RRR雑談

総督

 スコット総督やエドワードはなぜテルグ語を解するのか?映画の中ではラーマ父の現役警官(兵士?)時代にスコットがアーンドラの村に現れて弾丸の価値の説教を垂れてます。この時点から15年以上を経て、弾丸の値段が第一次大戦を挟んで6シリングから1ポンド(20シリング)に上がる間ずっと総督だった、とは考えにくいので、この時のエピソードはマドラス州行政官としての任務だった、と映画では見せようとしているようです。
 スコット(やエドワード)が、もしもマドラス州勤務であったとすれば、テルグ語に堪能であったとしても不思議はありません。東インド会社時代からテルグ語はマドラス州から重視されていて、1816年のフォート・セント・ジョージ・カレッジ創設に合わせて、教科書として使用するために、東インド会社社員キャンベル著のテルグ語文法書が出ています。この文法書の序文の補足として、同僚エリスが「テルグ語・タミル語・カンナダ語・マラヤーラム語は同系統であり、サンスクリットや北の言語とは異なる」と解説したのが、その後「ドラヴィダ語」と呼ばれるようになった系統の発見、ということになります。1820年には、時のマドラス州総督が、東インド会社社員は全員現地語を習得すべし、という通達を出しています。
 インドの言語の辞書や文法書は宣教師によるものが多いのですが、私がここのページを書くために使っているテルグ語・英語辞書は2冊とも行政官が著したものです。

  •  チャールズ・フィリップ・ブラウン:A Telugu-English Dictionary

    • 1817年~1854年、マドラス州勤務。テルグ語古典文献を東インド会社収集資料から再発見。退職・帰国後に文法書刊行。帰国後はロンドン大学でテルグ語を教えたこともあるようです。テルグ文字・英単語でも引けます。テルグ語ローマ字綴りは母音の長短区別なしです。

  •  ジョン・ピーター・ルーシャス・グィン:A Telugu-English Dictionary.

    • 1939年~1968年、マドラス州、インド独立後のアーンドラ州・アーンドラ・プラデーシュ州勤務。インド独立はイギリス人を追い出したわけではありません。出たい人が出て行っただけです。この辞書はテルグ文字では引けません。ローマ字表記の長母音はaa, ii, uuのように。vではなくw で表記します。

 スコット総督が、マドラス州行政官のたたき上げからのインド総督、という設定だとすれば、誰かモデルでもいるのかなと調べてみましたが、インド総督(Governor-General)で叩き上げと言えるのは、初代のヘイスティングスと3代目のショアぐらいでした。特に、東インド会社から直接統治に移行してから後は、副王 Viceroy としてイギリス国王の代理人を務めなければならない立場でもあり、本国の有力政治家か、大英帝国の他の植民地総督からの配置換えという任命ばかりでした。映画でも、単に Governor と呼ばれていますし、インド総督ではなくマドラス州総督のイメージかと当たってみたのですが、こちらも似たり寄ったりで、たたき上げの総督がいるとしたら、本国で後任人事が決まるまでの総督代行ぐらいです。
 これはたぶん、東インド会社の植民地統治開始以来の伝統だと思います。東インド会社は国王から独占貿易権の勅許を受けて設立された会社で、取締役会は本国にあったのですが、インド側の現地勤務ではその立場を利用して、会社の業務とは別に、私的取引で蓄財するチャンスが大いにありました。背任で訴えられて賠償金を課される総督も後を絶たなかったのですが、それをはるかに上回る蓄財が可能だったのです。ヘイスティングスは、ペルシャ語、ベンガル語、ウルドゥー語に堪能なことを買われ、ベンガル宮廷の政治情勢にも通じて東インド会社による傀儡化に貢献し、さらにカルカッタ総督をGovernor-Generalとする英領インドの一元的な支配体制を確立した人物で、蓄財にはあまり縁がなかったようですが、それでも帰国後に背任の嫌疑で訴えられ、長期にわたる裁判費用で財産を失ったとして勝訴後に東インド会社から年金の給付を受けています。本国の取締役会が現場叩き上げを信用せず、総督を外から送り込んで監視する、というのがこの後ずっと続いたのだと思います。
