助からない人

援助職とはエゴである


大学に入ってしばらくして、講義で聞かされた。その先生はわりと独自のワールドがあり、独自の理論を展開し始めると止まらないし、並々ならぬ信念を持っている。しかし、なかなか納得のいく話ばかりで、私はその先生の授業が好きだった。テストも提出物も難しかったし、単位取得ギリギリの授業だってあったけど。今の私を構築する考え方の一部はその先生の脳みそから拝借されたものである。

さて、援助職がエゴであると聞いたとき私は、そうだね、と思った。若干驚きもあったが、それは「ええ!そんなわけ!」という否定的なものではなく、「あ、言っちゃうんだ」といった感覚。

人が人を助けることを仕事にしようと思うとき、そこにはいろいろな理由が並べられるが、たいていの場合心の中に「絶対的な善人でありたい」とか、「感謝されたい」という、圧倒的に大きな”私”の存在があるということ。あって当然だということ。

これはなんというか、対人援助職に就いちゃおっかな?と思い立ち、ちょっと深く考えれば、わりと誰でもぶち当たる壁だと思う。だから私は、猜疑の意味では驚かなかった。


まず、就いちゃおっかな?と思い立つきっかけの話をしてみる。

私はばくぜんと、「弱き者」の味方でありたかった。

私は社会の中では、「弱き者」の気持ちがわかるほうだと思っていたのだ。

性格マジ暗いし、学校は嫌いだったし、不器用で、人間とコミュニケーションを取ることもままならず、かといってアレルギー体質なので動物と対話もできず、運動できないし逆上がりもたぶんできたことないし、もちろん恵まれた容姿や非凡な才能を持ち合わせているわけでもなし、卑屈でコンプレックスの塊。人生あと60年くらい消化試合。弱すぎる。

高3のころ、そろそろ進路を確定しようかねという時期。

こんな私でも何者かになるためには、「弱き者」の気持ちがわかり、かつ父親譲りで人よりほんの少しだけ成績がよかった”私”でもできることを役立てなければならない。そう思った。だから今の大学で今の勉強を始めた。

つまりもうここで、エゴ全開である。私の人生まだ詰んでないぞと言いたいがための志望動機。合格して浮かれまくりエゴが入学しました。


それからしばらくして出会う、対人援助がエゴという話。

すでにこの頃には無事「私のエゴやんけ」ということにはうっすら気付いていた(この文章ほど明瞭には気付いてないけど)。

先生曰く、でも、そんなエゴを持っていない人なんていないと言っても過言ではない。重要なのは、それを自覚していることだと教えてくれた。これは専門用語では「自己覚知」といわれるもので、自分がどういう人間なのか…どんな人生を送り、どういう偏見や差別心を持ち、どんな得意不得意があり、どんな思考回路を持っているか……を知っておくことで、不用意に援助の対象や、その人と向き合う自分を傷つけないようにしなければならない。ということ。(たぶんそう)

だから私は、「ま、エゴ持っててもしゃーないよね!」という、無敵の人状態でやってきた。


しかし、今日お風呂に入っていて急に、気付いた。


わたしは「弱き者」の気持ちが分かっているんじゃない。

「私」のことだからわかってるんですよ。


これを気付くのに3年かかった。1ターム学費30万を3年やった末たどり着く気付きか?これは。どうしようもない


わたしは、計算ができない。あまりよく時間がわからない。言葉で聞いた指示をイメージできない。がっつり学校に行きたくない人の気持ちが分かるし、来させようとする人がマジで憎い。わたしは、狂っとる教師のおかげで中2の2月を期に性格が変わった。

おまけにちょっとだけ感受性が強すぎる(※よいことではない。よくハゲるし視力が乱高下する。子どもの頃から治らない。)ので、人が嫌がるようなことをできる人とか、人を頭ごなしに怒鳴れる人の気が知れない。筋金入り人見知り陰キャだから、人がしんどいときが多すぎる。


そんな私がツイッターなんかを見ているとたまに、「お前はわたしか?」というような、限界も限界のエピソードを書いてる人がいる。これでちょっと安心する。あー俺らってそうだよな!って思う。それはしばしば大量のいいねが付いてるものなので、こんなにもこれをわかる人がいるんだと。たまたまマジョリティではなかっただけで、でも決定的なエラーやバグではないのだと思えるのだ。

しかしそういう人のツイートなんかを遡ってみたり、あるいは日常的にTLで見ていたりすると、私の苦手なことが得意だったり、私のほしいものを持っていたり、素敵な場所へ旅行に行っていたり、なんか楽しそうにしていたり、その、ほんのちょっとの”今現在の私”との差に、勝手に失望する。裏切られた気分になる。(ちなみに私が楽しいときは、別に誰が楽しそうでもなんともおもわない。人類ハッピ~)

逆に、私がなんとも思わないことにとても怯えていたり、私が些細だと思うようなことにブチギレたり悲嘆していたりすると、優越感を覚えたり、むしろ「なんでそんなことで…」とイライラしたりするのだ。

結局みんなわかってない。結局この人は「困ってない」し、あの人は弱すぎるのだ。分かってないなあ。と思う。


とんだ馬鹿野郎よ。

誰も「私」をわかってない の違いだ。

そりゃ、私が何かしらの弱音を吐いて、そこに「ああわかりますわかります完全に同じ、全く同じです、あなたは私ですか?わかるわかる!本当にわかる!死ぬときは一緒だよ!」みたいなコメントがついて、その主が鬼の陽キャで、そういうことが10回連続起きたとか。そういうことなら、「ああ、誰も困ってないんだ…」という失望もあるかもしれん。

しかし私の場合は違う。勝手に見て、勝手に期待して、勝手に「私」と「完全一致」にして、勝手に失望しただけだ。

つまり結局私のエゴの正体というものは、

目の前のつらそうな人と私が「同じ」であることを確かめ合って、安心したい

ということになる。


そしてその先に待っているものはお察し、

「分かってねえなあこいつ」オア「かわいそぉ笑ピェン」。

だって私の目の前に相談者や支援を必要とする人が何人現れようとも、彼らはだれ一人として私じゃないのだから。


私にとって対人援助職とは、とんでもなく危険でしかないエゴであった。これを弁えたからといって、私に何ができるのだろうか。とっくの昔に詰んでいた人生の狭い範囲の中で、壁に向かってずっと走っていただけの私は、何になりたいのだろうか。








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