贈るシルシ

私は今緊張の真っ只中にいる。
とある会場に並ぶ席の一つに座って姿勢的には楽なはずなのに妙に落ち着かない。

「緊張してるの?○○」

「う、うん。まあね」

「そっか。そうだよね。実を言うと私も」

隣にいる友人もどうやら同じく緊張しているとのことでそれは安心した。
でも、だからといって緊張がまるでなくなったというわけではない。
だって私たちがいるこの場所でこれから行われるのは

「でも楽しみだよね。リュドミラ先生のサイン会、早く時間にならないかな〜」

リュドミラ、友達の口にした名前に私は微かに身体が反応した気がした。
リュドミラ・アンドレエヴナ・ルスラノヴァ、本名で活動している作家で第一作『繋がる光の輪』を始め、これまでに様々な恋愛小説やファンタジー冒険活劇などを世に出しては爆発的な大ヒットを記録している。
彼女の書く物語は辛く悲しい出来事はあっても最後には必ず登場人物たちが幸せに終わる展開が多い。
それが一部の人たちには不評のようでネット上では『恋愛というものを美化しすぎ』だとか『ご都合主義がすぎてつまらない』という意見もあげられている。
言い方に問題がある物はともかくそういう人たちの意見も正直わからないでもない。
けれど私はそれでいいと思う。
理想を求めたっていいじゃないか。
異常なまでに上手くいきすぎたっていいじゃないか。それが物語の味だと思うから。

「○○は高校の時リュドミラ先生と一緒の学校だったんでしょ?いいなぁ〜、その時から可愛かったの?」

思考の最中友人が話を振ってきた。
私は一度考えることから意識を切り替えて彼女と会話することに集中する。

「凄く優しくて面倒見の良い先輩だったよ。その時からいつか文字を扱う仕事にしたいんだって言ってて」

「それで本当に夢叶えちゃうんだから凄いよねぇ。やっぱ持ってる人は違うなぁ」

「ご来場の皆様、お待たせしました。リュドミラ・アンドレエヴナ・ルスラノヴァ先生のご登場です!」

友人がそんなことを言ったすぐ後、スタッフの人がマイクを手にして告げた。
ついに待望のリュドミラ先生の登場に会場全体に歓声が上がる。
赤く可愛らしいワンピースを着たリュドミラ先生は会場にいる私たちに手を振って、太陽みたいに明るい笑顔を浮かべながら、席に座った。

あの頃と変わらない笑顔。でもやっぱり雰囲気はどこか変わっている。
学生の頃と違って化粧をしているのは当たり前だけど、それを抜きにしても全体的に大人びて美しいという印象を受ける。
腰の辺りまで伸ばした髪からもますます大人の女性、という感じがする。

そんなリュドミラ先生の姿は私の頭にあの時の記憶が鮮明に蘇らせた。



「卒業おめでとう!!」

それは私がミラーシャ先輩と最後に会ったのは私が高校を卒業する日。つまり卒業式の日。
先輩は大学生で高校にはもういなかった。なのにわざわざ卒業式の日に先輩は学校まで来てくれて、私に言ってくれた。
ミラーシャ先輩は目尻に涙を浮かべて自分のことのように嬉しそうにしていた。

「ミラーシャちゃんが泣くんだ。○○ちゃんは泣いてないのに」

「いいのよ!嬉しいことなんだから!」

「ミラーシャちゃん、これ使って」

「ん…ありがと」

お友達のジニー先輩の言葉に返しつつ、ミラーシャ先輩はいのり先輩からハンカチを受け取って自分の涙を拭った。
ミラーシャ先輩のお友達のジニー先輩といのり先輩も一緒だった。
二人と私は顔と名前を知っている程度ではっきり言ってあんまり交流がなかったけれど、私がミラーシャ先輩が気にしていた女の子ということを知って一緒に来たらしい。

「ほんっと、よく頑張ったわね!成績が悪くて卒業できないかもしれないって泣きつかれた時はどうなるかと思ったわよ」

「うっ…その時は本当にご迷惑をおかけしました。でも、泣きついてはいないです」

私は卒業できるかどうか危うい成績で演劇部の先輩だったミラーシャ先輩に勉強を教えてもらったおかげでどうにか卒業に漕ぎ着けることができた。
思えば今の私があるのは本当にミラーシャ先輩のおかげと言っても過言ではない。