 貿易会社時代のマドラス総督の蓄財の例としては、初代マドラス総督イェール’(アメリカ植民地の某大学設立に多額の寄付をした人)が有名ですが、この人の蓄財にはテルグ語のエリアが関係しています。16世紀末(信長・秀吉の時代)まで東洋貿易を独占していたポルトガルを追い落とそうとオランダやイギリスが東インド会社を設立して進出してきた時代、現在のテルグ語地域をほぼ支配していたのは、ゴールコンダ城(ハイダラーバードはこの城の新市街として⒗世紀に建設されました)のスルタンでした。ゴールコンダの貿易港として栄えていたのが、クリシュナ河デルタのマチリーパトナム(バンダル)です。イギリス東インド会社が東海岸の最初の拠点としたのはこの港(1611)なのですが、ゴールコンダの支配領域の外に軍事拠点として17世紀半ばに作ったのがフォート・セント・ジョージで、マドラス(チェンナイ)はこの城に付属した町です。イギリス・オランダの東インド会社がマチリーパトナムで輸入していたのは主として綿布(その後、ベンガルに移動)でしたが、ゴールコンダにはもうひとつ、世界でここだけという輸出品がありました。ダイヤです。ダイヤと言えばインド(シンドバッドは「インダス河の風」という意味だそうです)という時代が有史以来長かったのですが、ゴールコンダ時代にはクリシュナ河流域の鉱区開発がさらに進みます。しかし、ダイヤの輸出入はゴールコンダ政府が厳しく管理していて、イギリスの参入するチャンスはありませんでした。そこで、ムスリム王族にもコネのあるオランダ系ユダヤ人ダイヤモンド商人をマドラスに住ませて便宜を図った、というのがイェール総督の私的収入源だったようです。イェールは、在任中はダイヤモンド商の未亡人との不倫でスキャンダルとなり、帰国後は背任で訴えられて負けるのですが、それでも富豪として生涯を終えています。残念ながら、ゴールコンダのダイヤは18世紀にはほぼ枯渇してしまっています。
 ユダヤ系商人のネットワークがインドに及んでいたのは、ヨーロッパ人渡来以前です。たとえば、ヴァスコ・ダ・ガマはムスリム商人を介さないインド通商ルートの開拓のためにポルトガルから喜望峰回りでインド洋に達するのですが、アフリカからインドへの水先案内にはユダヤ系商人を乗せています。しかし、その後のユダヤ人流入には、スペイン・ポルトガルのキリスト教化政策「ムスリム・ユダヤ人はカトリックに改宗しない限り追放」が関係しています。改宗を拒んだムスリムとユダヤ人を積極的に受け入れたのがオスマン・トルコですが、インドの西海岸も受け入れ先の一つでした。ケララ州のコチン(エルナクラム)には、床一面に中国製の青白磁タイルが敷き詰められたシナゴーグが残っています。改宗したムスリム・ユダヤ人はスペイン、ポルトガル領内で活動を続けられたのですが、こっそり信仰を守っている者を取り締まるために中世の異端審問が復活するなど迫害のリスクがありました。そうした中、スペイン(ハプスブルク家)領地域のプロテスタント諸侯が独立して成立したオランダでは、カトリックに改宗したふりをするよりユダヤ教徒であることをカミングアウトしたほうがいいという風潮となり、ユダヤ人が集まることになったのです。
 話を戻すと、スコット総督夫妻は完全無欠の悪役としての登場であり、史実とはまったく関係ないだろう、というお話でした。散りばめられている人種差別的発言や行動は、本国出身であれインド在住白人であれ、あちこちで記録されていることではあります。

