『RRRで学ぶテルグ語』ではしない話

 2024年1月26日、2月2日、2月9日に開講予定のオンライン講座で講師を務めることになりました。RRRを何度も見た初心者の方という限定にも関わらず多くの方にご応募いただき驚いております。最初にお断りしておきますが、映画を理解するのに文字を読む必要はありませんので、テルグ文字の話はほとんどしません。3回目の辞書引きの説明で、テルグ文字表記を含めたさまざまな表記とその関係について触れるぐらいです。テルグ語の読み書きを学びたい方は山田桂子先生の『基礎テルグ語』をお勧めします。書き順までの情報は他ではなかなか見当たらないと思います。
 この3月からRRRとそこに出てくるテルグ語について雑文をいろいろ書いてきましたが、講座の内容とあんまりダブってしまっては受講者の方に申し訳ないので、この話題については、説明不十分なところの説明追加を含め、講座が終わるまでは更新を封印します。(いい加減に書いて間違ったところの修正はするつもりです。匿名じゃなくなりましたので「自己責任で」とは言い難くなりました。)ここでは、講座では話さない予定のことを補足的に書いて行きます。「予習」の必要はありませんので、そのつもりでいてください。
 最初はテルグ文字の話です。沼ってテルグ文字に手を出してしまった人向け。

タラカッとぅ

 テルグ文字とカンナダ文字はよく似ています。たとえばチランジーヴィ64歳主演の主題歌『サイラー』にも出てくる కొదమసింగం コダマシンガン「若獅子」はカンナダ文字で書けば(そんな単語はカンナダ語にはないですが) ಕೊದಮಸಿಂಗಂ で、最初のコ以外はフォントデザインの違いじゃないの?というように見えます。ダ、マ、ガの文字に共通する「☑」みたいな部分をテルグ語ではタラカッとぅ、カンナダ語ではタレカッとぅと言い、どちらも「頭の結び」という意味です。ターバンのことだとか、髪を短く刈り上げるバラモンが後頭部に残しておく髪の毛の房のことだとかいった説明を聞きますが、この共通の名前は二つの文字が分かれたのが比較的最近だということをよく物語っています。実は、タラカッとぅとタレカッとぅ、初学者を混乱させる次のような特徴も共通です。

  1. 短母音アの記号なのに、なぜこれがない子音+アの組合せがあるのか。

  2. 短母音アの記号なのに、なぜウや母音ṛ(ル)にも出てくるのか。

  3. 短母音アの記号なのに、結合子音でなくなるのは母音があるほうの子音なのはなぜか。(例: గ్ద gda)

  4. 短母音アの記号なのに、なぜ母音字 ఈ イーにも出てくるのか。

 あまりにも謎が多いので、調べてみたことがあります。まだインドに留学する前でした。碑文の拓本を比べたり、ハイダラーバードやマイソールで「貝葉文書」を保存しているアーカイブを訪ねて写経のまねごとをしたり、スケッチブックを持って行ってインド各地の出身者に実際に書いてもらったり。
 結論から言うと、タラカッとぅは短母音アの記号としてつけられたものではない、ということになります。では何だったのか。ここを理解するためにまず押さえておかなければいけないのは、テルグ文字やカンナダ文字は、テルグ語やカンナダ語を表記するために考案された文字ではない、という点です。紀元前3世紀にアショーカ王が不殺生(肉食禁止)の「法勅 (ダンマリピ) 」を伝えるために支配領域に立てさせた碑文のうち、北西部を除くインドの大半の地域で用いたブラーフミー文字が、各地で変化してできた「インド系文字(ブラーフミー系文字)」であって、北インドのデーヴァナーガリー文字や、日本の梵字、東南アジアの諸文字と同じ系統の文字です。法勅に用いられたプラークリットや、後にはサンスクリット(言語的にはプラークリットより古いヴェーダ時代の形です)のような北インドの言語を表すための文字で、この文字をテルグ語やカンナダ語の表記に応用したのですが、文字の(方言)分化はサンスクリットしか書かなかった時代にすでに進行していたのです。
