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24年7月6日note27元よしもと・ホリプロ芸人松稔の芸能裏話27太平サブロー・シロー秘話https://www.facebook.com/profile.php?id=61553536510873

芸能裏話27太平サブロー・シロー秘話

太平サブロー・シロー君は、オール阪神・巨人の阪神君の友達で、高校の頃 からモノマネ番組や、素人参加番組の常連だった。

阪神君は巨人さんと組み吉本興業に入った。

サブロー・シローはレッツゴー三匹師匠の弟子に付き、松竹芸能に入った。

これが彼等のつまずきの始めだった。

当時松竹芸能の若手は舞台に出るチャンスや、テレビに出るチャンスが殆ど 無かった。

昔の芸人さんを大事にしすぎて、若手を育てるのに力を入れていなかった。

その点吉本興業は、若手で面白いコンビが居れば、すぐ舞台に上げたり、テレビに出したりして人気者を作るのがうまかった。

松竹の場合、舞台の香盤表(出番の順番)が初日に決まれば、楽日(10日間の 最終日)まで絶対変えない。

1回目と2回目の間は4時間位ある、しかし松竹の場合はこの間で、仕事をしなければいけないが、吉本興業は香盤表を自由に変えられる。

1回目の1番目に出て、2回目の最後に出ると約8時間ある。

だからその8時間で、東京のテレビに出て飛行機で帰って来られる。

松竹は舞台を大事にし過ぎて、吉本興業に逆転されてしまった。

そんな松竹芸能に不満を持っていた、サブロー・シロー君。

彼等の出ていた通天閣 にある新花月劇場、ここは東京で云う山谷みたいな所です。

お客さんも少なく まともな人がいない。

アル中や浮浪者、ボケ老人ばかりでまともなネタが 出来ない。

僕等が見に行った時も、サブロー・シローが出てきて漫才をやろうとしたら、

後ろの方から50位のおばちゃんが、自分の飲んでいたビール瓶を出して「飲め!」

『僕等漫才の最中ですので後で頂きます』「なんやて私のビール が飲まれ へんのか」

すると又他の客が「漫才はええから歌を唄え」『僕等歌手やないから漫才やらして貰います』

「唄われへんのやったらワイが唄たる」と云 って舞台に上がってきた。

これにはサブロー・シローもキレてしまった。

ある日、一番前に座っている酔っ払いが、舞台に足を投げ出していた。

それも臭い靴下を履いていたそうで、サブロー・シローが注意したら「うるさい、やかましいて寝られへんがな」と逆に怒られたそうだ。

その日の二回目の舞台、そのおっさんはまだ寝ていた。

サブロー・シローが漫才をしていると、むっくりと起きて「お前等まだ漫才やってんのか、何時間やっとん ねん」って云われたそうです。

こんな環境で漫才をするのは可哀相だった。

吉本の舞台も厳しいが、聞くことは大人しく聞いてくれる。

新花月に比べたら天国だ!!

僕でもあんな所でやらされるのだったら辞めている。

彼等も意を決して松竹芸能を止める事にした。

しかし松竹芸能と吉本興業の協定で引き抜きは禁止されている。

そこで彼等は解散した事にして、1年間芸能活動を休んでいた。

その後改めて吉本興業に入った。

実力は阪神・巨人と互角と云われていたので、すぐ頭角を現してきたが、

吉本興業は最初から入っている阪神・巨人を可愛がり、彼等には余り力を入れなかった。

漫才ブームの頃も実力が有りながら、ザ・ぼんち、のりお・よしお、紳助・竜介の次にランクされていた。

その扱いに嫌気が差して吉本興業を止めて独立した。

大手のプロダクションに入っていれば、潰されなかったけど、自分達だけの事務所だったので2年で、すべてのレギュラー番組がなくなった。

一時二人共吉本に戻った。しかし、シロー君は55歳若さで急死。

二人で漫才をする事は無かった。

サブロー君は大阪のTVで頑張っています。

個人的にはもっと見たい漫才師で、続けていれば日本一の漫才師になっていたと思います。

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