Cinna pēru, pedda pēru

 冒頭の、scared out of my wits, sir のおまわりさん、ネームプレートに一言、David。みるたびにムムム。インドに限らず名前が1つだけという文化があるのはわかっているんですが、苗字と名前が標準で残すのは苗字、というところからこの歳になっても抜け出せないんです。インド人に限らず外国人と話すときも苗字で通してしまうのは単に頭が固いからでしょうが、個人名呼びOKだとしてもTPO感ってありませんか?警察官とか兵隊さんぐらいならしょうがないとして、総督とか大統領とかって苗字であるべきではないかと、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ。でも国王とか王妃だと苗字使うことはほぼないんだな。
 家名を略してしまう南インドの人はバクストン総督でなくても違和感ないんでしょう。ただ、南インドの高位カーストの人の、家名を略しても長ったらしい個人名は個人名で謎があります。最近は短い名前が増えてきているみたいですが、私と同年代以上だと、男性だと神様の名前を含む2つの名前に、称号(あくまで個人名の一部)があればつける、というのが多かった。で、くっつけるとしたら、称号を残して前2つというのが多いと思うのですが、NTRはなぜ、ターラカ・ラーマーラーウなのか。ターラカラーマ(救出者ラーマ)でひとまとまりにしたほうがいいと思うんですが。たしかにラーマーラーウという名前は多いと思いますが、称号ラーウにくっつくのはほかはアッパーラーウ、スッバーラーウぐらいしか思いあたりません。ラーウ以外の称号では、ラーマーラージュとかラーマーレッディとかにはならないようだし。
 アッルーリ・シーターラーマ・ラージュの場合、神様とその妻の女神の名前を組み合わせる、という男性名のパターンです。ほかにラクシュミナーラーヤナ(ヴィシュヌ神)、ラーダークリシュナ(クリシュナ神)、ウマーマヘーシュワル(シヴァ神)なんかがあります。これだと分けてしまうと女性名がはいってしまうことになります。シータ・ラーマーラーウ。そんな名前の男性いますかね。
 ラーマはときどきラームドゥと呼ばれていますが、これはサンスクリット語からテルグ語男性名詞を派生する接尾辞 -uḍu / -uḍi が接続した形です。タミル語やマラヤーラム語のラーマン、クリシュナンなど-an終わりの名前になるのと同じですが、テルグ語では、この接尾辞の複数形-ulu / -ula- がつく個人名もあります。ラームルとか、ヴェンカテーシュワルルとか。敬称なのかと思いましたが、ラームドゥとラームルが別人として共に登場する映画もありますし、区別以外の意味合いはないようです。まあ、アイヤとかアンナとか、敬称的な語が一部にはいっている個人名はけっこうありますので、それと同じかもしれません。称号付き個人名はその拡大版なんでしょう。タミル語やマラヤーラム語だと、この称号部分が尊称複数形(-ar)になっている~ナーヤル(ナイル。東銀座のカレー屋)とか~ラーヤルのような名前がありますが、テルグ語ではこれはあまり見ないように思います。あっても 通常複数形(アーチャーリユルとか)です。
 よくわからないのがビームのほうです。RRRでも歌によってコムランだったりコマランだったりしていますが、英語表記でもKomaram, Komuram, Kumram, Kumuram とさまざまで、テルグ語でもこれらに対応すると思われる表記がみられます。2016年のテランガナ州の県再編で新設されたコムラン・ビーム・アシファーバード県のホームページはKumuram Bheem Asifabad を名乗っています。テルグ語表記でビームの最後のmが、「ン」相当の文字ではなく、一貫して母音のないmで表されていることは、ビームがテルグ語ではなく、おそらくヒンディー・ウルドゥー語であることを示していると思われます。最初のmの後ろの短母音が消える表記も、ヒンディー・ウルドゥー語的です。ゴーンド族は、ムスリム支配者がゴーンドワーナーと呼んだゴーダーワリ河に北から流れ込む諸水系沿いの広大な地域(「ゴンドワナ大陸」の語源です)に分布していますが、テランガナ北限の旧アーディラーバード県は、ゴーンド族の分布地としては南限にあたっていて、テルグ語を話すゴーンド族は少数派なのです。ビームが読み書きを覚えたのも、当時は中央州(現マハーラーシュトラ州)側のチャンダで独立運動パンフを出版していた印刷屋でした。ヒンディー語では母音oの長短は表せませんし、ウルドゥー語ではoとuの表記上の区別もできません。表記がまちまちなのはそのせいもあるんだろうと思います。短いoを短いuや長いoで表記した、ということではないでしょうか。テルグ語表記では一貫して短いoまたはuです。
 ゴーンド族独自の言語としてゴーンド語がありますが、ゴーンド族のうちゴーンド語を話せるのは4分の1程度に過ぎず、それぞれ居住地域の言語に同化しています。1200万以上の人口のうち、半分以上はヒンディー語地域に分布しています。実は、ゴーンド語が言語的にもっとも近いのは、アッルーリ・シータラーマ・ラージュが支援していたコーヤ族のコーヤ語で、ゴーンド族の南側にやはり幅広く分布しています。「ゴーンド」は他称であって、ゴーンド語での自称は「コーヤ」なのです。しかし、コーヤ族がヒンドゥー教に同化しているのに対して、ゴーンド族は、言語は違っても、正統的なヒンドゥー教とは異なる独自の伝統宗教を守っている、ということでアイデンティティーを保っているようです。ゴーンドワーナーのゴーンド族は、デカン高原のムスリム支配がはじまった14世紀ころから、ムスリムに改宗した諸王のもとでその時点の支配王朝に従属しますが、実質的な独立は保ってきました。しかし、18世紀の後半にゴーンドワーナーはマラータ同盟に征服され、以後、ナーグプルなど川沿いの平地からマラータの地主の流入と(イギリスが導入した近代的土地所有制度に基づく)土地取得が続き、ゴーンド族は分断されていくことになります。
 名前の話にもどると、コムラン(またはコマラン)が個人名なのか、家名なのか、部族名なのかはよくわかりません。ビームのゲリラ活動に触発されたコラム族のゲリラ闘争指導者にコムラム・スールという人物がいますが、これはビーム名義の借用なんだろうと思います。(この人のコムランもさまざまに表記されています。)ハイメンドルフの"The Gonds of Andhra Pradesh" によると、個人名の前は pari 「氏族」名だそうです。この地域のゴーンド族は4つの saga 「外婚集団(同族)」に分かれていて、それぞれの saga が複数の pari を含んでいるのですが、pari のリストの中に、kumra と here kumra が記載されています。here kumra は、「山羊 kumra 」で、先祖が人身御供をしたとき生贄の人間が山羊頭に変われと祈ったために山羊を食べることをタブーにしているという pari だそうです。ハイメンドルフはオーストリア生まれの人類学者、1940年代にフィールドワーク調査を行ない、1945年からは山地先住民と後進諸階級の問題に関するニザーム政府へのアドバイザーを務めた人で、1976~77年に現地を再訪しています。

