見出し画像

水戸射爆撃場の歴史10

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

射爆撃場返還の実現

基地をめぐる情勢変化

ベトナム戦争でアメリカが軍事的にも政治的にもいきづまった1969年はじめ、ニクソンが大統領に就任した。ベトナム戦争の終結という任務を負ったニクソン大統領は、7月、東南アジア訪問の途中、グアム島でアメリカの新しいアジア戦略構想を発表した。いわゆるニクソン・ドクトリンと呼ばれるものである。その骨子のうち重要なものは、アメリカはアジア諸国との安全保障条約上の義務は引きつづいて果たしていくが、核による脅戒をのぞく地域内の軍事的脅威については、アジア諸国がみずからこれを処理し、責任をもっていくよう奨励する、というものであった。具体的には、戦術的軍事力に関しては自衛隊による在日米軍のほぼ全面的肩がわり、したがって在日米軍基地の統合整理が進められることになった。
 こうした情勢のもとで、1970年9月25日、グラハム在日米軍司令官から防衛庁に対し、1971年1月1日以降米軍の射爆撃演習を中止するという通告があった。射爆撃場返還の最大の問題点である代替地問題が自然消滅となる可能性が生じ、返還運動の前途に明るい希望があらわわれたかに思われた。

射爆撃場の自衛隊肩がわり構想

1970年10月5日、中曽根康弘防衛庁長官と会見したが、その席上で「射爆撃場跡地の一部を自衛隊が使用したい」と言明した。具体的な内容は11月26日に明らかにされたが「自衛隊としては自主防衛の立場から、習志野空挺隊の降下訓練場および勝田自衛隊の爆破訓練場として約220万平方メートル程度使用したい」というものであった。この自衛隊による跡地利用構想は地元に大きな衝撃を与えた。
 10月2日、馬渡、長砂地区の住民450人は馬渡公民館で集会を開き「防衛庁長官はこの跡地を自衛隊が使用する計画があるとか言っているが、これでは今日までの返還運動の意味を失う」として地元への完全返還、跡地利用に地元の意向尊重の二項目を決議した。集会後450人全員が市、県、水戸防衛施設事務所におもむき、決議を手渡して申入れをおこなった。この段階では、市長は「防衛庁としては、水戸射爆劇場の跡地を自衛隊が使用することはないと言明して来たので、まさかこの言明を裏切るようなことはないと思っている」と答え、住民の素早い反応をむしろなだめる態度を示した。
 それだけに11月26日に自衛隊の跡地利用の具体的構想が明らかになったことは、市にとって大きな衝撃であった。
 12月18日、市議会は跡地の自衛隊使用反対を決議し、併行して水戸射爆劇場返還再処理工場反対勝田市本部は「射爆劇場全面返還・跡地の平和利用要求署名」運動を開始した。署名は、1971年2月22日現在で2万8290に達した。
 この署名は2月25日に防衛庁長官・総理大臣あてに提出されたが、このとき、市長は防衛施設庁長官に対して「地元の自衛隊勝田駐とん地からも、わたしに対して正式に跡地を爆破訓練場として継続して使用したいとの要請があった」ことを明らかにし「中曾根長官が言明してきたことと矛盾する」ことを指摘した。
 これに対し、防衛施設庁長官は「水戸射爆劇場の返還は中曾根さんが自衛隊の自主管理を強く米側に要求したところから出発している」「跡地利用については自衛隊として使用したいという考えをもっている。」と言明した。
当時の発表では閣議の席上での口答による了解であったので、勝田市はこれを「閣議了解」にすぎないと見なした。県が政府に照会の結果「政府の方針として異議なく了承し決定されたもの」という回答があり、この回答によって県はこれを閣議決定であると解して、再処理工場設置を認めるに至った問題の決定であった。
 地元の返還運動は、この閣議決定を発表文どおりに受けとり、閣議決定の実現をせまる運動として進められてきた。閣議決定の期限もせまった1972年になって、その閣議の記録に米軍が自衛隊による肩がわりに関心を示しているとあることが明らかにされた。県や市を欺くためのものであったといわれてもしかたないであろう。ただ、江崎長官のこの発言は「地元の意向にそうよう誠意をもって努力する」という結論であり、むしろ公表されなかった記録の拘束を受けない方向に力点が置かれていたので、この問題は重大化せずにすんだが、事実としては重大な政治問題に発展しかねない問題をはらんでいた。

