片山由美子『香雨』再読

先日、現代俳句協会の勉強会「私の思う現代の俳句150句」にお邪魔した。

http://gendaihaikukyokai-seinenbu.blogspot.jp/2016/03/145150.html

実作と評論を共に精力的に行い、今の俳壇で強い影響力を持つ

(ということになっている)片山由美子に、

莉々香・瑞季・柚紀の若手の3人がどう食らいついていくのか、

そして榮猿丸はどういうスタンスで臨むのか、気になったのだ。

実は、自分は3年前に片山由美子論を『豈』に書いたことがあったが、

本人が果たして読んでいるのか気になりつつも知る機会がなかったので、

もしお話できたら聞いてみたいな、というちょっとした興味もあった。

勉強会は、3人が提示した「私が思う現代の俳句」各50句を

片山がさまざまな角度から批判するところから始まり、

そこから彼女たちが提示した俳句の現代性の定義付けの甘さを

淡々としかしツボをついた語り口で指摘していく展開になった。

3人の意図を汲み取り、発言を引き出しつつも

片山の言葉に自分の実感を踏まえながら同意する

猿丸の存在がその展開にいくらかの奥行きを与え、

休憩時間に今回の企画の黒子役であった

野口る理のアドバイスもあったからか、

後半戦は柚紀の積極的な切り込みなども見られるようになり、

少しずつ議論らしい議論へと進化していったように思う。

瑞季が挙げていた〈醒めてゐてひかりとひとをみまがへる〉

という佐藤文香の句に

「みまがへる」という単語は存在しない、と指摘を入れながら

単語や文法の正しい使用を諭すように語る片山の発言は、

著書で見せる潔癖さと同様で、

自分は片山由美子を目撃している、という高揚感で

ちょっと胸がいっぱいになってしまった。

懇親会の後に片山本人に、以前に『豈』で

論を書かせていただいたのですが、と挨拶したところ、

読みましたよ、と笑顔を返されたのも印象深いことであった。


そういったことがあり、片山の第五句集にして

現時点での最新句集である『香雨』を再読した。

以前読んだ時には、自分が左利きであるせいか

  菫摘みゆくや右手は聖なる手

が妙に癇に障ってしまい、この句集自体を正当に評価できなくなり、

俳人協会賞を受賞したと聞いても「ふーん…」としか思えなかった。

(今読むと、何故それほど感情的になったのか自分でもわからない。

現在はいい句だともダメな句だとも思わない)

時間が経ち、若手とがっぷり四つで向き合う片山の姿を勉強会で見て、

フラットな気持ちで『香雨』を読み返したいと思い今回再び手に取った。


まずは、いいなと思った句。

  聞きとめしことまなざしに初音かな

この句は帯にも掲載されている。

見られている人の「聞こえた」というほのかな気づきと、

見ている人の「あ、あの人、聞こえているんだ。

目を見て分かった」というほのかな気づき。

気づきのレイヤーを重ねることで、

初音を誰かと分け合う喜びが新鮮に描かれている。

  枕やや高しと思ふ遠蛙

やや唐突な季語選択が気持ちいい。

  低き草はじめに揺れて夜の秋

私は細かくものを見ていますよ、というさりげない主張が

いささか鼻につくところもあるが、巧い。

  郭公や木の教会の小箱めき

カ行を軽快に聞かせている句。


初読の頃のメモ書きが行間に残っていて、

分かるような分からないようなところがあり、面白い。

「平成二十二年」の章に収録された

  空蝉にものを見る目のまだ残る

の傍らには「概念の発見」とメモが書かれていた。

それに続く「平成二十三年」の章の扉ページの裏に

「概念→具象の抽出」と書いてあり、

その章に収録された

  照らし合ふことなき星や星月夜

の横には「概念」と書いてあった。

当時の自分がこれらの句から何を感じ取っていたのか

はっきりとは分からない。


最後に、良さが分からなかった句。

  七夕や岸まじはらぬこと永久に

  明日のことのみを思ひて髪洗ふ

  サングラス己あざむくこと易し

ええ、そういう内容の季語ですものね、と思って、それで終わってしまう。


勉強会の時に片山は、

生死のことを詠んだ句に感銘を受けた経験を語っていた。

例として彼女がうっとりと語る短歌の若手の作品であったり、

〈峰雲や生まれくるものみな濡れて〉という網倉朔太郎の句は

確かに定型詩ならではの美しさをたたえる佳作であった。

しかし私はそれを聞いて、以前片山の論を書いた時にひらめいた、

彼女の句を貫くのは非常に強固な倫理観であるという説を改めて思った。

「こういった句こそ書かれるべきである」

「こんな句は書かれるべきではない」

彼女の脳内ではこういった俳句分類が延々とくり返されているのではないか。

彼女が尊ぶ俳句、ひいては表現とは

美しいものを美しく詠み、

人として大切な局面をそれにふさわしいスケールで詠み、

と考えていたら、

大声で「何それ!!!!!!!!!そんなのつまらないよ!!!!!!!!

少なくとも私は!!!!!

そんなの!!!!!

詠みたくない!!!!!!!」と叫びたくなった。

しかし、そんなことをだだっ子のようにわめいているだけでは

誰も振り向いてはくれないので、

そんなこと思ってないですよーって顔で

ちょっとずつ色んな気持ちを混ぜ込みながら

自分の俳句を詠んでいきたいと思う。

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