南インドの親族制度

 「外婚集団」というのは日本ではあまりなじみのない概念ですが、簡単にいえば、その内部での結婚は近親相姦にあたるので、結婚相手はその外から探してください、という集団です。日本だと「核家族」がこれにあたるでしょう。しかし、ゴーンド族に限らず、インドの(ヒンドゥー教の)コミュニティーは、一定の外婚集団に分かれているのが普通です。正統派ヒンドゥーの場合、この外婚集団をgotraと呼びます。インド映画のヒンドゥー教儀礼のシーンでも、祭司が名前とともにgotraを尋ねるシーンがときどき出てきます。父から子へと受け継ぐカーストが多いのですが、南インドには母系制のカーストが多い地域もあります。
 南インドの映画で親族に関する語彙が出てきた場合(よく出ますが)、その意味には注意しておく必要があります。「きょうだい」を表わす語彙は、「同世代の親族のうち、結婚相手(あるいは義理のきょうだい)にはなれない関係」と理解したほうがいい場合が多いのです。
 RRRの場合だと、ビームがラーマをanna「兄」、虎をtammuḍu「弟」と呼んでいるのは、親族とは関係のない用法です。しかし、ラッチュやマッリがビームをannaと呼び、ビームがマッリのことをcellelu「妹」と呼んでいるのは、たぶん、「同族」「同氏族」であることを示していると解釈すべきだろうと思います。ハイメンドルフによれば、移動農耕が可能だった時代にはゴーンド族の「村」は氏族単位で移動していただろう、としています。pari「氏族」はsaga「外婚集団」の下位分類ですから、当然それ自体が外婚集団ということになります。定住民の場合でも、嫁をもらい子や孫ができても兄弟と同居する「大家族」は、農村部では比較的最近まで残っていたようです。南インドの場合、父から子へgotraを受け継ぐカーストでも、父系の同族だけでなく、母の姉妹の子も「きょうだい」になるカーストが多いです。
 一つ上の世代でも、同族かどうかで語彙が分かれます。父の兄弟夫婦や母の姉妹夫婦が「同族」で、「父母」と同じカテゴリーになります。「父母」を表わす語彙は種類が多く、どれを使うかも方言や家庭によって異なりますが、「同族」の場合、年齢に応じて「大 pedda」父母、「小 pinna / cinna」父母という呼び名になります。核家族的な意味での「父」つまり ヴェンカタラーマ・ラージュとの約束を、ラーマはわざわざ kanna taṃḍri「生んだ父」との約束と言っています。インドの多くのコミュニティー同様、年上の人を名前で呼ぶのを避けて、ビームが peddayya と呼んでいる人物は、親より年上の同族男性親族で、おそらくこの方言ではayyaが父です。ラーマがヴェンカテーシュワルルを bābāyi と呼んでいますが、これはヒンディー・ウルドゥー語からの借用語 bābu「父」に-āyi で親より年下の同族男性を指しているものとみられます。ちなみに、未婚男性/女性を表わす abbāyi / ammāyi も、語源は「父/母」-āyi です。 abba は今ではほぼ間投詞的にしか使わないと思いますが。なぜ子供が「父母」なのかはよくわかりませんが、祖父が孫を tātā「おじいさん」と呼んだり、母親が息子を nānna, nāyana「おとうさん」と呼んだりしている映画シーンにはよく遭遇しますし、女の子との会話では amma 「おかあさん」が多用されます。一方、nānna, nāyana はそれぞれ、nā anna、nā ayy=anna で「兄」入りの「私のおとうさん」ですが、上の世代の同族親族を anna や akka 「姉」で呼ぶのも珍しくないと思います。
 同族でない親族(母の実家や父の姉妹の嫁ぎ先)は、上の世代で māma / atta 「義父母(になる可能性のある親族)」、同世代で bāva / maradi 「義兄弟(になる可能性のある親族)」、vadine / maradalu 「義姉妹(になる可能性のある親族)」です。
 alluḍu / kōḍalu「婿 / 嫁」をそのままの形で同族以外の甥姪に使えるかどうかはよくわかりません。koḍuku / kūturu 「息子 / 娘」も同族なら「(うちの)甥 / 姪」の意味で実際使っているんだかどうだか。

邪視払い

 ドースティの歌の途中のエピソードとして、ヴェンカテーシュワルルが肉を運ぶビームについてあれで足りるのかと聞くシーンがあります。「ビーマみたいな大食漢だから」というジョークです。それが通じているというラーマの応答の「悪く言うな」が原語で何と言っているのかわからなかったのですが、字幕監修の山田桂子先生のツイートで「邪視を送るな」だと知り、納得しました。diṣṭi peṭṭak=aṃḍi, bābāyi.

 この例では、意図的に邪視を送ることを指しているのですが、diṣṭiの困ったところは、本人が自覚していないのにdiṣṭiを送ってしまう能力がある人間がいる、というところです。このための対処法が面白いです。顎の横とか足とかに、黒々と大きな丸を書かれた赤ん坊をよく目にしますが、これは、万一邪視をもっている人に見られても視線をそちらに向けて、いちばん危ない眉間から抵抗力のない赤ん坊に邪視の魔力が入るのを防いでいるのだそうです。
 成長途上の赤ん坊が弱いのと同様、建築中の家についても注意が必要です。新興住宅街に住んでいたころ、近所のどこかしらで新築工事が行われていましたが、どの家も目に付くところに簡単な布人形がぶらさげられていました。頭はのっぺらぼうなのですが、股間の部分だけに大きく性器が描かれている、という代物です。こちらは醜いものを見せて視線を避けさせる、という対処なのですが、田舎に行くほど念入りに描かれていて感心するほどで、もし私が邪視持ちだったら逆効果だろうと思ってしまいました。

Freedom Fighters

 エッタラ・ジェンダで歌われているFreedom Fightersは時代もまちまちだし、それぞれの地方で独立運動に関わった偉人として紹介されている人物を集めたんでしょうけど、インドには法律上のFreedom Fightersというカテゴリーが存在します。条件を満たせば遺族まで年金の受給資格もあるので、日本の戦没者とちょっと似たところがあるかもしれません。ただ、戦没者と違って公式記録があるわけではありませんので、申告制です。この申告手続きに関する1980年の法令(解放運動家顕彰年金計画)がこちら。年金額は改訂されていますが、2ページ目掲載の受給資格は変わっていないと思います。投獄・軟禁・潜伏は6か月以上、運動参加時の発砲または警棒攻撃(ラーマが冒頭やっていたこと)による身体障害、財産没収・公職追放などと並んで、項目Gが鞭打ちなどの体罰なんですが、10発以上が条件のようです。ビームもラーマ(caning。令状あったんでしょうか。)もRRRの時点で受給資格あり。(その後、martyr 「殉死者」ですけど。)

 ただ、10発というのはほかと比べてずいぶん緩いような気がします。ウィキペディアの Flagellation の項目では英国海軍では600発の懲罰まであったらしいですし。ただし、イギリス本国では19世紀の半ばには公開鞭打ちは廃止されて刑務所内での執行のみ(1967まで)だったようですので、ストーリー上必要なフィクションだと考えるべきで、実際は稀にしか施行されない重い刑罰だったのかもしれません。シンガポールなどまだ棒叩き刑が廃止されていない国もありますが、10発を越えるのは強姦・海賊などかなり重い罪になります。(『未来少年コナン』ではバラクーダ号でも船長命令のcaningをやっていますね。英国海軍風。)

