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水戸射爆撃場の歴史8

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

返還運動の開始

基地対策委貝会の設置

 1960年5月19日、改定された日米安全保障条約を衆議院で与党の自由民主党が単独採決を強行した。この日から1か月間にわたって、戦後の日本の歴史のなかで最大といってもよい規模の政治的激動がはじまった。いわゆる60年安保圈争である。
 国民の関心が東京を中心とする安保闘争に集中し、ニュースも安保一色にぬりつぶされた5月25日、勝田市に基地対策委員会が設置された。委員は7名であった。
 すでに茨城県では、31年、東海村の射爆撃場隣接地に日本原子力研究所、原子燃料公社(のち動力炉核燃料開発事業団(動燃)の諸施設設置が決定するとき、射爆撃場の一部返還を申請したが拒否された。県はその後、多発する誤投下事故に対して、33年3月に返還を要望し、1959年4月にはジョンソン基地司令官に対して事故絶滅のための原因探求と調査期間中の演習中止を申し入れた。その結果、米軍は陸地より322キロの海上に標的を設置することになったが、漁民の反対をうけ、陸地より1.6キロの海上に位置を変更して設置し、7月より爆撃訓練を再開した。これ以後、誤投下事故は減少した。この間、東海村にコールダーホール改良型原子炉による発電所設置計画が進められるに及んで、原子炉の安全確保のために射爆撃場の接収解除が必要であるとして、関係省庁や国会への働きかけが行われた。その結果、34年12月9日の日米合同委員会で、三項目の取決めが調印された。三項目は、①実爆弾および実弾ロケットは使用しない②標的の移動は今後とも東海村に近づけない③標的に対する進入方向と射爆撃後の旋回方向を限定し、原子力関係施設の上空と近接地域は飛行しない、というものであった。
 こうした動きをうけて設置された勝田市基地対策委貝会は、6月3日に委員会を開き、7日に射爆撃場を視察し、那珂湊市・東海村と意見を交換し、9月28日には基地返還についての陳情方法について協議するなど、活動を開始した。
 基地対策委員会は市議会の決議によって設置されたが、市議会の特別委員会ではなく、市議会議員を中心とする市長の諮問機関であった。その点では、返還運動を単なる市議会の枠の中に閉じこめないように配慮されていたが、運動を推進する組織としてはその位置づけは十分ではなかったといえよう。
 この間、1960年10月19日、市長・市会議長・基地対策委員会が防衛庁・調達庁・科学技術庁・外務省に返還陳情、1961年1月26日に科学技術庁長官来県を迎えて返還その他の陳情をおこなった。2月20日に起こった那珂湊への機関砲?落下事故に対して、那阿湊市とともに中央陳情をおこない、12月13日には初めて首相に返還陳情をおこなった。12月22日に、茨城県水戸対地射爆撃場返還推進本部が設置された。
 この段階で、返還への動きは、なお行政主導のもとにあったが市民運動的性格を持ちはじめた。37年4月17日、勝田市連絡区長会総会が「水戸対地射爆撃場返還運動の一環として署名運動を展開することを決めたあと、関連して安市長から原水爆禁止勝田市協議会の趣旨説明がありました」。決定は満場一致であった。返還署名運動開始の決定が原水爆禁止運動との関連でとらえられていることが注目される。
 1962年9月25日、USAF戦闘機からの薬きょう落下事故により、馬渡の民家が損傷をうけた。基地対策委員会は、27日調達庁水戸調達事務所に抗議し、翌28日米軍府中基地および横田基地に抗議した。10月8日、中央陳情をおこない、自民党基地対策委員長、調達庁長官、東京調達局長に対し、この事故について抗議するとともに、緊急保安対策、返還促進について陳情した。陳情という行政上の線に即した行動から一歩踏みだして、抗議という住民と行政との関係に即した行動を採用しはじめた点で、運動は第一の画期を迎えたといえよう。
 1963年1月24日、前渡農業協同組合事務所に25ポンド模擬爆弾が落下、爆弾は屋根をつらぬいて、地下4mに達した。好運にも死傷者は出なかったが、大変な事故であった。基地対策委員会は府中の在日米軍基地などに抗議するとともに、演習の中止を申し入れた。

F105D

F105D演習開始

 返還運動に大きな刺激を与えたのはF105D戦闘爆撃機の横田基地配属であった。最大速度マッハ2.2、全長20メートルという従来のジェット戦闘機の常識をこえる速度と大きさを持ち、自動航法・火器管制装置によって管制された20ミリ機関砲、サイドワインダー、ブルパッグ275インチロケットを装備したこの新鋭機の特徴は、何よりも水爆搭載可能な戦闘爆撃機であることであった。
 このような性能をもったジェット機の射爆撃演習場としては、水戸射爆撃場はあまりに狭すぎた。従来を上まわる事故の多発と被害の広域化が予測された。1964年1月9日、米車はF105Dの射爆撃演習に水戸射爆撃場を使用することになったから了解されたい、と申し入れてきた。
 基地対策委員会の二重性がもつ矛盾があらわれてきた。抗議という行動の採用も、国家行政に対して自治体行政の意志を代行するという限りで行われたものといえよう。
 他方、市議会は、大衆運動化のための直接の足がかりとなる手段を持っていなかった。したがって、結論的には基地対策委貝会の拡大強化という方針に落着かざるをえなかった。このような返還運動における自治体行政優位の体制は、自治体行政がどんなかたちで運動の壁をつき破っていくかという方向づけに、運動の方針を依存させることになる。この方向づけを左右した問題が、代替地問題と原子燃料再処理工場設置問題とであった。
 代替地問題については、 5月1日、防衛庁長官は伊豆御蔵島が地理的・気象的条件から適当でないので射爆撃場代替地の候補からはずす、と発表した。この発表は運動に深刻な衝撃を与えた。
「今までのような生ぬるい返還運動では水戸射爆劇場は返えしてもらえないのではないかと思わざるを得ない深刻な事態につき当ったわけです。したがって、今までの返還運動のあり方を再検討し、重大な決意をもってあたるべきだという意見が強く各委員から出されました。また防衛庁長官発表の評価についても「政府は御蔵島内定のニュースを流して返還運動のもりあがりを防ぎ、時をかせいだ」として政府当局に対して反省をせまる意見が表明されました。特に防衛庁長官の発表が地理的、気象的条件のために御蔵島不適当ということだけに、そうしたものは最初からわかっていたはずで、いまさらそれを理由にしても候補地から外すことは納得できないという意見が圧倒的でした。」
 結局「いままでの陳情から一歩前進してタスキ、ハチマキを用意することが検討」され「陳情の際の政府関係当局との面会についてもいままでのように代表者だけの面会はしないで、陳情者全員との面会を実現し、地元民の生の声を直接政府関係当局に聞いてもらうことが確認され」た。
 同じ陳情といっても、行政陳情型から住民要求型へ、代表陳情型から集団交渉型への運動の方針転換であった。こうして、返還運動は大衆運動化への道に踏みきった。11日、バス2台をつらねて馬渡・長砂地区住民約100人が中央陳情に参加した。
…続く

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