 例を挙げましょう。字体が変化しすぎてアショーカ王の法勅を読める人がいなくなっていた19世紀にこれを解読したプリンセプの論文に掲載の表がウィキペディアにあります。たとえば、ブラーフミー文字のバは、正方形の記号です。漢字文化圏の我々は、正方形の文字なら、「口」であれカタカナの「ロ」であれ、習慣的に3画で、手書きだと「12」や「IZ」の右側を左にくっつけて書いたような筆順で書きますが、インドでは上の横画から「21」「ZI」の筆順が主流だったようです。テルグ文字の「బ」は、この「1」,「I」が「J」のような形に変化した、ということがわかるでしょう。「1」の部分は地方によって上からの筆順か下の筆順かが違っていて、テルグ文字やカンナダ文字では下から上だったのです。బに限らず、縦画が「I」から「J」のように湾曲する変化は、南インドの南方ブラーフミー文字が北の諸文字から分化していく大きな特徴になります。
 さて、上の謎1に関していえば、బバは、タラカッとぅのない文字になります。ほかにタラカッとぅがない子音字というと、ఖ (有気音のカ)ఙ(鼻濁音のガ) జ(ジャ) ఞ(ニャ) ట(舌を立てる「た」) ణ(舌を立てる「な」) ల(舌を立てないラ l)です。これらの文字のブラーフミー文字での形には共通点があります。バと同じように、上部に横画がある文字が多く、ラ以外は縦画がない、という点です。逆に言えば、タラカッとぅがつけられたのは、上部に横画がない文字で、タラカッとぅは縦画があればその縦画の上部につけられたものだったらしい、ということになります。
 では、ブラーフミー時代になぜこのような変化が起きたのでしょうか。これは、子音字は基本的に短いア段の音節を表し、母音が変わることを母音記号の加筆で表した、というブラーフミー文字の特徴に関わるものです。早期のブラーフミー文字では、母音記号の形ではなく、位置で母音の違いを表したのです。右に加筆すればアー、上ならイ、下がウ、左がエーです。上下左右をみな使ってしまったので、左と右の組み合わせがオーになります。上に2本ならイー、下に2本ならウー、左に2本ならアイ、左に2本と右の組み合わせがアウです。ただ、このやり方では、どの加筆が子音字本体でどの加筆が母音記号なのかの見分けが困難です。ブラーフミー文字は、おそらくアラム文字(ヘブライ文字やアラビア文字、遠くはギリシア文字やローマ字の親戚です)を元に、インド音声学でサンスクリットを構成することが知られていた音をすべて区別できるよう徹底的に改変した文字だと考えられていますが、アラム文字にない文字を作るにあたって、たとえばナと「な」のように、加筆を用いた文字も多かったからです。このため、西暦1~2世紀ぐらいから現れたのが、タラカッとぅに相当する縦画上部の印で、左と上の母音記号はここにつける、という付加位置を示すようになりました。右の母音記号は、右に縦画があればそちらに、なければ左・上と同じ位置につけたのです。タラカッとぅの位置に付加された母音記号はタラカッとぅと融合した、と考えれば、謎2の、タラカッとぅの位置に付加されない下母音記号(ウ)がタラカッとぅと共存する理由もわかるでしょう。
 なぜタラカッとぅがテルグ文字とカンナダ文字にだけあるのか、というのは、北方ブラーフミーと南方ブラーフミーの文字分化と関係します。これは後述しますが、南方ブラーフミー系のグランタ文字(タミル語圏で専らサンスクリットを表す文字)や、その系統のマラヤーラム文字、シンハラ文字、さらに、早くにタミル語専用の文字として分化していたタミル・ブラーフミー文字がグランタ文字に似た整形を経たタミル文字では、タラカッとぅに相当する部分が子音字の筆順の最初になっています。これらの文字では左母音記号と右母音記号を子音字本体から離して書くようになったため、母音記号付加位置としての意味はなくなっています。テルグ文字とカンナダ文字の場合は、筆順が(左・上の)母音記号を付ける直前の位置に変わる変化があったのです。これに対して、北方ブラーフミー文字では、タラカッとぅ相当部分が横に伸びて、本来子音字母の一部であるバなどの最初の横画と区別がなくなってしまいます。このため、バと、タラカッとぅ相当の横画が加えられたヴァが区別できなくなり、発音上も区別がなくなったベンガル語では共に「ব」、デーヴァナーガリーではバのほうに加筆して「ब / व」のように区別しています。日本の梵字は、「蓮実の」バと「半月の」ヴァとして区別を保っているこの前段階になります。
