老害化する私 その2

そういえばもうひとつ感じる自分の中の老害がある。
若者と話すと話が長くなってしまう問題である。
ただただ若者と話す機会がないもので
コンビニや受付や窓口やコールセンターなど
他人の話を聞こう聴こうとしてくれるような
職業に就かれている皆さんの
職業がら親切に他人の話を話しを聴こうとしてくる営業トークが
嬉しくなってついつい時間も忘れて話しこんでしまう。
仕舞いには、営業さんということやレジのお姉さんということも忘れて
まるで息子娘のような言い草となり、
「あなたのことを心配して言ってあげているのよ」と言わんばかりの
かなり圧倒的な上から目線で忠告のような説教のような話になっていく。
そして、職業を無視し、何も買わないで帰るのである。
拘束時間が長かろうがお構いなしである。
これを老害と言わずしてなんと言おうか。
私の老化は誰にも止めることはできない。
もうとっくの昔に死期は過ぎに過ぎている。
早く骨と灰になってしまった方が説教の100億倍世のためになりそうだ。
しかし、のうのうと太々しくも生き残り
これから未来を支えるであろう若者を捕まえて
なんのためにもならないであろう
誰にもわかりきった当たり前の説教を始めるのである。

若者の時間は死に損ないのじじいと比べるとそれくらい価値がある。
50年生きたじじいの1時間とまだ10歳の少年の1時間は
どれくらい有効に使い感受し考え、感動し、きらめいたり
泣き、悲しみ、落胆し、悩み、苦しみ、我慢し、
大きな感動を創造して生きているだろうか。
それと比べるとじじいの死ぬべきだった人生の価値たるや
なんの感動もないまま1年10年あっという間に消費していくだけである。
これをまだ若いこれからキラキラした人生を生きる若者に伝えたいのだが
その話も長くなってしまい、若者の時間を奪ってしまうのである。
そんなジレンマの狭間で悶々と老害を発揮しながら今日も生きています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?