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水戸射爆撃場の歴史9

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

返還連動の展開

八・一六県民大会へ

 5月11日の集団的な中央陳情を画期として返還運動の大衆運動化が促進された。ひとつは7月22日に開始された射爆撃場返還促進署名運動であり、もうひとつは8月16日に阿字ヶ浦海岸で開催された水戸射爆撃場返還促進県民大会であった。両者とも県の返還推進本部の方針にもとづいて計画が進められた。署名は、全市で2万214人に達し、市内有権者数の74%にあたる。県民大会は、7月30日に米軍が土曜日曜も演習をおこなうと通知してきたことから盛り上がりをみせ、約6000人が参加した。市からは1720人が参加した。決議は、次の4項目であった。
①F105D機の飛来中止
②誤射事故原因の徹底的究明と公表
③水戸対地射爆撃場の即時返還
④射爆撃場周辺地区への再処理工場その他原子力施設の新増設禁止
 返還運動の大衆運動化に伴い、射爆撃場問題は在日米軍基地問題に発展するきざしを示しはじめた。
 戦時中に大きな面積の山林を軍によって強制的に買・上げられ、その土地がそのまま米軍射爆撃場として引きつがれ、そのために学童であった義妹が射殺され、自分の家にも模擬爆弾が落ちてあやうく生命を失うところであったという、この青年農民は、まさに射爆撃場周辺住民の運命を一身に担った存在であった。この青年が安保条約反対を主張するのも当然であった。
 市長を先頭とした市ぐるみの返還運動として必然的に守らなければならない政治的限界と、大衆運動化にともなう運動の政治化とのバランスをとるという困難な条件が運動に生じた。具体的には、代替地への移転による返還か、即時返還かという表現の違いとなってあらわれる。運動は、これ以後この二つの表現の間をゆれつづける。

誤爆された模擬弾

 1964年7月20日、F105D戦闘爆撃機が水戸射爆撃場で演習を開始した。ふたたび演習機による事故が生じはじめた。1965年1月5日、F105Dによる初めての事故が起こった。三反田における模擬爆弾誤投下である。民家からわずか65m、三反田小学校のすぐ近くに落ちた。F105Dによる初の誤投下が射爆撃場周辺地区ではなく、射爆撃場からはるかに離れた三反田であったことは住民に大きな衝撃を与えた。大型化し、高速化したF105Dによる事故圈はいっきょに拡大し、事故被害が広域化するのではないかという危惧が現実化したからである。返還運動に積極性を示す地域圏が広がった。
 続いて、4月5日、これまた射爆撃場からはなれた中根に模擬爆弾が落下した。落下地点は民家から30メートルしか離れていず、しかも周辺は炭鉱離職者アパートなどが建っている住宅地であった。市は、市長以下が上京、米軍など関係機関に抗議するという強い行動をとった。
 ここでは、従来の陳情という形式での行政ルートをつうじての折衝の枠をはみだし、自治体行政の長としての市長の意志表示というよりも、自治体住民の意志の代表者としての要求という性格が示されている。しかし、実際の抗議の場では、代替地問題を含めての移転返還をめぐる交渉となった。
 1965年9月23日、馬渡で民家3軒に機関砲弾が射ちこまれるという大事故が起こり、被害者の中から「ここだけが、いつまでも戦争中の空襲と同じような目にあわなければならない理由はないはずだ。代替地の問題ではない」「今までの返還運動はなまぬるい感さえする」と批判がでてきたとき、自治体は自治体の責任について自ら改めて問い直されなければならなかった。
 ここにおいて、行政機関であるとともに住民意志の代表機関であるという自治体の二面性が持つ矛盾を、自治体行政の本旨が「住民の安全健康福祉を保持すること」にあるという原則に立ち返ることによって解決する、という方向が示された。

石川プールで行われた市民大会

核燃料再処理施設問題

東海村の原子燃料公社の敷地内に原子燃料再処理工場を建設する計画が明らかにされたのは、39年末であった。射爆撃場の隣接地である。この計画は、将来の射爆撃場返還を見こし、その跡地を東海村の日本原子力研究所東海研究所から連続した原子力地帯とするための原子力地帯整備計画と一体の関係を形作っていた。
 4月1日、衆議院科学技術振興対策特別委員会に参考人として出席した市長は、射爆撃場返還、原子力施設地帯整備計画反対、再処理工場設置反対、原子力新設手続に関する提案の意見をのべた。「勝田市民は、永年にわたる犠牲を強いられた代償として、射爆劇場返還後の利用構想については、地域開発のため大きな発言権を留保するものと考えており、(中略)返還後も引続き周辺住民の生活に重大な規制を及ぼす構想については断じて容認し得ない」という態度を明らかにした。