「○○ちゃんは卒業した後どうするの?大学に進学するんだっけ」

「はい。一応、まだ何を仕事にしたいのか何をやりたいのか全然決まってなくて、親と話し合ってとりあえず大学には行ってそれから決めてもいいって…恥ずかしい話ですけど」

「恥ずかしいなんてことないよ。私たちだって大学行ってもうすぐ一年経つけどまだやりたいこととか仕事とか見つかってないもん」

「そうだよ。ミラーシャちゃんがちょっと変わってるだけだから気にしなくていいよ」

「ジニー、それどういう意味で言ってるのよ」

「えへへ、ごめんなさい」

ミラーシャ先輩にジニー先輩は愛くるしい表情をする。
三人とも大学はそれぞれ別の進路なのに卒業してからも交流があって、誰か一人の声でこんな風に集まれる。
いいなぁ、私も高校でできた友達とこんな風にできるかな。

「まあ、とにかく大学行っても勉強だけはちゃんとしておくこと。いいわね?どんな仕事、やりたいことをするにしても知識だけはどれだけあっても損にはならないから」

「はい!頑張ります!」

「そう、その意気が大事よ。あなたなら大丈夫。私も負けずに頑張るわ。頑張って夢を叶えてみせる」

「先輩の夢って確か」

「作家よ」

ミラーシャ先輩は演劇部でも脚本を書いていたから初めてその夢を直接本人から聞いた時、私は何もおかしいとは思わなかった。
大学も文系のコースのあるところに進学して、そこに合格するために去年はちょっと前までの私のように、いやそれ以上に試験勉強に一生懸命だった。

「って言っても今のところそれらしいことはできてないんだけどね。賞も取ってないし、出版社に持ち込んでも駄目だし…でも、でもいつか必ず絶対に私は自分の夢を実現させる」

ミラーシャ先輩の言葉には強く固い決意が感じられた。
こんな先輩を始め多くの仲間や友達と出会って色々な体験をしたから私は高校で過ごした三年間は楽しかったし、充実していた。
それは胸を張って断言できる。

「私もミラーシャ先輩なら世界一凄い作家になれると思ってます!」

「世界一って、私より大きく出るじゃない。でもありがとう」

ミラーシャ先輩が嬉しそうに笑って、私もつられて笑う。近くで私たちの様子を見守っていたジニー先輩といのり先輩も柔らかな笑顔を見せていた。

「そんな可愛くて優しい後輩に私からプレゼントよ。はい、卒業祝い」



「リュドミラ先生への続いての質問は…ご自分の書いた作品への思いを教えてください、リュドミラ先生こちらの質問は大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ」

最初の挨拶から始まったイベントは参加者から事前に集めたアンケート用紙に書いてある質問に答えるコーナーに突入。
「最近夢中になっているものは何ですか?」というプライベートに関わる質問から「次に書く作品で挑戦してみたいジャンルはありますか?」という作品に関わる質問まで様々で、リュドミラ先生はそれらにきちんと誠実に答えていた。

「私の自分の作品に対する思い、ですか。そうですね…」

リュドミラ先生は考える間を置いてから口を開いた。

「私は自分の書いた作品はもちろん全部好きです。もう少し上手くできたかもなって思ったのも含めて…でも私には作品よりも好きなものがあります。私は人が好きなんです」

作品よりも人が好き
リュドミラ先生の答えに私だけじゃなく一緒に来ていた友達や他の参加者の人たちも同じように疑問を持ったような表情をしていた。
私たち一人一人のそんな反応を確かめながらリュドミラ先生は更に言葉を紡いだ。

「私の作品がほとんど幸せな終わり方をすることに納得がいかない人がいることは知っていますし、そういう人たちの言いたいこともよくわかっているつもりです。でも私は今のこの姿勢を変えるつもりはありません。それは私が物語が幸せな終わり方をするのが好きだから、というよりも登場人物が頑張って最後にそれぞれにとって最高の結果を掴み取ってその結果幸せな方向に話が終わってしまうからなんです」

「人の生きる時間は楽しい時間ばかりじゃありません。悔しくて辛くて、朝が来るのが怖くて眠れない夜がある日が誰にだってあります。もしかしたら人によっては生きていること自体が嫌になって何もかもどうでもいいって思ってしまう日も……
だけどそれでも諦めずに自分にとっての理想や夢を追い求めて、明日はきっと今日よりもいい日にするんだって前に進もうとする人が私は好きなんです。そんな人たちが生きている姿を私は描きたいんです。ただの自己満足かと思うかもしれませんが、私の好きだって思う人たちが頑張る姿を本を手に取ってくれた方が見て、同じように好きだって思ってくれたら私としても作品としても嬉しいことはありません」