 一方、ブラーフミー文字では、母音が間に入らない子音連続は、子音字母を縦につないでこの結合字全体に対して、1種類の母音記号が結合字の上下左右に付く、という仕組みでした。頻繁に用いられる結合字には、デーヴァナーガリーのज्ञや क्ष्のように完全に融合してしまったものがありますが、結合子音字の構成をはっきりさせて融合させないための字形の変形もあります。北方ブラーフミーでは、右下側が左よりも下に伸びるように字形を傾け、右下側で後続の子音や下母音記号(ウ)に接続する、という、現在のチベット文字に近い仕組みを採用しますが、やがて、右下側に縦画を伸ばして足にする、という形になります。結合子音の両方が縦画のある子音字であれば、縦画を共有し、縦画以外の部分が上下、あるいは左右に並ぶというのが基本的な構成ですが、いずれかの子音字が簡略化されるものもありました。サンスクリットは子音連続の組み合わせが多く、4個以上の子音字から成る複雑な結合字もありえました。
 これに対して、右下への縦画の延伸がJ字型にカーブする、というインドの南方ブラーフミー系文字に共通の特徴も、子音字の下部の確定という効果をもちますが、本来は装飾的な変形であったかもしれません。この下部にさらに接続する下母音記号(ウ)も、同様にJ字型になっています。面白いのが、縦画があるのにタラカットゥの付されなかったラ(la)の場合、延伸と左へのカーブが文字の下ではなく上に向かって起きていることです。このカーブは反時計回りに文字全体を包み込むように伸びました。一方、文字下部でのJ字型の延伸も、後続の部分がないラ(ra)では、そのままタラカッとぅに達するまで伸びて、縦長の楕円形の文字となりました。テルグ文字のర(ra)とల(la)をマラヤーラム文字(രとല)、シンハラ文字(රとල)などグランタ系の文字と比べると、これらのカーブと延伸が南方ブラーフミーに共通の改新だったことがわかります。一方、東南アジアの諸文字にはこのような改新を経ているものはありませんので、この地域のインド系文字は、系統史的にはブラーフミー文字の南北への分岐が起きる前の分枝と見るべきだと思います。
 縦画から楕円への転換は、母音字母のイーでも南方ブラーフミーに共通に観察される変化です。アラム文字は母音の区別を表さないので、Aと同系統のア以外の母音字はブラーフミー文字が新たに作り出した文字ですが、割合イージーな作りになっています。子音に後続しないイが3点、ウがこの3点を2本の線で結んだもの、エーが3点を結ぶ三角形です。オーは三角形左上への加筆でできています。イーは、イの3点にもう一点加筆したものだったようですが、この4点のうち2点を線で結んで残る2点を両側に配する字形だったらしいことがタミル文字のஈ でわかります。左下から上へのタラカッとぅ相当部分はグランタ文字の影響でついたものと思われますが、グランタ文字では中央の縦棒が上に折り返して鼻みたいに見えます。顔文字にそのまま使えそうな字形なのですが、グランタ文字のフォントは標準装備ではないため普及していません。代わりにシンハラ文字のඊ を挙げて起きます。テルグ文字のఈは、円の両脇に配された2点を線で結んだもので、タラカッとぅは、この円が本来縦画だったときに付された装飾部の名残、ということで謎4は解決です。
 縦画がカーブして、下には伸びなかったため、南方ブラーフミーの子音字母は底部が平らなものが多くなります。この結果として、底部を基線として揃える書き方が標準となったようで、このことが筆順の変化を引き起こしたようです。左側から反時計回りに右上に向かう、という筆順です。この変化で、結合子音字は大きな影響を受けることになります。一番上の第一子音字は、単独の場合と基線を揃えて、下から上への筆順となったのに対し、基線の下に配置されることになった第2子音以下は上から下への筆順のままでした。テルグ文字でk, t, n, m, y, r, l といった、子音結合の第2子音として現れやすい子音で不規則な記号形が多いのは、上から下への時代の筆順を保ったものが多いからです。lは上へのカーブが起きていない字形ですし、タラカッとぅのない第2子音の位置ではrは閉じないで線のままです。結合子音では、タラカッとぅや母音記号は結合子音字全体として1個で、タラカッとぅと左・上・右の母音記号はもともと第1子音字に付された(謎3)のですが、テルグ文字とカンナダ文字では、おそらく基線の下への延伸を避けて下母音記号(ウ)も下から右上方向への加筆(コンム「角」)となり、第1子音の子音字母に付されるようになりました。この結果、子音-母音ー子音と書いて、子音-子音-母音と読む、という初学者泣かせの構成が完成したのです。例外は、母音記号アイの2本目で、これは結合子音字全体の下に書かれます。もともとの左母音記号2本のうちの1本が下に回って文字全体を上下に挟みこむものだった、という性質を維持しているわけです。

