジャパン」の準備。

学校運営はナチュラルグループ本社が担当。おそらく学校運営にコストを負担したためでしょう。原田さんは学校担当。肩書はナチュラルグループ本社の「クラウン・カレッジ・ジャパン事務局」。ここから本格的に学校事業を進めて行くことになるのですが、この時、残念だったことがあったと言うのです。それは・・・・。

ニューヨーク公演出演の時期と重なったため、
・キャンパス(ナチュラルグループ本社2階の事務所を改装)の
 レイアウトやデザイン
・学生募集(4月より)の広告内容や媒体選び
これらの最終決定に関われなかったことは残念だった。

原田さんへの追取材より。
TV番組のワンシーンより。「ナチュラルグループ」と書いてあった。

・・・・・・

パンフレットより。

★~★~★~★~★ 

 開校まで

「ぴあ」に掲載された募集広告。(カラー見開き)

開校の準備は多岐にわたった。
募集広告は「ぴあ」の反響が群を抜いていた。
急増したプレスの取材に対応し、学校説明会を開いた。

米国から連日ファクスでインボイスがバンバン届き、
教材用の大小の備品が送られた。
手に負えず、ナチュラルグループ本社の
貿易部からスタッフをリクルート。
M井さんありがとう。

講師の住居探しや、国内での備品買い出し。
株式会社クラウンカレッジジャパンに
中途入社したK永さん他、皆さんありがとう。

8月、入学オーディションを盛大に開催。
本社から大勢のスタッフがヘルプに入ってくれた。

このように多くの人たちに助けられ、どうにか前へと進んでいった。
思えば私の仕事は(このときもこの後も)調整役がほとんどだった。

学校スタッフはもとより、
①株式会社クラウンカレッジジャパンとの調整。
②ナチュラルグループ本社(総務・経理・広報他)との調整。
③米国人講師との調整 などなど。
お願いやお詫びで頭を下げる、こめつきバッタの日々でした。

原田さんへの追取材より。

インボイスとは書類やらなんやらのことだと思います。当時インターネットなどはありませんでしたから。当然英語でしょうし、ジャグリング道具をひとつ手に入れるまでの苦労は想像を絶するものだったと思います。

株式会社クラウンカレッジジャパンに中途入社して、原田さんが卒業した次の年にクラウンカレッジに参加したK永さん。ちなみにこのサイトの編集長も同じ期の米国クラウンカレッジ本校に参加しています。 

動き出した船は航海に出るのみ。そしてクラウンカレッジジャパンは開校します。直接お会いして、おっしゃっていたのは・・・。 

「わけわからないでやってたよ。」
「めっちゃめちゃ忙しかった。なにやってたかよく覚えていない。」
「外人はくるしさ、本社の冷たい目はあるしさ。」

原田さん談。

率直!!原田浩光さん。26歳。次回とうとう開校します。来月は「みんなが知ってるCCJ」として公表された活動と資料も掲載していきます。


今回、お話をしてくださったのは・・・・
■原田浩光さん
現在はこんなことしてます。え?え?ええ???

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◇クラウンマガジン編集部 まるせい
今回も貴重な資料と多くの加筆をいただきました原田さんに感謝します。



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