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【二世・西川鯉三郎】について…、(名古屋をどりNEO傾奇者2024を前にして。)②



鯉三郎百話より(昭和52年発行)『二代目を継ぐということ』

慰問で目が開く

名古屋は能がかった踊りが多いので、足の動きがきれい、東京は手踊りが多いため手がきれい、大阪は、腰やすそさばきがきれい・・。と、それぞれの特徴がありますが、西川流はこんな特徴を3つとも大事にしていました。
もうひとつは花柳界の人たちの多さ。
名古屋のほかに、金沢、九州、北海道、豊橋、岐阜、桑名、四日市といったところが、西川の基盤。
その頃、花柳界が全盛期でありました。

ところが、昭和12年、戦時体制になってくると、しめつけが厳しくなり、花柳界や、舞踊界もどんどん窮屈になっていきました。
食料に始まり、衣類の配給制。
襦袢一枚、足袋一足買うにも切符が必要でした。お座敷は、お客様にお酒何本の割り当て、芸者は足袋を履いてはいけないなど、とても窮屈でした。
踊りの会は、ストップせざるをえなくなりました。

そのころ70人いた名取は、軍事経理部へ仕事に出かけることになり、半分づつの交代制で、あとの半分は、軍需工場へ慰問に行く・・・。
こうして組織したのが慰問隊でした。
35人づつの2組(西組と川組)に分け、さらに、6人ぐらいの班に分け、名古屋を中心に中部地区を慰問して回りました。
はじめは古典舞踊をやっていましたが、ちっとも喜んでもらえない。
ハッと気づき、レコードにある民謡や軍歌に踊りをつけ、軍人さんや、働く人たちに親しみやすくしてみたらどうだろうと。
「三階節」など民謡を踊ったところ、兵隊さん達は、皆もう夢中。手拍子をしながら歌いだすのでした。

ある日、慰問に行った時のこと、舞台が終わり、楽屋代わりのテントの中で「ああ、喜んでもらえたんだ」と思いがかなった満足感を抱きながら帰り支度をしている時、不意にテントの隙間から何本も何本も手が出ている・・・。

驚く私たちに「慰問ありがとう。誰でもいい、手を握ってくれ。」
舞台を観ていた、明日は戦地へ行く兵隊さんたちなのです。
顔は見えないけれど、その手の熱さ。もう全員が一生懸命になって、何度も何度も握りしめたのでした。「ありがとう。ありがとう。」名残りつきない別れの声。別れの手。

その部隊は、翌日玉砕の島へ出発して行くのでした。

✴︎この話は、私たちが子供の頃から、祖父によく聞いていたお話です✴︎

西川陽子

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