 ブラーフミー文字でタラカッとぅ相当部分が縦画の上部に付加されたことは前に書いた通りです。タラカッとぅのある縦画も下部がJ字型にカーブしていること、縦画が2本ある場合にはタラカッとぅは左側につくことを考慮すると、子音字母はこの部分から書き始めたと考えられます。南方ブラーフミーが底部を基線にして縦画を下から書くようになってからも、グランタ文字系ではこの起筆位置は変えなかったようです。タラカッとぅ相当部位を左下から時計回りの弧として描いて、そこから縦画の左側を書き、ここから縦画下部につないで反時計回りにつなぐ、という筆順で、タラカッとぅ相当部分は縦画から離れてしまうものも多くなります。シンハラ文字の場合、時計回りから反時計回りという、いわば逆S字型の筆順の共通性が強調された面白い字形になっていますが、グランタ文字やマラヤーラム文字も、左側が時計回りで右側で反時計回りというパターンの文字が多いです。たとえば、マラヤーラム文字のമ マは、2に続けて右下から上へ、というような筆順になります。
 これに対して、テルグ文字とカンナダ文字では、縦画が1本の場合、まず縦画の左下側の部分から書き出してJ字型の縦画下部につなぎ、反時計回りに上に上がってタラカッとぅ(又は/及び母音記号)が最後に書かれる、という筆順となりました。縦画が2本ある場合は、縦画左側の部分がタラカッとぅのある左側縦画に接続するか、右側縦画に接続するかで2パターンに分かれます。前者の場合、つまりమ(マ)やయ(ヤ), ఝ(有気音のジャ)では、タラカッとぅ(あるいは左/上母音記号)の後に書かれる右側の縦画が、右下からのコンムとして統一されました。これに対して、左下から直接右側の縦画下部に直接接続する文字では、左上のタラカッとぅが最後に、子音字本体から離れて書かれるようになったのです。(ఘ 有気音のガ ప パ ఫ 有気音のパ ష しゃ స サ హ ハ)
 ここからがテルグ文字とカンナダ文字の違いになります。最初にあげた、タラカッとぅとタレカッとぅの形の違い、つまり、テルグ文字では「✓」形なのに、カンナダ文字だは右端以外は平らに書かれる、という違いは、単なるデザインの問題ではないのです。テルグ文字の場合、タラカッとぅの位置に付加される左母音記号(エ)と上母音記号(イ)は、形の違いです。左母音記号は、上部で曲がったあと、左に伸ばしますし、上母音記号は上方向の反時計回りののループです。これに対して、カンナダ文字ではこの二つは共にループで、違いは子音字本体からの接続のしかた、つまり、左母音記号はタレカッとぅと同様に折り返して、右端で上に向けてループを作るのに対し、上母音記号は折り返さずに直接上に向けて伸びてからループ、という区別になります。このため、テルグడ 「だ」とカンナダಡのように、テルグ文字ではタラカッとぅが本体に接続していても離れていてもどちらでもいい(フォントによる)が、カンナダ文字では必ず接続していなければならない、という字母もあります。前に述べた、最後にタラカッとぅが最後に離して書かれるタイプの子音では、カンナダ文字の場合、タレカッとぅの下に、反時計回りの接続部を作るために小さな点が付されているものが多いですし、ಹ「ハ」は、タレカッとぅを本体に接続させるため、右下から時計回りに戻る線を加えてテルグ文字とは異なる字形になったものです。このほか、ಕ(カ)や ಚ(チャ)も、タレカッとぅの下にパなどと同様の、ダミーの点を加えて書く人もいます。カの場合、ブラーフミー文字で+の形だったカの縦画のカーブ延伸が横画で止められ、一方、タラカッとぅと下のループとの接続も横画で中断され、タラカッとぅを離して書く文字になった、というテルグ文字・カンナダ文字共通の変化を反映しています。テルグ文字では、反時計回りのループの後、左から右への横画に続けた形が、S字のように見えるため、そのように活字化され、英語教育で育った人だとSのように上からの筆順で書いてタラカッとぅを乗せる人もいますが、歴史的には下から上へ反時計回りで書き始める筆順が正しいのです。(上部をタラカッとぅにつないで書いた時のテルグ文字のカは、必ずタレカッとぅにつながなければならないカンナダ文字のタに似ています。タは右側にループがあるのですが、このループはつぶれやすいからです。テルグ文字のタの書き出しにカンナダ文字にはないループがあるのは、カとの区別をはっきりさせるためでしょう。手書きでは、右側のループを強調するために最後に右下側の弦に線を引いてダメ押しする人もいます。)