 Freedom Fightersには、年金のほかに各種の特典があります。私がこの単語を目にしたのも、はじめてのインド旅行で買った鉄道時刻表の割引制度の項目でした。あと、国内線チケットだと、(当時は)アンダマン諸島のポートブレア便は、Freedom Fighters以外は搭乗できない、という注意書きがありました。アンダマン・ニコバルは、マラッカ海峡に近い、インド本国からは遠く離れた軍事拠点で、インドはイギリスからここを引き継いでいます。Freedom Fightersがここを訪問することができるのは、19世紀半ばの大反乱以降、政治犯の流刑地として使われたという歴史によります。20世紀はじめには囚人はセルラー刑務所(別名 Kālā Pānī 「黒い水」)に収監されることになります。第一次大戦中1915年のこの刑務所を舞台とするマラヤーラム語映画が Kaalapani です。テルグ語吹替版(歌なし)もあります。

 1915年の回想シーンの冒頭で、アンダマンへの移送船の船上でmaśūci 「天然痘」が発生する、というエピソードがあります。扱っている時代がRRRと近いので、参考にされている可能性もあるかなという映画です。主人公は、新婚早々誤認逮捕された医師、悪役は白人刑務官とインド人看守、ジェニー的な役回りの白人医師もいて、行政側は人権侵害を正そうとする姿勢はある、というような筋書きで、医師は刑務官と看守を殺害して死刑になります。植民地支配そのものを直接に糾弾する、という形ではありませんが、収監されている独立運動家の指導の下で Vande mātaram が歌われているなど、RRR に通じる映画だと思います。ただ、いただけないなと思うのは、50年後、消息を絶った伯父の死の真相を軍人の甥が調べに渡航する、という設定で、医師の死の事情を知った甥は、50年間夫の帰りを待ってきた伯母に真相を知らせないのです。生死のわからない息子を鎖につながれたまま25年の間デーヴァセーナに待たせる、というバーフバリにも似た、インド人男性なら当然視するかもしれないけれど...というストーリー展開だと思います。50年前の殺人事件の真相を明らかにする、という同名のヒンディー語映画へのオマージュなんでしょうが。

 アンダマン島の刑務所の人権状況を改善する、というのはインド独立運動の要求の一つで、1939年までにすべての囚人が本土帰還を許されます。1942年に日本軍が侵攻した際には英軍はすでに退却していましたが、残留していた英国人捕虜の収容所として刑務所が再利用されることになります。めでたし、めでたし?そうはいきませんでした。日本軍はチャンドラ・ボース指揮下のインド独立運動を信用しておらず、多くが英国側スパイの疑いで処刑されています。セルラー刑務所は再び拷問の舞台となりました。さらに、大戦末期、日本が制海権を失うと、食料補給を断たれた日本軍と島民の食糧確保のための戦いがはじまります。極東軍事裁判での立件は30件以上、数百人単位の死者を出したジェノサイドも含まれています。

南インドの結婚制度

 カースト制度はほんとうはヴァルナというヴェーダ以来の4つの身分とそれぞれを構成する複数のジャーティに分けて考えなければいけない、というのが世界史の教科書に載っていることなのですが、テルグ語のjātiにはカーストの意味はありません。コムラム・ビームよの冒頭で、ビームが「ゴーンド・ジャーティ」と名乗っているのは「ゴーンド民族」で、テルグ語では「インターナショナル」が「アンタルジャーティーヤ」。これに対してヒンディー語では「アンタルラーシュトリーヤ」でテルグ語の組合せのヒンディー語は「異カースト(ジャーティ)間の」という意味になります。漢語が日本と中国・韓国で違う意味になるのと同様、同じサンスクリットの語が地方によって意味が違うという例です。jāti と nation は共に、インド・ヨーロッパ祖語の*ǵenh₁- +‎ *-tis「生まれ」に由来するので、テルグ語(やベンガル語)のほうが正確な訳のような気もしますが、ヒンディー語ではカーストの意味が出てしまうので、ラージャ(王)と同根のラーシュトラ(国)に置き換えてしまったんだと思います。

 では、テルグ語ではジャーティは何と言うのか。辞書では kula が上がっていますが、この語は gurukulaṃ「師guruと寝食を共にすること」のように、「一族、一党」のような、必ずしもカーストに基づく集団を表わさない用法があります。では、「カーストに基づく集団」とは何か、というと、基本は(少なくとも現代においては)親族制度に基づく内婚集団、つまり、結婚相手を選ぶことが認められる範囲でありかつそれを認める集団、とでもいうことになるでしょうか。この内婚集団は、gotraのような複数の外婚集団から成り立っていて、縁談の可能性があるのは同カースト異gotraで、星占いでまずまずの相性になっている相手、ということになります。

 日本語でカーストというと上下関係として理解されてしまうことが多いですが、血縁になる可能性があるかないかで「分かれている」、ということのほうがより重要です。血縁に関して言えば、A集団はB集団から嫁をもらうことを認めるがA集団からB集団に嫁に出すことはない、という関係であれば、A集団はB集団より上位であることを双方が認めていると言えるのですが、まったく縁談の可能性がない場合にはどちらが上位ということは言えません。一方、それまでまったく血縁のなかった集団が相互に嫁のやりとりを始めれば二つの集団が一つにまとまったことになります。

