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わからないことにたいしてわからないことがわかったというのはわからないことにたいしてわからないことがわかったのでわからないとわかったこと

考え過ぎてわからなくて答えが出なくて気が狂ってしまうんではないかと思った時は文字化する。

生きる意味がわからない。どうして生きているのかわからない。他の人は悩まないのだろうか。不思議でならない。

自分には自分が生きている意味がわからないのだが、生きている理由ならわかる。借金があって返さなくてはならないし、飼っている犬たちもいるから、生きている。借金は、死んでしまえば無くなってしまうので、実際には生きている理由にさえならない。でも、犬たちは自分が死んだからと言って消えて無くなってはくれないので、どちらかというと、犬たちのために生きている。ただそれは、理由であって、意味ではない。やはり意味はわからない。

もっとわからないのは、なぜ生まれたのかわからない。人間という記号、ラベルを付けた物体であるところの中の、たまたま自分の両親という存在であった(既に二人とも他界してしまった)ものたちが、生殖行為を行った結果、私、自分というものが物体として出来上がり、母という物体の産道を通って、今現在、他の人と同じく地球という記号、ラベルを付けた、宇宙という記号、ラベルを付けた、どうもそれは宙空という記号、ラベルを付けた何かの中に浮かんでいるらしいのだけれども、その何かの中に浮かんでいる所に現れただけのことであって、生まれた意味がわからない。こちらなど、生きていることと違い、理由さえわからない。わからない。わからない。

わからないことは自分にとっては恐怖である。恐怖という、これも記号というか、ラベルというか、感情という記号なのか、ラベルなのか、そもそも恐怖は感情なのか?もうそれさえわからない。

子どもの頃、親に叱られるのが怖かった。なぜ怖いかというと、叱られるということは、親にはわかることが子どもの自分にはわからないから、それで叱られると感じていたからだろうと思う。他者がわかることが自分にはわからない時点で、それはもう絶対的な異質認定であって、もう、同じ、どこかの何に浮かんでいるらしい所に一緒にいてはいけないことになり、じゃあいったい自分はその瞬間以降、この先いったいどこに居れば良いのか、全くわからなくなってしまうわけで、これほどの恐怖はない。だからわからないことは恐怖である。

父という物体は、実際に他の子どもの父と呼ばれている物体と比較したことがないので、どれほどの知識を持っていて、わかっていることが多いのか、本当のところはこれもわからないままなのだが、子どもの頃の自分にとっては、父ほど博識な存在はいないと信じていたこともあり、ある時、その父にでさえわからないと答えさせた質問をした(どんなことを質問したのかあまりにも記憶という仕組みと現象が曖昧になり過ぎて思い出すという行為ができない)ことがあったのだが、あの時その答えを聞いたとたん、泣き出してしまった。極限の恐怖とまではいえないのかもしれないが、何かの中に浮いているらしいこの場所で、誰よりも全てをわかっていると思っていた父にでさえわからないことがあると知った瞬間、異質認定どころではなくなり、もう全て終わった、世界は終わってしまった、自分はどこにいてなんの意味があるのか全くわからなくなってしまった、怖い、怖い、怖い、何もわからないなんて、それが当たり前だなんて、人間には限界があるなんて、なんでそんな事を、そんな恐怖を、この父は、自分の親であるのに、たかだが10年生きたかどうかぐらいの自分の子どもという記号、ラベルのついたものに、答えてしまえるのだろう。いったい、ここはどこなのだ?自分な何なのだ?みんな怖くないのか?怖い怖い怖い。わからないことが怖くて仕方がない。

あの瞬間、自分にとっての世界は終わったと、今でも感じている。はて、世界とはなんだ?

その後、もう何十年以上も、人間には限界があって、わからないことはわからないままでも良い、という折り合いを付けて、ほかの人間との間の異質認定さえ受け入れて、それが当たり前で常識でパラダイムであるを受け容れて生きてきた。意味もわからず、理由だけ作ったり見つけたりして生きてきた。

だから結局、生きている意味がわからない。わからないことは恐怖だ。なんなんだこれは?

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