 タレカッとぅがほぼ平らでなければならないことを説明するもう一つのカンナダ文字の特徴は、カンナダ文字は文字の底部だけでなく上部も基線としているらしいことです。この点は、テルグ文字とカンナダ文字の母音記号の違いとも大きく関わっています。テルグ文字の母音記号のつけ方は、初学者にはかなり不規則に見えると思います。母音記号のオは、つく文字とつかない文字があります。これは、本来左母音記号と右母音記号の組合せで表されていた母音オーが、両方の母音記号がタラカッとぅの位置に付加された場合の二つの母音記号の合字として母音記号オが成立した、という歴史に関わっています。右母音記号をタラカッとぅの位置ではなく右側の縦画(コンム)に付加する子音字では、現在でもこの組み合わせが母音オーとして用いられます。また、フォントとして見かけることはありませんが、古い印刷物では、タラカッとぅの右側の縦画をもっていた子音字の中には、本来ないコンムを付加した上で、左母音記号とこのコンムに付加した右母音記号の組み合わせでオーを表している活字も散見します。これに対して、カンナダ文字の場合、単一の母音記号をタレカッとぅの位置に付すのではなく、左母音記号と、右母音記号あるいはコンムを付加した上で右母音記号、という母音オの横長の表記で統一しています。カンナダ文字ではこの組み合わせが短いオ、テルグ文字では長いオーとなるのは、北インドの諸言語では母音エとオに長短の区別がなく、テルグ語やカンナダ語の正確な表記に必要なこの区別が定着したのがテルグ文字とカンナダ文字の分化した後だったからです。
 テルグ文字の場合、本来は母音アーを表していた右母音記号を長音記号と再解釈したため、左母音記号と右母音記号の組合せが長いオー、左母音記号とコンムの組み合わせが短いオとなります。他の母音では、コンムに右母音記号を接続させた形がウー、タラカッとぅの位置の他の母音記号(イ、エ、オ)の上に、右母音記号の短い形として成立したと見られる時計回りの弧(cf.హాハ―) を乗せることで、長母音イー、エー、オーを表します。このように、上に積み上げる書き方なので、テルグ文字の手書きでは高さはかなりでこぼこになります。これに対して、カンナダ文字では長母音イー、エー、オーは、字母右側に離して書く長音記号で表すのです。
 テルグ文字でもカンナダ文字でも、母音記号アウはどの子音でも区別なく、右母音記号と同じ位置に付加されます。この記号は、左母音記号2個と右母音記号の合字で、手書きだと左側の折り返し部分を2段で書く人もいます。テルグ文字の場合、理屈上は、2段折り返しの左母音記号と右母音記号の組合せもありうるはずですが、活字としては折り返しが2段の記号を見たことはありません。母音がないことを示す記号は、テルグ文字とカンナダ文字でだいぶん違います。どちらもタラカッとぅを置き換えるという点は共通ですが、テルグ文字では下からの時計回りの折り返し、カンナダ文字ではタレカッとぅの終端でのループです。
 とまあ、テルグ文字・カンナダ文字の経てきた改新をまとめてみましたが、エとオの母音の長短を除くと、テルグ語やカンナダ語の言語に合わせた改変というのがほとんどない、ということがわかるでしょう。言語と関係なく起きた改変なのです。最後にひとつだけ、これはテルグ語・カンナダ語の特徴が関係しているかもしれない、という改変をひとつあげます。テルグ語でオットゥという、有気音記号です。有気音と無気音がオットゥの有無だけで区別されるものもあります。これは、ブラーフミー文字の時代から一方の文字から他方を派生する、という造字法のため、もともと似ていて区別を失いやすかった、ということがあり、有気音かどうかの記号だけで区別するという改新とも見ることができますが、もともと無気音字と似ていないもの、たとえばアラム文字でQに対応する文字の転用と考えられる有気音のカや、Θに対応する文字の転用とみられる有気音のタにも、オットゥがついています。