その時リュドミラ先生は椅子から立ち上がった。
私たち参加者の座る椅子を端から反対側の端まで見渡して、閉じていた口をゆっくり開いた。

「だから今日こうして本を読んでわざわざ足を運んでくださった皆さんと会えることは作家の私にとって何よりも光栄で嬉しいです。私の作品と本の中で生きる人物たちを愛してくださりありがとうございます!」

リュドミラ先生は大きく頭を下げた。
良くも悪くも作家の先生らしくないと言える行動で私は呆気に取られた。
でも体は無意識に拍手をしていた。それは友達も他の参加者の人たちも同じだったみたいで小さかった拍手の音が重なってあっという間に会場を包む程大きな音になる。
顔を上げたリュドミラ先生の目尻にはあの時みたいに小さな水が見えた…私にはそんな気がした。

イベントも終わりが近づき、最後はリュドミラ先生が参加者の持参した色紙や本にサインを書いてくれる。

「今日は来てくれてありがとうございます。名前は何て書けばいいですか?」

「ありがとうございます。春咲玲奈でお願いします。リュドミラ先生、私先生の作品が大好きで特に三作目の『夢色コントレイル』が一番のお気に入りなんです」

「あれは私も書いてる時楽しかったです。友情と恋愛のバランスに気を遣わないといけなかったのは大変だったけど、その分納得のいく仕上がりになった時の達成感は大きかったです」

サインを書いてくれる間もリュドミラ先生は参加した人たちとの会話も丁寧だった。
誰一人雑に対応された人はいないみたいで会場から離れていく人たちは皆嬉しそうな顔で、サインを書いて貰ったであろう色紙や本を宝物みたいに大事に持っていた。
友達も終わり、いよいよ私の番が回ってきた。

私の高校卒業式以来となるミラーシャ先輩との対面。何を言ったらいいのか、どんな話をすればいいのか上手くまとめられないまま私はリュドミラ先生の前に来て、持って来た本を手渡してしまった。

「今日は来てくれてありがとうございます。名前はどう書けばいいですか?」

「えっと…ペンギンもどき、でお願いします」

「ペンギンもどきさんね。わかりました」

本名ではなくSNSやリュドミラ先生にファンレターを送る時に使っている名前を言った。
これはついうっかりではなく意図的。今の私をミラーシャ先輩のよく知る昔の私を結びつけたくなかったから。

「あら?インクが薄いわね。ごめんなさい、ちょっとペンを変えてきますね」

「あっ、はい」

リュドミラ先生は私の目を見て言うと私の本を持ったまま椅子から立ち上がる。
その動作に気付いたスタッフの人がリュドミラ先生に近づいて、座り直すように促す。

「先生、先生は座ったままで結構です。こちらで持ってきますから」

「大丈夫です、もしもの時のために持ってきてるペンがありますしそっちの方が書き慣れてますから。お気遣いありがとうございます」

リュドミラ先生にそう言われてはスタッフの人も何も言えないみたいで、リュドミラ先生は一旦会場を離れた。
状況を把握できない後ろの方にいる参加者の人たちはいきなりリュドミラ先生がいなくなったものだからざわざわと騒つき出す。
もしかしたら帰ってしまったんじゃないかって思っても仕方ない状況だからそうなるのもわかる。
でもそんな心配は杞憂で、数分くらいでリュドミラ先生は急ぎ足で本とペンを手にして戻ってきた。

「ごめんなさい。待たせちゃって。サインは向こうで取ってくるついでに書いたからどうぞ」

「あ、いえ…」

リュドミラ先生から私は本を受け取る。
サイン会の流れとしてはこれが最後。つまり私はもう会場を後にするだけ。
今回のような機会がいつまた訪れるかもわからない。

「あの、私!……ずっとファンです。これからも頑張ってください」

「そう言ってくれる人が一人でもいると私ももっと頑張ろうって気持ちになります。ありがとうございます」

「はい。ありがとう、ございます」

結局言えなかった。元から自分のことを言うつもりなんて更々なかったけどいざ本人を前にしたら、言いたい気持ちが強くなってしまって、今は言えなかったことに安心と後悔が入り混じっている。

