インプロヴィゼーションにおける内面と外面の連動について

自分の意思によって立つのか、自分の意思ではなく立ち上がっているのか。即興と呼ばれる行為/世界において、どの程度自己によるコントロールが有効で、どの程度周囲の環境或いは他者による意識/意思の介在が行われているのか意識してみる
。自分の意思による選びとった即興だとしてもそれが自分の習慣、つまりは身体の記憶によって再現されているもの。癖と呼ばれるものや習慣によって再現されているにすぎないとしたらそれはどこまでが自己の意思なんだろうか。

たとえば、即興がはじまる直前。大輔さんはぼくに増川くんに何か衣装を選んでやってくれと言った。部屋にいって衣装をみてみたが、増川くんはぼくは自分の服で踊りますと選択した。

そうして踊り始めたわけだけれど、はじまってみたらこんどは照明との闘いだ。自然光における踊り。つまりはシアターではなく、路上などのパフォーマンスでは太陽光などの光や、あるいは家庭用の灯りや街灯など大きくは変化することはない光源とつきあうことになる。

だけど、ああいった劇場光といったものに照らされると、その中に収まるのか、その中から逸脱するのかといった選択を迫られる。それを照らして来やがるやつの意思が介在してくる。

音楽が鳴っている。こんどはその音楽を聴くのかあえて聴かないのかそういった選択を迫られたり。口頭によるディレクションで即興の内容に演出が入ったりしてくる。それに従うのか抗うのか。

そのがんじがらめのトンネルの中で自由さを模索する。実際その中でも増川くんは自分の意思を失わずに踊っていたように思う。意思の踊り。その言葉の響きにぼくはニーチェやハイデガーといった構造主義の薫りを思い出す。特に中央の照明の中でカタカタカタという音に対して早いパッセージで身体の外骨格を作り変えて色んなフォルムを提示していたところは顕著にそれを感じた。建物が老朽化して壊されてまたそこに新しい建物が建つみたいに自分を壊して再構築する。

だけど大輔さんはそんな増川くんをさらに外側から壊そうとしてくるんだね。そのやり方というのは本で読んだり人づてに聞く土方のやり方に近いように感じたよ。

在/不在。きのうの増川くんはどこまで自分の意思で踊ってどこまで他者によって踊らされていたのか。

ここでひとつ自分対世界というレベルから自分の内面対自分の外面という風に思考を置き換えてみる。

土方さんは身体には身体の意思も心もある。それを自分の思い通りににできるなんて思っちゃいけないよ的なことを言ったとされているわけなんだけど。

今回の大輔さんの稽古場は徹頭追尾すべてに口を挟まれるような環境というのが可視化されてたわけで、でも、ふだんのぼくたちと意識とぼくたちの身体の関係も同じようなものかもしれない。

どこまでが自分の意思で、どこまでが身体の意思なのか。どこまでが自分で選び取っているか、どこまでが環境によって選び取らされているのか。

集中というものがあるとしたら拡散というものも意識されてくるわけなんですが、昨日の増川くんの即興は"不在の在"という感想です。増川くんが剥ぎ取られるとまた増川くんが現れてくるんだけど、それはさっきまでの増川くんとは違う増川くんなんだよね。

自分というものを究極まで剥奪されて亡くしたときに、その人のエゴがやっとで見えてくる気がしていて。やはりぼくは増川くんは自分の意思の力で踊る人だなと思ったのでした。でもそれは同時に自分というものが失くすことができるから、自分をも素材にできるという証左であり。マイナスとマイナスの掛け算がプラスになるように。無くせば無くすほど現れてきちゃうってことはやっぱりあるよねと一人でうんうん頷いているのでした。それを古い価値観だと自己の内面vsザ・ワールドって感じになっちゃうんだけど。自己の内面と外面が連動してゆっくりと動いていく。そういうコーディネーションをつかさどっとるのがいまこの文章を書いとるような顕在意識の役割なんかなと思ってみたり。内面は内面。身体は身体って分けがちだけど、大輔さんが唇や表情も踊りなんじゃないかといっていたように。そこはつながって大きな身体を形成しているんじゃなかろうか。

2023/04/23(日) 東京の電車の中。タイ古式マッサージを受けに行く途上にて。

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