フォントではオットゥのない有気音の「た」も、手書きではつける人が多いです。これは文字の区別のためよりも、本来有気音と無気音の区別のないテルグ語やカンナダ語の話者が、サンスクリットなど北インドの言語からの借用語で正しく有気音として発音するための注意書きとでも言うべきものでしょう。ただし、北インドの人に言わせると、南インドの人たちが直すべきなのは、ほんとうは、無気音を有気音で発音してしまっていることなんだそうです。区別がない、というのはそういうことなのです。
 以上、活字ではよく似て見えるテルグ文字とカンナダ文字ですが、特に手書きだと似ても似つかないものになる、というお話でした。このあとは、考察を書いてみようかと思うのですが、続くでしょうか。

 テルグ文字もカンナダ文字も、デーヴァナーガリーや梵字と同じく、ブラーフミー文字から地方ごとに変化してできた方言的な字形だ、ということはおわかりいただけたと思います。しかし、なぜ文字がこんなに変化してしまったのか、というところが、特に漢字文化圏の我々にとっては不思議に思えます。アショーカ王の時代というと、漢字で言えば隷書体が盛んに使われた秦の頃ということになりますが、楷書とほとんど同じように見えますし、地域ごとに分化していったりはしません。
 中国とインドの違いとして、中国では天下統一を成し遂げた王朝が(異民族支配を含め)何回も繰り返され、皇帝が文字の規範を定めて統一を図ったのに対し、インドではアショーカ王以後、長期にわたって南北インドを統一支配した王朝がなかった、という点も関係しているでしょう。しかし、それにしても変化しすぎのような気がします。ローマ字やギリシャ文字は、筆記体としてかなり違う字形が生まれますが、活字体は古代のものでも問題なく読めています。ローマ字やギリシャ文字との違い、というと、ブラーフミー文字はもともと複合的に構成される文字であって、その構成を明示するための工夫が地方ごとに異なったらしい、ということはわかりますので、変化しやすさの理由にはなるでしょう。しかし、ここで立ちはだかるのが同じく複合的な構成をもつ漢字です。漢字の場合、複合的だからこそ、たとえば画数への分解のしかたや標準的な書き順が、漢字の知識の一部として伝承されてきたのだろうと思います。これに対してインドでは地方ごとの創意工夫が許されたのです。
 よく言われることとして、「南方ブラーフミー文字は貝葉(パルミラ椰子の葉)にスタイラス(鉄筆)で刻んで書いたので曲線が多くなった」という説明があります。ただ、この説明は不十分だと思います。たとえば、右下への延伸が、チベットなど北方系のような鋭角の長い切れ込みになるのを避けてJ字型になった、というともっともらしいのですが、カンナダ文字のタレカットゥへの折り返しはやはり長い鋭角の切れ込みを作ります。縦方向の切れ込みか横方向の切れ込みかの違いだから、葉脈を横切るのを避けてJ字に曲がったのでは、という説明も、その後の逆方向の延伸は妨げられていない、という反例があります。書字材料としてはむしろ、北インドで用いられたインク(墨?)を筆で塗り広げることの特性を考えたほうがいいのではないかと思います。
 木の皮を用いた文書としては、ガンダーラで近年発見された1~3世紀のカローシュティー文字の樺皮仏典写本が世界で最も古いもののようですが、これはインクで書かれています。ブラーフミー文字のサンスクリット写本も、樺皮のものは同時期のものと比定されています。北インドでは貝葉文書も用いられたはずですが、保存されていたものとしては最古のものの一つである法隆寺の般若心経貝葉写本は墨字の梵字です。
