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仏教のはなし「聞法は問法」

「お勤めをしていても、庭を眺めていても、ふっと思い出して涙が頬を伝わってきます。悲しみは悲しみのまま、娘のKが私を父として生まれて来てくれたこと、家族でいてくれたこと、そして、生きてくれたいのちのこと、いろんなことを今もお念仏に問い続けています」

十年前の四月に三女を亡くした友人である住職の手紙の冒頭の言葉です。
突然の悲報でした。午後になっても姿を見せないのを心配なさった坊守さんが彼女の部屋を訪れ、ベッドの中ですでに冷たくなっていた娘さんを発見されたとのことでした。
一万分の一の確率で起こる、若年性のくも膜下出血で、高校一年生の春、16歳での急逝でした。
通夜の席で友人は、「私は住職です。これまでご門徒さんの悲しいお別れを何度もご一緒してまいりました、つらいだろう、悲しいことだろうと、その悲しみをわかったつもりでおりました。今このご縁に遇って本当の悲しみを知らされました。親鸞聖人はこのご縁をお念仏に出遇うご縁として慶べと教えて下さいましたが、今慶べない自分がここにいます。これからは私も私の家族も、Kが私たちた夫婦を親として生まれてきてくれたこと、私たちの家族でいてくれたこと、そして、Kが生きてくれたいのちのこと、さらに自分たちのいのちの意味をお念仏に問い続けてまいります」という内容の挨拶をされました。

「浄土真宗のすくいは過去がすくわれ、当来がすくわれ、現在がすくわれると云うが、過去がすくわれるとは過去の悲しい出来事が、慶びに変わることではない。子どもを亡くした親の悲しみはなくなることはない。そのことをご縁として阿弥陀様のお慈悲に遇わせて頂いたことは大きな慶びである。しかし、子供を亡くした親の悲しみはどこまでいっても悲しみのままである」と自らの体験を通して教えて下さった先生があります。「悲しみが癒されるのではない、悲しみが取り除かれるのではない、その悲しみは悲しみのまま、何一つ解決出来ない私の本当のすがたを見抜いてくださり、その私を目当てとし、支え続け、私と共に私の人生を生きてくださるのが南無阿弥陀仏の仏様であります」というお味わいです。

その友人の言葉を聞きながら大事な二つのことに気づかされました。
私は今まで「浄土真宗では」と云う言葉で沢山の悲しみに寄り添うことなく逆にそれを切り捨ててきたのではなかったのだろうかと考えさせられました。 
今一つは友人の「お念仏に問い続けて参ります」と云う言葉です。法を聞かせて頂くということはそのまま法に問うていくということです。生存することと生きることの違い、私のいのちの根本の問題をお念仏に問う大切さをこのご縁から教えられたことでした。


広島県 妙蓮寺
高橋哲了

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