他人の物語、自分の物語、神の物語

最近、「神の物語」というものを考えている。

神話じゃないよ。絶対的な物語というか。


大人になって、世の中の多くの人は「他人の物語」に踊らされていることに気づいた。「他人の物語」というのは、「良い会社に入りなさい」「はやく結婚して幸せになりなさい」「男はこうありなさい、女はこうありなさい」とかに代表される、一般常識大好きな、大衆の物語。

「他人の物語」は例であげきれないくらい多いし、無意識に受け入れてるものも多い。これに沿って生きればあんまり考えて生きなくてもいいんだけど、自分がそれと乖離している場合はストレスが生まれて、人によっては追い込まれてしまう。


それに対して、「自分の物語」は自分を起点にしているのでストレスがない。自分らしく生きるために、自分で夢を描き、自分で目標を設定し、自分の価値観で幸せになっていく。

「他人の物語」はレディメイドで「自分の物語」はオーダーメイドだ。

これはどちらがいいという話ではない。オーダーメイドはオーダーメイドで大変なのだから。


個人主義の流れの中で、自分で物語を描く人が増えている。私もそうしたいし、そうしようともがいている。

そう。もがいている。自分で自分の物語を描くことは簡単じゃない。社会は「他人の物語」で動いているし、自分一人ですべてを描き切れるほど人生は単純じゃない。「自分の物語」は「他人の物語」に振り回されない、確固たるものだ。でも、社会の中の一個人が描く物語は、川面に立つ水草のように常に揺れているようなイメージがある。


そんなことを考えていた時、もっと大きな流れに気づいた。

例えば、震災や、不慮の事故。

偶然の出会いや、突然来るチャンス。

人生は「自分の物語」を超えて動くことがある。他人や自分ではない、人間なんかが考え付かない展開を世界が見せるときがある。

「運命」とも呼べるけど、私はこれを「神の物語」と呼びたい。


人は生まれ、そしていつか、死ぬ。

私の細胞も、日々生まれては死んでいっている。

地球だっていつかはなくなるかもしれない。


そういう大きな視点で考えると、私たちは生きているのではなく、生かされている。自分には想定できない、「神の物語」を生きている。

そう考えると、自分の物語の悩みなんてどうでもよくなる。うまくいくときはいく、いかないときはいかない。がんばってできることもあれば、がんばってもできないこともある。大きな物語から自分を見れば、いろんなことがどうでもよくなるんだ。


だから、もし行き詰まったら「神の物語」を思い出すようにしたい。

そうすることで、生きやすくなると思う。



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