 ヒンドゥー教徒にとって結婚はたいへん重要な通過儀礼(未婚だと火葬もしてくれない)なのですが、内婚と外婚という二つの制約があると、結婚相手探しはなかなかたいへんです。特に近年では、農村に嫁に来てくれる女性が減っている(都市部の親は農村から_おとなしい_嫁をもらいたがりますし)という事情で、内婚集団を大きくしなければならない圧力が強まっているのですが、従来からの内婚集団を大きくするための手段は、通婚ネットワークを地理的に拡大していくことでした。これには近代化による交通手段の発達も関係していると思われます。本来同じカーストであったけれどもその後連絡が途絶えていた他地方の集団を「再発見」することが容易になったのです。(記録が残っていることなど稀でしょうし)誰がどんな方法できっかけを作るのかは謎ですが、一度縁談が成立した一族とは通婚OKという交叉従兄妹婚制をフル活用して、濃厚な親戚付き合いが双方向で一気にはじまり、次々に新たな縁談が成立していきます。「近くの他人より遠い親戚」というフレーズが口をついてしまうほど、南インドのご家庭は御親族の来客が多いです。特に用はなくても数日から数週間泊まっていき、適齢期の男女に関するものを含めて情報を収集して帰って行く、という感じです。

 縁談は親主導で進められ、男性側が紹介された女性を遠目に見てOKすればそれで縁談成立、という日本でも大正時代ぐらいまではよくあったらしい古風な結婚もまだ残っています。自力で嫁選びをしたい男性は、農閑期の結婚式シーズンにこまめに顔を出し、式に出席している女性をチェックし、気に入った人がいれば情報を集めて縁談をセットしてもらいます。金があれば新聞広告という手があります。インドの新聞の日曜版には、地域・カースト別の結婚相手募集の広告欄があり、応募者を面接して選べるようになっています。在外勤務のインド人男性は、母国から_おとなしい_嫁をもらいたい場合、3週間程度の休暇を取れば新聞広告で花嫁を決めて式まであげて戻る、ということもできます。

 インドから帰って、「日本では恋愛は結婚で終わるが、インドでは結婚から恋愛がはじまるんだ」などどしたり顔で言っていたら、「日本では恋愛は結婚で終わりません」と真剣な顔で抗議されましたので、今は言い換えています。「日本では恋愛感情は曲線で、1つのピークが結婚前後に来ることが多いけれど、インドでは結婚までがゼロで、結婚で1に上がる折れ線だ」。そしてこれは恋愛に限ったことではなく、友情も似ています。「ドスティー」の歌が流れている間の映像をだんだん親しくなっていく描写だと思っている人が多いようですが、私の経験では橋の下で手を握り合うようなドラマチックな経験を経なくても、一度口をきいてしまっただけで「友達」カテゴリーに移行できてしまうことが多いと思います。テルグやタミルの人懐っこさは嫌いではないのですが、たまたま顔を見ただけで「まあ座れ、で、話は何だ? ēṃ kaburu?」とやられるのには閉口しました。裏を返せば特に異カーストの人に対する場合、ゼロがそれだけ厳しい、ということなのでしょうが。知らない男性と口をきいてくれる未婚女性は、「お嬢様」と言っていいお育ちの人しかいなかったように思います。

 南インドに青春恋愛映画が少ないのは、多くの観客にとってリアリティーがないからでしょう。よくあるパターンが一目惚れ、目と目が合ったと思ったら踊り出し、女優が忙しくサリーを着替えるダンスが終わったらもう結婚してラブラブで、そのうち妻が殺されて、夫または大人になった息子が復讐する、というのがテルグ語がわからなくてもストーリーが追えた映画あるあるでした。 若い観客は恋愛結婚に憧れてはいるのですが、めんどくさい恋の駆け引きをしたいというよりは、結婚前に恋愛感情を1に上げておきたい、というところだろうと思います。「幼な馴染み」という設定がその期待に応える常套手段です。『ヤマドンガ』なんかはヒーローとヒロインに割と曲折あるほうですが、それでもヒロインだけが覚えている幼時のエピソードが保険的に入っています。マーヤーバザールやRRRのような「幼馴染みの交叉従兄妹」は、親や親戚から反対されて最悪カースト村八分にされる気遣いなく恋愛結婚にたどりつける最善の選択なのです。

 もちろん、恋愛結婚、それも異カースト婚をするカップルもいます。しかし、セレブでもない限りこれはかなり勇気のいる決断です。本人たちは納得していても、生まれてくる子供は父母どちらのカーストにも属さないことになるからです。子どもをつくらない、作っても息子一人、という人を何人も見ました。特に、娘の場合、縁談が成立する可能性はゼロに近くなります。 RRRの御曹司スターのうち、Jr. NTRは、父の再婚相手である西海岸出身のカンナダ語話者の異カースト女性の一人息子です。映画評論にはそれゆえにファミリーのアウトサイダーとしているものもあります。しかし、Jr. NTRの奥さんは伯父[父の姉の夫]であるチャンドラバーブ・ナイドゥ元州首相の姪の娘ですから、それは言い過ぎだろうと思います。ただ、セレブと恋愛結婚したのだろう母親が、息子には縁談での結婚を勧めている、というあたりに、変わっていくようでなかなか変わらないインド社会を実感します。

追記:YouTubeのファンによるJr. NTR 伝によれば、シンハドリがヒットするまでファミリーからは母子とも疎外されていたようですね。Sr. NTR だけが目をかけてくれていたのが96年に亡くなり、両親不仲で辛い立場が続いていた時期をアウトサイダーと言っているんでしょう。

