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中学歴史教科書 自由社VS学び舎   4.支那事変(3)

 どうですか。日本政府は、中国側の挑発をうけても我慢に我慢をかさねていたことをご理解いただけましたでしょうか。現在も尖閣を狙われ、挑発を受けていても我慢に我慢をかさねているのは当時とよく似ています。違いは、日米同盟や、英、仏、豪との協調が現在はあることです。

8/11 12,000人の偽装保安隊が上海の協定線内に侵入した。
8/13 居留民保護のため日本軍2個師団派兵決定。
8/14 支那軍機は、民間人のいるホテルまで無差別爆撃を行った。
8/15 日本軍反撃開始。ここが本当の日中戦争のはじまりではないで
     しょうか。

自由社は、盧溝橋事件について、「現地の日本軍も中国軍も戦闘拡大の意図はなく4日後に現地停戦協定が結ばれた。しかし、その日、近衛首相は、派兵を決定し、中国側は日本人への襲撃などの挑発をやめなかったこともあり、本格的な戦闘状態になっていった。」と記述。233P
 この日本人への襲撃のひとつが側注の7月29日の通州事件です。日本の駐屯軍が不在の間に、子供や女性を含む日本人居留民223人が北京市郊外の津州で惨殺されたのです。

自由社側注

 自由社は、続いて次のように記述しています。8月13日、中国軍の大軍と日本人居住区を守っていた日本軍との間で戦闘が始まりました。(上海事変)
日本は陸軍の増援部隊を派遣したが、中国軍の精鋭部隊に苦戦を強いられ、11月までに4万人の死傷者を出しました。
 自由社の教科書には書かれていませんが、蒋介石は、圧倒的数をもって日本人居住区を攻撃し、また飛行機で爆撃したのです。この爆撃で死んだのは多くが上海市の中国人だったといわれています。翌日日本軍機が敵飛行場を攻撃します。
 9月上旬までに日本軍は、4万人近くが上陸したが、支那軍は前線だけで19万、後方は27万に膨張していました。10月上旬までに日本軍は7万が上陸、支那軍は70万ほどに強化されていました。
 このため11月5日中国軍の背後をつくために4個師団が杭州湾から上陸しました。支那軍は一挙に浮足立ち、4日後には上海が陥落。しかし、ヒトラー・ドイツ軍事顧問団の指導で構築したトーチカ網により日本軍の損害は、日露戦以後一度も経験したことのない数でした。
 自由社は233Pで、「日本軍は国民政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月に南京を占領した」と記述しています。
上海にいたアメリカの特派員は、ニューヨークタイムズに次のように報じたといわれています。
「日本は、極力事態の悪化を防止せんと務めたるも・・戦争に押し込まれたるなり」

 ここで学び舎と自由社の大きく異なる点をもう一つあげますと、学び舎は南京事件を記述していますが、自由社は、それは戦時プロパガンダ(宣伝)、つまりなかったことなので記述していないことです。
では南京事件はあったのでしょうか?それともなかったのでしょうか。
それは次回東京裁判で明らかにします。
 

学び舎

 蛇足ですが念のため付け加えます。上の学び舎の「地下道を掘って戦う」
にあります「三光作戦」は、日本軍の作戦ではないといわれています。おそらく戦国時代でもなかったでしょう。これは中国の戦法で、敵軍には何も残さないという焦土作戦です。すでに晋の正史にもみられるといいます。
 清の時代にも反乱軍を鎮圧するとき、堅壁清野の策が取られたといいます。守りを堅固にして、奪って、人でさえ殺して、焼き尽くすという文字通り敵軍には何ものこさない、渡さない作戦です。
 国民党軍が浮足立って南京に撤退するときも、日本軍に利用されそうなものはすべて焼き付くす、「清野作戦」取りました。これを日本軍のせいにしているのではないでしょうか。日本語に三本の矢というのはあっても三光はないのではないでしょうか。 



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