見出し画像

元よしもと・ホリプロ芸人 松稔の芸能裏話6島田紳助との出会い

元よしもと・ホリプロ芸人 松稔の芸能裏話6島田紳助との出会い

島田洋之介・今喜多代師匠の弟子で、島田紳助と云う元暴走族の奴がいると、桂小枝から聞いていた。

紳助と初めて会ったのが京都花月で、さすが元暴走族やなぁと云う感じだった。
髪はリーゼントで剃りは入ってるし、いかつい顔に釣り上がった眼そして、しゃくれた顎、決して男前ではなかった。

どちらかと云うとシャクレタ顎でブサイクな顔やった。
オーバーオールに白のタートルネックセーター、厚底のスニーカー、弟子としては動きにくい靴を履いていた。

弟子生活も長いのか、弟子仲間では上の方だった。
とっつきにくく、恐かったからこっちから喋らなかった。

彼の方から『Wヤング師匠の弟子なんや』「ハイそうです」『あそこはきついやろ』「はい、いやいいえ」『そんな気使わんでええよ、同じ弟子やねんから』

最初恐かったけど、喋り出したらいい奴で、顔に似合わずロマンチストで色々考えていた。

どうしたら売れるか、売れる為に今なにをすべきか作戦を練っていた。
25才までに有名になって、30才になったら漫才やめて、40才なったら
自分のやりたい事をすると、事細かく将来設計をしていた。

彼の偉いのは、その通り実現させている事だ。
B&Bの洋七兄さんの弟弟子になる彼は、洋七兄さんに憧れていて、コンビを組むような話をしていた。

紳助はリーダータイプ、洋七兄さんもリーダータイプ、これでは自分を生かすのは無理と考えて、当時なんば花月で進行(舞台裏のスタッフ)をしていた松本竜介に話を持ち掛け、さんまさんの口添えもあってコンビを結成した。

紳助は年寄りを笑わすのはベテランの芸人さんに任して、僕らは若い人、
同世代の人を笑わせたいと会社に訴えていた。

その考えは同感で結構話が合った。
でも当時会社の考えは年寄りを笑わされへんもんが若い者を笑わせる訳がないと、訳の分からん事を云っていた。

しかし僕らの信念が通じたのか、当時新人マネージャーの田中さん(京大出身)が力になってくれた。

花月以外で初めてのライブを阪急ファイブオレンジルームで開催した。
200人位の客席でテレビにも出てない若手二組が、チラシを刷って自ら配りライブを実現させた。

思った通り客の反応は早く、爆笑につづく爆笑!思惑どうり良く受けた。

ダウンタウンやナイティナインなど、若手が活躍出来るようになったのは紳助のお陰だと云っても過言ではない。

お客さんが若い時は200%くらい力を出し切るが、年寄りや紳助を受け入れないような人の前では、10%くらいしか力を出さず思い切り手を抜いてりして、無駄な事をしない性格だった。

NHKの新人演芸コンテストで優勝じゃなくて敢闘賞だった時は、表彰式で貰った花束を舞台の上で投げつけていた。

その行為自体はいけない事だと思うが、一番受けていたのは紳助竜介だったので気持ちは凄く分かった。

後年はバラ珍で涙を流していたが、昔は客が野次でも飛ばそうものなら小道具の刀を持って追い掛け回していた。年取ると性格も丸くなるものだ。

とにかく紳助の功績で今の若い人にお笑いの流れを作ったように思う。

昔のお笑いタレントはスーツに蝶ネクタイと云うお揃いが基本だった、なのに紳竜は
つなぎの服でリーゼント、パンチパーマと云う出で立ちで先輩達から異端児扱いされていた。

しかしもっと昔の漫才は着物に三味線や太鼓で歌を中心にやっていた。
それを着物からタキシードにして、シャベリだけで勝負したエンタツ・アチャコ先生、やっぱり異端児扱いされた。

スターになる人は初め異端児扱いされるものだ。
★電子書籍が発売になりました!kindleから500円です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B01M0DDN8K

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?