フラメンコ

 ナートゥの前にジェイク君がおまえらにはこんなのできないだろう、とタンゴ、スイングに続いてフラメンコをやってみせますが、フラメンコってジプシー(スペイン語のヒターノ、フランス語のジタンと同様「エジプト人」から)の舞踊がルーツですよね。ヨーロッパのジプシー(ロマ)の言語は明らかに北西インド起源でおそらく10世紀以降にインドを出たと考えられているので、フラメンコもナートゥの遠い親戚といってもいいのではないかと思います。

 南インドにもジプシーがいます。デカン高原一帯に広く分布しているのがバンジャーラ族で、こちらも言語から見てラジャスタンあたりからの移民だと考えられています。本来は家畜を連れて移動する人々で、砂漠地域でのロジスティクスのノウハウを買われて、イスラムのデカン遠征に随行して物資運搬を担当していたとされています。北インドをアフガン人などイラン/トルコ系の王朝が支配するようになるのが11世紀ですから、西ユーラシアのジプシーも同じように西への遠征に同行した人たち、という可能性もあるんじゃないかと思います。近代に入って家畜による運送業が成り立たなくなると、バンジャーラは行商に転じたり、定住して農業労働者となったりしましたが、言語をはじめ、独自の文化を守ってきたのです。

 初めてのハイダラーバードでスルタン・バザールの青果市場を覗いたときのことを今でもよく覚えています。「カ、カルメンがいる・・・」バンジャーラの女性の民族衣装は、一目でほかのインド人(ムスリム含む)と区別がつきます。厚手のスカートとペチコート、頭をすっぽり覆って腰まで届くマントですが、ミラーワークの刺繍がふんだんに施され、さらに腕にはバングルをびっしり、鼻といい耳といい胸といい、ふんだんに銀のアクセサリー、正面にそんな女性が腰に手をあてて仁王立ちで、何ごとか大声で叫んでいたのです。別に怒っているわけではなさそうでしたが、「凛々しい」ってこんな感じか、という表情が強烈でした。バザールから表通りに戻ったら、今度は同じ衣装の若い3人連れが何やら楽しそうにこちらに歩いてくる、と思ったら走り出して、私の前を歩いていた男性を取り囲んで踊り始めたのです。フラッシュモブなんて言葉はなかった頃の話です。マントがひるがえると女性たちのペチコートは背中側が大胆に露出する裁断で、男性もまんざら嫌そうでもなく財布を探る気配でしたが、3人ともそのまま笑いながら走り去ってしまいました。

 この町ではそんなハプニングがありうるのか、と思ったのですが、その後、バンジャーラが近所にたくさんいるところに住んでいる間、一度もそれはありませんでした。家族総出で建設労働に従事しているバンジャーラも多く、新興住宅街だと職住隣接で、空き地にバンジャーラのテント村(タンダー)がよくあったのです。近所のお嬢様女子大の近くでは、木陰でミラーワークの刺繍をしている女性たちをよく見ました。夕方にはお迎えの車が列を作るような女子大ですが、車に乗せられて自宅に戻る前の小物のショッピングチャンスを提供というわけです。バス通りの途中には、バンジャーラの行商が入れ替わりやってくる場所もあり、クリケットのバットとか、陶器とか、シャンデリアとかが並べられたテント村が現れては消えるのを横目で見ながら暮らす日々を送りました。

 そんなことを思い出しながら、バンジャーラ(テランガナでは自称ランバーディ)の北インド風の踊りのビデオでもないかとネットを検索してみて驚きました。バンジャーラの言語(北インドのも合わせてゴール・ボーリーという名前を採用したようです)を憲法指定の公用語に加えよ、という運動があるようです。テランガナ州のランバーディー語話者は200万人近く。アーンドラ・プラデーシュ州から分離した結果、テルグ語、ウルドゥー語に続く第3グループ(人口の5%強)として存在感を増したようです。それどころか、バンジャーラ語の映画まで制作されるようになっています。自主制作ものもありますが、トリウッド制作の商業映画もあります。金を出す人がいるんだ、というのが驚きですが、ST(憲法指定の保護が必要な被差別部族)とはいっても100万以上の人口をもつ民族だと経済的に成功している人もいるわけです。言葉が(テルグ語の部分以外)わからないながらいろいろ見てみましたが、どのレベルでもテルグ映画の影響が濃厚なところが面白かったので、いくつか紹介します。

 大作風の商業映画(2018)。金融・不動産で成功した経済人がプロデューサーです。フィルムソングが多い中、民謡風のダンスシーンのクリップを選んでみました。フラメンコの親戚といえるかどうか。

 上記作品の主演・監督俳優の2作目(2022)。テルグ語・ヒンディー語・カンナダ語の吹き替え版も用意して攻めています。トリウッドのすそ野の広さを感じさせるというか、言葉の違いと、モブとして登場する民族衣装女性を除けばほとんどテルグ劇場公開用映画としてみても違和感ないです。最初の方に出てくる子役君はひょっとしてRRRでラーマの弟を演じた人かも。

 地方都市の流通業者がプロデュースした作品。高校か大学の映像研究会によるテルグ映画のパロディーか、というようなチープな作りの恋愛映画。ヒーローの友達は映画好きという設定で、「ラージャマウリ監督は・・」というところが聞き取れました。学園ものかと思っていたら、やっぱりバイオレンスシーンは入ります。ダンスシーンもあり。でも映画長すぎ。

 ネット公開用のビデオを作っているサイトの30分足らずの短編。エンタメではなく啓蒙映画か。農村部の高校生の生活ぶりを淡々と。家族の事故で学校をやめなければいけなくなる、という話。

