山から学ぶことは生涯終わらない。

日本の崇高な山岳信仰がどのようなものか
詳しくはないし、宗教的な学は皆無だが
自分が生まれてから死ぬまでの限られた時間の中で
一生涯変わらずに在り続けるものはほとんどない。
世の中に蠢めく全ての現象は常に変化し続けている。
特にこの機械化工業化の時代の科学技術の進歩は
私たち日本人の暮らしを大きく変化を与え続けてきた。
ウインドウズ95からパソコンが一般化し
パカパカ携帯電話からスマホになり
インターネットの科学技術は暮らしを大きく変えた。
80年代までは「テレパシー」と呼ばれていた能力は
ほとんどの人々がテクノロジーによって使えるようになり
映像や音声もスマホでタッチひとつで記録できて
配信することができる。
そんな風に世の中の暮らしは変わり続けている。
明治大正の時代に創造された近代的な暮らしは
寿命は長くても60年
江戸時代に生まれた人が江戸時代に学び
時代は移り変わり明治の日本帝国となり
大正時代を経て昭和へ変化していく
社会だけが変化しているのではなく
肉体も精神も、子供からやがて青年となり
父親なり母親となり、やがて孫ができと
暮らしも常々変化し続けている。

この目が回るくらい変化し続ける暮らしの中で
一体何を信じたらいいのかわからなくなった時に
宗教のような道徳的な精神の基準にすがりたくなる
気持ちはわからなくない。
しかし、私は生まれてから死ぬまでほとんど変化しないものを知っている。
それは山の稜線である。
幼い頃から、やがて歳を重ねて、死に際になる時まで
草木や川の流れや形や道路が変化したとしても
山の稜線が変わるのはよっぽどのことである。

場所によってはソーラーパネルになったり
巨大な風力発電の風車が立ったり
リニアモーターカーや新幹線や高速道路ができたとしても
トンネルができたり、橋がかかることがあっても
山の一部が変わっても、全部変わることはない。

島国日本に住んでいると、離島の人も山の人も
日は水平線か山の稜線から登り
水平線か山の稜線に日が暮れていく。
毎日山に行っても同じ表情を見せることはなく
霧がかかっていたり、晴れたり曇ったり春夏秋冬で表情が違う
しかし、山全体の形は大きく変わらないのである。
そのような動かない基準を精神の中心に据えるのは
悪いことではないような気がしています。

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