跡地平和利用の構想

 返還後の跡地を自衛隊が使用する構想が政府から出てきたとき、県推進本部長である知事は「自術隊使用以外に国家的な跡地利用計画がクローズアップされれば、問題が有利に展開すると考えている」という考え方を明らかにした。知事のこの考え方にもとづいて、県と二市一村の首長は、1970年12月26日、跡地利用として流通港湾の建設について、関係各省庁に要望善を提出した。
 1971年5月4日、市長は馬渡、長砂住民によびかけ「射爆劇場の跡地利用について」懇談会を開いた。席上、住民から出た質問は、「流通港湾という跡地利用構想は、仮定のもの、自衛隊の跡地利用についての対策上すすめているという感じを抱くがどうなのか」「跡地利用については、返還のあり方と関係するので、政府へ返すということではなく、地元へ返すように返還運動を重点的に組むべきではないか」「流通港湾という跡地利用のし方は、大企業本位の計画ではないか。鹿島も地元住民のためといわれながら、結局は大企業が有利となった。射爆劇場をまず地元に返し跡地利用は地元民本位にやるべきではないか」という種類のものであった。
 6月10日に開かれた県推進本部総会でも、県議会議貝の一部から「流通港湾は、自衛隊使用を阻止するためのテクニック上の問題にすぎないのではないか」「政治折衝の技術上の問題にながされ、流通港湾で射爆撃場返還という方向に逸脱しているのではないか」という疑問が提出された。県推進本部が跡地利用にのめりこみ、返還運動から焦点がずれていることへの批判であった。運動方針は、勝田市長の提案によって自衛隊の跡地使用阻止が加えられ、跡地利用問題は、返還運動とは別に県射爆劇場跡地研究協議会のもとに移された。同協議会は1971年1月7日、市の水戸射爆劇場跡地利用審議会に利用計画構想を提示した。ほとんど緑地を残さない全面開発の構想であった。

水戸射爆撃場

射爆撃場の全面返還実現

1971年9月17日、水戸射爆劇場返還・再処理工場反対勝田市本部は常任委員会を開き、運動の中心を「全面返還による跡地の平和利用」にしぼり、市民大会へと運動を盛りあげていくことを決定した。市民大会の前提として、団体や地域ごとに集会を持ち、全市民的な運動を展開するという方針がとられた。射爆撃場隣接の馬渡・長砂地区中心ではなく、広く全市の住民の結集をめざしたものであった。10月16日、射爆撃場からもっともはなれた津田地区集会が市内で最初の市民大会アピールを発表した。
県民大会は「水戸射爆劇場の即時全面返還を実現せよ」のスローガン一本で開かれた。大会参加者1万3000人、勝田市から1500人が参加した。参加した長砂・馬渡地区の住民の声に示されるように、跡地利用の具体的構想を大会スローガンにかかげることは、返還運動に混乱をもたらしたであろう。すなわち、長砂・馬渡の住民たちは「地元としては跡地利用について意志を統一し、地元住民の立場に立った真の平和利用を実現すべきだ」「跡地利用も住民の生活環境を破壊する公害などのない平和利用を考えてほしい」「地元住民に相談してほしい。まるっきり流通港湾というような案はこまる」「跡地利用で政府や大企業に都合のいいような案を調整してそれがまとまる時期を待っているのではないか」「跡地利用についても地元として一度も話し合っていないのではないか。そうした中で流通港湾というようなことになるのでは納得できない」と、一様に跡地利用は地元住民の意向を聞いてこれから考えるべきであると主張していた。
 閣議決定満3年を翌日に控えた9月8日、閣議後の記者会見で、増原恵・防衛庁長官は「水戸射爆撃場を自衛隊が利用する計画は取りやめた。年度内に地元に返還されるよう米軍と交渉する」と言明した。中曽根康弘科学技術庁長官が「水戸射爆撃場に隣接する動力炉・核燃料開発事業団のウラン再処理工場がほほ完成、射爆撃場の返還を待って操業する予定なので、早期返還に努力してほしい」と要請したのであった。再処理工場稼動のために射爆撃場返還か、自衛隊による使用を地元に認めさせるために返還を引きのばして再処理工場稼動を延期するかという政治判断にせまられ、中曾根科学技術庁長官は返還要請の立場を選択したのであった。
 この日は、県民大会の決議をたずさえ防衛庁長官と会見するために知事が上京していた。閣議後に防衛庁長官と会見した知事は、1973年3月31日までに返還という確約を得た。
 1973年1月23日の日米安保協議委員会において射爆撃場の日本政府への返還が正式に決定された。問題は米軍管理下で自衛隊が爆破訓練場として使用しているという既成事実をどう処理するかであったが、3年間という期限つきで継続使用を認めた。なお、この暫定使用期限満了後自衛隊は使用を中止した。

 1973年3月15日午後1時、射爆撃場返還式が射爆撃場正門近くの広場で行われた。知事、市長らが参列し、米軍代表と水戸防衛施設事務所長が返還書類に署名し、続いて水戸防衛施設事務所長から国有地の大蔵省水戸財務部、魚付林の水戸営林署への管理の授受が行われた。その後、米軍兵士の手で星条旗が下された。戦後28年近くたって、勝田市はやっと戦時中そのままの空襲の恐怖から解放され、勝田の「戦後」は終った。
以上。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?