見出し画像

十五郎穴と虎塚古墳の名前の由来

その昔、十五郎穴は「十郎岩屋」と書かれていて、虎塚古墳は「とらヵ塚」と記されている。
十五郎穴の名前の由来は「鎌倉時代初期の曽我兄弟(五郎と十郎)が住んでいたという伝承から付けられたのですが、さらに深く考察された記事が「勝田市の歴史」に書かれていました。

「水府志料」には、中根の十五郎穴について「昔曾我五郎、十郎火の雨を避てかくれし所なりと申伝ふ。其上の山にとらか塚といふ有り」と記している。伝説では十五郎穴に曾我十郎、五郎がかくれ住んでいたときに、虎御前がたずねてきて、この地で死に葬ったのが虎塚だといわれている。
 十五郎穴周辺の地に曾我十郎、五郎と虎御前の伝説が残っているのは、これらの人物の登場する「夜討曾我」「和田酒盛」「十番切」などが中根城内で演じられたことを物語る。中根城の武士たちは、若くして無惨な最期をとげた曾我兄弟の姿に、戦乱の世の明日の我が身の運命をみたにちがいない。そこで古代からの墓地である横穴の一つに十郎、五郎の霊を祀って供養したことが考えられる。とくに弟の「五郎」の名は、鎌倉権五郎と同じように「御霊」と通じ、御霊神として祀られやすかったのである。
 また十郎、五郎が火の雨を避けて横穴にかくれたという伝えがあるが、曾我兄弟の敵討は建久4年(1193)5月28日の激しい雷雨の夜におきている。五月の季節には疫病、水害などの災厄がおこりやすかったので、曾我兄弟の「御霊」を祀り鎮めて、災厄をさけようとする思想があったのかも知れない。
 以上の推測を裏づける事実がある。「水府志料」には、横穴に梵字などを彫ったものがあるとしているが、昭和17年8月に十五郎穴を調査した石井周作は、第九号横穴の奥壁中央に五字の梵字と左右に各一字の梵字が彫ってある。また奥壁左上の方に「天」の字と、右側に「五郎」の二字が彫ってあり、梵字と天の字と五郎の二字は同一時代のものだと報告している。これらの文字は現在は崩れてみえないが、彼の報告の梵字は「アビラウンケン」と判読でき、「大日如来応身真言」を意味する呪文である。「五郎」は曾我五郎をさし、この横穴に五郎の「御霊」を祀り、その霊を鎮めるために「アビラウンケン」の梵字が彫られていたのである。
 石井周作は梵字の文字の彫り方は薬研彫りで、書体と彫り方からみて藤原期のものであり、なんのために彫られたか明らかでないとしている。石井説は誤りで「五郎」などの文字と「アビラウンケン」の梵字が彫られたのは戦国時代である。幸若舞の「夜討曾我」「和田酒盛」「十番切」などの上演に感動した中根城や周辺に居住していた武士たちによって、曾我兄弟と虎御前の霊が横穴や古墳に祀られたのである。

勝田市の歴史
9号墓に書かれていたという梵字

名称が付けられたのは、中根の地において”幸若舞”で「夜討曾我」が演じられたことが元になって、供養のために名付けたというのは興味深く、「火の雨を避てかくれし所なり」が史実に符合している(史実では雨は降っていないようですが)というのもおもしろい。

善光寺界隈にある虎が塚

「とらヵ塚」の名称についても、善光寺界隈にも「虎が塚」があるようです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?