 ネット動画配信が誰でもできる時代になって、少数言語でも配信ができる時代になった、という事情もあるのでしょうが、考えてみればカセットテープの時代から、少数言語の歌(宗教的な讃歌からラブソングまで)をテープで販売している業者はあったわけで、それが今ではMV付きで動画配信しているということは、劇場公開を目指すのでなければ映画作品にまで手を出し始めるのにたいしてハードルは高くないのかもしれません。

 あと、テルグ語メディアのものも。

  • Kamli (2006)

 ハイダラーバードのタンダーで暮らす女性がヒロインの社会派ドラマ。監督は、女児が望まれない貧困層の間での新生児売買の実態を追ったドキュメンタリー Harvesting Baby Girls を制作していますが、そのドラマ化です。産院で自分が生んだはずの男の子が女の子にすり替えられていたので、ヒロインは抗議のために病院の前に座り込みをはじめる、というストーリーです。
画質が落ちますが、こちらは英語字幕付き

 テルグ映画界のセレブが住むインド有数の高級住宅街 ジュビリー・ヒルズや、その隣のバンジャーラ・ヒルズと間のフィルムナガルが、地域名としての本来の「トリウッド」です。植民地時代からテルグ・タミル映画はマドラス(チェンナイ)で作られてきましたが、1976年のANRのスタジオを皮切りに、90年代までにこの地域に多くのスタジオが作られて、タミル映画界(コリウッド)から完全に分離したのです。RRR主演のラームチャランは父チランジーヴィが人気上昇中で各種映画に引っ張りだこだった時代にマドラスで生まれています。

 しかし、バンジャーラ・ヒルズはその名前が示すように、ゴールコンダ時代から20世紀前半にニザームが別荘を建てるまで、バンジャーラが家畜と共に住んでいた岩山でした。高級住宅地としての開発が進み、1980年代にはまだ数少なかった日本の政府機関や企業の駐在員もほぼこの地域に住んでいました。その関係ではじめてジュビリーヒルズを訪ねたとき、中心部に巨大なバンジャーラのテント村があるのに驚いたのを覚えています。今でもバンジャーラ・ヒルズにはバンジャーラの密集住宅街が残っているようです。

RRRのセリフをイギリス語で

  • "I want to see him bleed." "And so you shall"<血を流すさまが見たいわ><楽しみにしてろ>

 総督が you shall の後で省略したのは see からで、「見せてやるから」というつもりなんでしょうが、脚本としては you shall bleed 「血を流すのはおまえの方だ」の観客向け予告になってます。

  • "Is that so? Let's see how you move after this." <なるほどな せいぜい虚勢を張ってろ>

 ラームのバガヴァッド・ギーターに対して、総督が足のcaningで応答する際のセリフ。これも、「このあと肩車のmoveをお楽しみに」という予告です。

  • "if we don't arrest him, the governor will skin us alive."…"Bring me those treacherous scum alive! Or I will skin every last one of you!." <逮捕せねば総督に殺される>…<あの裏切り者を生け捕りにしろ!さもなくばお前たちの皮を剥ぐ!>

 前半はビーム逮捕を焦るエドワードのセリフ。直後に帰還している総督の姿が現れますが、無事 skin us alive「生きたまま皮を剥く」目には遭わずに済みます。次のビーム逃走の際には総督自身で「一人残らず皮剥ぎだ」と口走っています。どっかで何度か見たような記憶のある表現なんですが、どこだったか思い出せない。イギリスでは日常的にこんな表現が使われているんでしょうか。

  • "It's disgusting. This is filthy." <不快だ 汚らわしい>

 ジェイクのナートゥダンスへの評価ですが、このセリフだけはけっこう私も共感できてしまいます。この直前の腰振りの振り付け。私がテルグ映画を見始めた頃からボチボチと現れ始めた女性だけでなく男性も高速に腰をカクカクさせるダンス(マイケル・ジャクソンが元ネタ?)は、下品、低俗、というのが私の第一印象でした。中年太りのSr. NTR が腹を揺すってるぐらいならまだ失笑で済んだんですが、チランジーヴィは何でこれがメガスターなんだ、という感想から今も抜け出せていません。腰振りのほうは今はすっかり定着して組み込まれていますが、このセリフをここに突っ込んでいるということは、作り手側にも下品・低俗の意識があったってことじゃないのかな。

 テレビの普及でファミリー向けの娯楽としての映画や田舎の映画館が消え、残ったところはヤクザ映画かポルノばかり、というのが私の子供時代の邦画でしたが、インドでは1990年代あたりがそういう時期だったんじゃないかと思います。1991年にはじまるP.V. ナラシンハラオ首相(テランガナ出身)の経済自由化でいちばん目について変わったのが電気通信関連で、民間の参入で市外・国際ダイヤル通話(STD, ISD)ができる電話ボックスが乱立したり、巨大な衛星アンテナで受信した放送を有線放送で流すケーブル業者が都市部の一般家庭にまで普及するようになりました。80年代までは国営放送1チャンネルのみ、テルグ語放送は夕方の1時間のみ、という状態から、旧ソヴィエトの人工衛星から降り注ぐテルグ語放送チャンネルが乱立して1日中古い映画を流している、という状態に変わったのです。一族総出で映画館のエアコン・シートにお出かけする、という中産階級の習慣は急速に廃れていきました。女性だけでの外出がまだまだリスキーなインドの映画館の客層は、以前にも増して若い男性ばかりということになりました。










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