松野・プレストン共同発表

 1966年4月30日、馬渡、長砂地区の住民大会が開かれた。「現地民の全く自然発生的な現地大会がそれで、従来のような県・市に代表され、かつそのリードのもとに行ってきたものとは異なり」と伝えられたこの集会に、約500人の地元民が参加した。
 5月7日に、茨城県庁構内で3000人規模の「水戸射爆撃場返還県民大会」が開かれた。
 こうしたなかで、6月27日、松野頼三防衛庁長官とプレストン在日米軍司令官との合意についての共同発表が行われた。
 この共同発表以後、運動は、住民のこうした複雑な感情を反映して、新島移転実現への期待、跡地がなお投下演習場として使われることへの不安、演習継続と移転の目途がたたないことへの反発とが、その時どきの情勢の動きに応じて、いずれかの側面を強く表現するというかたちで進展する。すなわち、誤射・誤投下の事故が発生するたびに反発の側面が強く表現され、防衛施設庁による「新島移転建設計画」が発表(1968年4月10日)されると期待感が強まる、という動きを示す。
 1969年6月22日、各新聞は「新島移転は断念か」との記事をいっせいにかかげた。7月9日の日米安全保障協議委員会で防衛庁は事実上の新島移転断念を米軍に通告した。代替地への移転問題は白紙にもどった。
 他方、政府は原子燃料再処理工場の着工を急いでいた。地元の要求に押され、県は射爆撃場と再処理工場の「併設反対」を方針としていた。こうした局面を打開するために、政府は9月9日、移転先の目途もつかないままに、次のような閣議了解をおこなった。
「水戸対地射爆撃場の移転の方針を再確認し、3年ないし4年のうちに、これを実現する。移転先については新島に固執しない」。

水戸射爆劇場返還・再処理工場反対勝田市本部

1966年12月の市長選挙で市長が川又敏推に交代した。
 1967年統一地方選挙後に開かれた市議会六月定例会は、改めて再処理工場設置反対を決議し、原子燃料再処理工場対策特別委員会および水戸射爆撃場対策特別委員会(ともに委貝数15)を設置した。
「長いあいだ射爆撃場で苦しみ、現在その代替地が問題の焦点となっているこの地域を初めからただ一つの候補地として」押付けようとする「当事者の便宜主義」を指摘していた。
 こうした強い表現にみられるように「中央のペースに順応しようとする県」に対する、事実上の「市独自の」行動をとることの態度表明であった。

再処理工場反対運動の高揚

1968年10月6日、市内石川町市営プールわき広場で市民大会が開かれた。一般市民、地区労協、商工会、腴協、婦人会、青年団、消防団、市民憲章推進協議会などの各団体から、5000人が参加した。当時の市の人口約6万、世帯数約1万3400という規模の自治体の市民大会としては大集会であった。併行して進められていた署名運動も10月11日現在で2万5000を越え、最終的には全有権者数3万8716人に迫る見通しがたった。
 10月16日、本部長以下150人の代表は市民大会決議と2万6000余の署名をたずさえて上京し、内閣総理大臣以下関係各庁、動燃に対し、射爆撃場即時返還、再処理工場の東海村設置反対を申し入れた。

「閣議了解」をめぐる県と市

 1969年9月9日の「閣議了解」は運動に決定的な影響を及ぼした。「閣議了解」それ自体は射爆撃場の返還を保障する閣議決定というものとは程遠い内容のものであった。政府がなお返還の具体的目途がつかず、しかも再処理工場の設置を急いでいるという解決しがたい矛盾を当面切りぬけるための、窮余の一策という面が強かった。
 「閣議了解」について「再処理の大きな障害になっていた射爆撃場問題が解決したので、今後地元と話し合い、できるかぎり早く解決したい」と語った。ここに「閣議了解」をもって、現実には射爆撃場返還についての具体的保障はないにもかかわらず、解決ずみの問題として再処理工場設置に進もうとする政府の意図が示されていた。勝田市長はこれに対して「今度の閣議了解は従来の方針を再確認したものにすぎず、返還運動はさらに強力にすすめ、再処理についても反対する。これからが本番である」と語った。
 9月26日、知事は県議会本会議で「射爆撃場問題が閣議決定で解決したので、再処理工場設置に対する反対理由はなくなった。したがって基本的には容認することができる」との態度を明らかにした。一方、これまで再処理工場に条件つき賛成の熊度をとっていた東海村議会は、10月4日の本会議で「水戸射爆劇場の返還が実現しないのに再処理工場を建設するのは併設であり反対」と決議した。しかし、この東海村議会の決議は時期を失していた。10月6日、県議会は「核燃料再処理施設の建設についての意見書」を可決し、政府にとっての「地元」である県の再処理工場設置受入れの態度を決定した。勝田市の運動は孤立した。
 知事の態度表明に対し勝田市議会は10月2日、知事と県議会に対する抗議の決議をおこない、翌3日知事と県会議長に手渡した。しかし、市議会議長以下の代表と知事との会見は物別れに終わった。抗議の決議は次のような内容であった。
「ここ十年来、あいともに手をたずさえ水戸射爆劇場返還運動で苦労をわかち合ってきた知事および県議会に対し、勝田市議会は、従来の立場を堅持し知事および県議会に強く抗議するものである。」
 この抗議にもかかわらず、県議会が10月6日に再処理工場受入れを決定すると、市議会もまた動揺した。

運動の方針転換

県の態度決定を受けて政府の態度は強気となった。市議会再処理工場対策特別委員会は10月8日に科学技術庁に要請行動をおこなったが、このとき、同庁事務次官は「再処理工場が建設され操業時点で水戸射爆劇場が返還されなかった場合でも工場の操業をストップさせることはできない」と言明した。これは、県がぎりぎりの条件としている併設反対という条件に反するものであった。
勝田市の方針転換により7項目の条件を前提とし地元は再処理工場の条件つき受入れを認めることになった。
…続く

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