2022/11/30 日記 「自分のための」

日記、続かなかった。

日々を思いつきで行動してるから、習慣らしき習慣がない。日記を続ける意志もなかったので、続かなかった。それだけの話。

むしろ、心が普通の時は日記なんか書かなくて、思い悩むことがあるからこそ日記を書くのかもしれない。公開しようが公開しまいが、結局他人に自分の持つ何かを託そうとするからこそ日記を書いてる。

献血に行った。50分くらい針を刺されたまま待ち続けるだけで社会貢献ができる素晴らしい行為。本当に、ほとんどの人類はやったほうがいいと思う。

献血が終わった後、ふと感慨にふけり、感受性が開き、頭の中を考え事が走り回る感覚がする。多分、他者の存在を間近に認識し、解放されて独りになるからだと思う。この時の感覚は、この世界と私のことを広い感受性で認識させ、ある意味ぐったりさせられる。

自分のことはできないが、誰かのためにならできる。そんなことがADHDの特徴に上げられると、品田遊のエッセイ「キリンに雷がおちてどうする 少し考える日々」を読んで知ったが、これを知ったときはたいそう感銘を受けた。私は、自分の部屋の片づけがもうできない。家でも怠惰な日々を過ごす。ただ、ほかの組織にいるときは働き者のように見えるところがある。先生や友人の前では、本気で頑張ろうって思える。何もかもを。

他者の前での自分と、自分の前での自分の存在が、とても乖離してるように昔から感じてきた。そのことで本気で思い悩んでたし、それは今も変わらないこと。

私だって自分のために生きたいのだ。そういう人たちにあこがれてきたし、今やってることだって自分のためのことばっかり。でも、そういうことが本当にできないんだと深く感じる。これが才能ってやつなのか。

才能を才能と割り切って過ごしてもそれが人生だと思う。でもあがきたい。まだ私は自分のために生きたいと思うのだ。他人のために生きることが私に一番向いていることだし、そう生きるのが一番自然だ。でも、あの時憧れた感情を忘れたくなくて、自分しか覚えてないことを忘れまいと生きたい。

割り切ろうが割り切らまいが、このままだと大学の卒業がちょっと怪しくなる気がするので、しかるべき機関に相談すべきだと思う。薬が欲しい。私を前に向かせる薬が。

とにかく、自分のための創作をします。他人を巻き込んで、迷惑をかけていきます。今からやる。


献血の初めにトイレを済ませたのに、最後の方でかなり限界と戦うことになって、私のもがく姿を見かねた職員の方から「今すぐ終わることもできますから、無理なさらないでくださいね。今まで途中で終わった人もたくさんいますから。」と心配の声をかけてくださった。いや~ほんと申し訳ない。ちょっと恥ずかしい。自分を美少女に置き換えて、このシチュエーションはイイな……と置換することによってなんとか乗り切った。


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