「キャンセルされた歴史を取り戻す」”これでも侵略か” 満州事変と満州国建国 3

みなさん、こんにちは。キャンセルされた歴史を取り戻す、これでも侵略か満州事変と満州国建国3です。1933(昭和8)年5月、日本は、蒋介石政府と「塘沽(タンクー)停戦協定」を締結し、満州事変を決着することになりました。「塘沽停戦協定」締結後、80万人の国民政府軍は、15万人の共産軍を包囲殲滅する作戦に乗り出し、共産軍はそれまで築いてきた各地のソビエト地区を放棄して延安に逃れます。これに慌てたのがコミンテルンでしょう。満洲は、日本の3倍以上の広さです。当たり前ですが、満州国の軍隊や行政、警察組織は、満洲国民の協力があって初めて機能します。これからお見せする写真は、ホームページの「満洲写真館」から管理人様の許可を得て使用しています。満洲の写真だけではなく、管理人の方が満洲出身の方で説明文がとても正確です。例えば日本人の満洲移民について、教科書に書かれているような、農業移民だけではなく、幅広い業種でおこなわれていたことが分かります。また、農業移民は失敗するケースも多くあったこともわかります。生活が安定するまでに、匪賊に襲われたり、幼い命を肺炎で失うなど、移民の苦労がよくわかります。満洲国がどのように発展していったのか、満洲国総務長官だった星野直樹氏は、見果てぬ夢―満州国外史でこのように回顧されています。民生分野で特筆すべきは、新都市建設と既成都市の改造である。近代的な国土計画のもとで、日本人建設技師の人材を集めて、近代的な美しい都市が、満洲の広大な国土に次々と生まれていっ た。特に、新しい国都・新京現長春は、百万都市として建設を進められ、電気、上下水道を完備し、東洋で最初の水洗トイレも設けられ、豊かな緑に彩られた。また満鉄は沿線各都市に、満鉄病院、伝染病研究所、結核予防協会、保養院などを設け、僻地には巡回施療を行って、民衆の健康状態改善に大きく貢献した。さらに中央試験所、農事試験所を設立し、ここで開発された「改良大豆」は、全満洲に普及し、世界一の大豆輸出国として成長させる原動力となった。そのほか地質研究所、鉄道技術研究所、製鉄研究所などが、満洲の農・工・鉱業発展の牽引車となった。以上の国土開発、産業開発は、ほとんどすべて日本からの投資でなされた。たとえば1936年にまとめられた、第一次産業開発5カ年計画では、増産すべき分野として、電力、鉄鋼、石炭、アルミニウムから、飛行機、自動車まで挙げられているが、その投資総額は25億円で、同年の日本の一般会計歳出総額24億円を上回る額であった。日本は膨大な人材と技術と資本をつぎ込んで、満洲の発展に賭けたのであった。その間、満洲の状態は一変した。治安は完全に確保され、国内には一人の兵匪もいなくなった。農業国から立派な工業国となり、総生産額は倍増した。国民生活は目覚ましく向上した。東亜各地から集まってくる人は、数多く、3千万人であった人口は5千万人を超えるにいたった。省略します。生まれ出た満洲国を、ひとり主導的地位に至った日本人のみならず、ひろく東亜諸民族が力を合わせて開発、発展せしめ、その恵福を、ひろく等しく各民族の間に分かち、ここに新たなる楽天地をつくりあげようと、日本の若き人々は進んで満洲国に集まってきた。省略します。生命わずか13年、満洲国の建設はついに見果てぬ夢に終わった。しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは永久に日本民族の誇りとするに足るものであると確信する。以上のように満洲国総務長官だった星野直樹氏は述べられています。その結果、大豆の生産は5倍、出炭は14倍、貿易は6倍となります。これの何がいけないのでしょうか。中国への投資は良くて、満洲への投資は悪いのですか? それでは満州事変と満州国建国その3を終わります。さようなら。

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