 筆で書く文字として北方ブラーフミー文字が持っていただろう特徴は、漢字やカナから類推することができます。筆だと、書字方向が字形の違いとして現れます。カナの「ソ/ン」「ツ/シ」のような違いは筆で書く文字だったから維持できたのです。また、「とめ」や「はらい」のような「筆遣い」の違いは同じ字体でも異なる字形を作り出します。私がテルグ文字の謎に取り組んでいた頃に話題になっていた「変体少女文字」、いわゆる(男も使う)「丸文字」は、筆を使わなくなったことで、「よ、ま、ほ、な」のような「とめ」で終わる字と「あ、お、の、め」のような「はらい」で終わる字の区別がなくなってしまう方向の変化を見せています。筆で書く文字は、そうでない文字では維持できない区別を導入できただろう、ということは言えると思います。一方で、太字になりやすい筆文字が苦手なのは、テルグ文字やカンナダ文字でよく現れるループのような、短い線での筆遣いです。インクを均等に塗るためには、すばやく筆を動かせる程度の長さのある線が望ましかったのだろう、ということが北方ブラーフミー文字の変化からはうかがえると思います。
 南方ブラーフミー文字の変化にスタイラスで書く線文字としての性質が反映したと言えるとしたら、インクを使ったことに結び付けられるような変化が見当たらない、という程度のことだと思います。書き順を簡単に変えてしまうのも、筆を使わなかったことで、筆順の変更がそれほど大きな変化を引き起こすと予見できなかったからだ、とも言えそうですが、これについては筆を使っただろう北方ブラーフミー系文字でも、たとえばベンガルやオリヤはデーヴァナーガリーの筆順が変わってしまったことによる変化を経た文字なので、決定的な要因とは言えないだろうと思います。
 字体の変化に無頓着だったのは、一つには、書字媒体として用いられた貝葉や樺皮の保存性が、紙と比べて格段に低かった、ということも関係しているでしょう。過去の名筆を典拠としてそこから逸脱しないようにする、という努力が成立しなかった、と言えるかもしれません。しかし、アショーカ王法勅のように、石や金属に刻まれた過去の記録はあったはずなのです。
 北インドを長く支配したイスラム教徒は紙に書かれた記録をたくさん残していますし、インクを用いるアラビア文字書道の伝統も受け継いでいます。しかし、南インドのヒンドゥー教徒は、紙やインクを不浄とみなしたため、近代に至るまで貝葉にスタイラスで文字を刻む写本を書き継ぎ続けました。
なぜ不浄なのか。ひょっとすると、皿のような食器を洗って何度も使うことを不浄とみなし、バナナの葉のような使い捨ての皿で食べるべきだという考え方と通じるものがあるのかもしれません。貝葉に章句を刻むのは記憶の助けのためであって、書き写すときには記憶してしまわなければならないし、記憶してしまえば貝葉の役目は終わりになります。保存性のよい媒体に記録して何度も参照するのは、食器を何度も使うのと同じようなものです。
 サンスクリットは単語の分かち書きをしませんし、同じ単語でも前後にどんな音の単語が来るかによって発音(つまり表記)が変わってしまいます。章句全体の発音に応じた表記、というのは、歌詞が全部カナ書きになった歌の譜面のように、「読むため」というよりは、すでに覚えていることを前提として書かれているように感じられます。貝葉文書のアーカイブにやってきて書き写している人たちも、朗誦しながら確認して書き写している人が多いのです。
 インドの知的伝統は、記録することより記憶することを重視する文化だと言えると思います。個人の記憶に容量の限界があるのは自明のことですから、歴史をまるごと記憶するような無茶なことはしません。いかに効率よく記憶を応用するかを工夫するのです。インドの知恵としてよく知られている、ゼロを用いた位取り記数法や、それによって可能になった「筆算」は、10個の数字、9×9通りの演算を記憶していることを前提として、無限の数を表記し、どんな組み合わせの演算でも可能にする技術です。インドで政治家は尊敬されなくても司法関係者の発言力が強いのは、あらゆる場合に適応できる法律を記憶している人たちだからでしょう。一方で、漢字文化圏的常識からすると、文字記録のもっている規範性は低いのです。
 テルグ語の場合も、分かち書きが導入されたとは言え、サンスクリットと同様、単語よりは章句全体としての発音を表記するという慣行は維持されていて、正書法も確立されているとはいえません。文字の話はしない、というのもこのへんを説明することを避けたいからです。まずは映画を繰り返し見て、セリフを丸ごと覚えてしまいましょう、というような講義になると思います。文字は覚えなくても、どんな音が区別されているか、は覚えてもらわなければいけないのですが。

 

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