私はリュドミラ先生に一礼して先に会場の外に出ていた友達と合流する。

「私より時間かかってなかった?」

「…うん、ちょっとね」

「ふーん、それよりもサイン見せてよ。私の書いてもらったのと同じ?」

自分の本に書いてもらったサインを私に見せながら友達はグイグイ詰め寄ってくる。
サインは皆一緒だと思うんだけど、そう心の中で溢しつつも私は自分の本のサインの書いてあるページを見つける。

「えっ!?私のと違うじゃん」

「この犬って…」

私のページには『今日はお会いできて嬉しかったです!リュドミラ・アンドレエヴナ・ルスラノヴァ』の文とその近くでニッコリ笑う可愛らしいタッチの犬の絵が書かれていた。
一方文章だけしか書かれていない友達は自分の持っている本と何度も見比べて「なんでなんで」と口にしている。
でも私には彼女の言葉も行動も気にしていられなかった。
あの時のことを思い出していたから。



そう言ってミラーシャ先輩が私にくれたのは手帳だった。

「手帳ですか?」

「それもただの手帳じゃないわよ。最後のページ、見てみて」

「…あっ」

言われた通り手帳を開いて最後のページを開いてみるとそこには『卒業おめでとう!」の文とデフォルメされた犬の絵が書かれていた。

「可愛い…」

「でしょ。その絵最近考えた私のお気に入りなの。私が有名な作家になったらただのサインじゃなくてその絵を描いたサインを貴方にあげるわ」

「本当ですか!?」

「もちろん。このリュドミラ・アンドレエヴナ・ルスラノヴァに二言はないわ」

ミラーシャ先輩は誇らしげに両手を腰に当てて言った。

「ありがとうございます!私も頑張ります!先輩に負けないくらいに!」



友達と別れて家に帰った私はまず真っ先に宝物を入れてる引き出しに向かい中から手帳を出す。
そしてソファに座るとバックから本を出し、ミラーシャ先輩に書いてもらったサインと過去に手帳に書いてもらった絵を凝視していた。

「あの時の…私だって気付いてくれた?」

サイン会会場の近くや帰りの電車の中で同じようにサイン会に参加した人たちのサインを見ることができたけど、その人たちは全員友達のように文章だけだった。
絵を描かれていたのは確認できた限りだと私だけ。
私が自分から本名を名乗っていないのに私のことに気付いて、あの時の約束を覚えてくれてくれた。

「ないか…私の思い過ごしだよね」

でもそんなはずはない。いくら何でも話が出来過ぎだ。
そう結論付けて手帳と本を片付けようとすると携帯端末から着信音がした。
私は手帳と本をソファに置いて代わりに携帯端末を手に取る。
一体誰からだろう。

「ミラーシャ先輩!?」

通知画面に表示された名前を私はつい大きな声で叫んでしまった。あの卒業式からしばらくは連絡していたけれど、ここ数年は一回も連絡はなかったししなかった。
動揺しつつも私は連絡アプリのミラーシャ先輩の欄をタッチして詳細をチェックする。

『今度は一緒にご飯でもいきましょう。それでたくさんたくさん話しようね。昔みたいに』

ミラーシャ先輩はその文言の後にゆるキャラのスタンプを送って来ていた。
つい私は吹き出してしまった。高校の時にしていたやり取りの雰囲気を思い出してしまったから。
私はすぐに頭に浮かんだ言葉を文章として打ち出す。

『今日はお会いできてよかったです!ミラーシャ先輩の書いた作品に私は何度も何度も元気と勇気を貰いました』

そこまで書いて次の文と区切るために送信のボタンを押そうとして…やめた。
一度じっくりと文章の頭から尻尾まで見直して私は入力した内容を消して改めて別の文章を打ち直す。

『是非行きましょう!予定はミラーシャ先輩に合わせますので。たくさん話してたくさん食べちゃいますよ!』

さっきと違って私は迷わず送信を押し、次に食べ物を食べるクマのスタンプを送った。
送信が完了したのを確認して端末をソファの上にそっと静かに置く。
そして私は部屋の天井を見つめる。

(ミラーシャ先輩、私もっと頑張ります。ミラーシャ先輩の書く物語の中で生きている人たちみたいに)

部屋の天井には何もない。でも私には見えていた。
昔も今も変わらない私の大好きな先輩の笑顔が。

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