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躊躇わず、好きだと言いたい

こんなに気持ちよかったのかな。こんなに幸せなものだったのかな。私は、3年ぶりに人肌というぬくもりに触れた。色々なことが初めてすぎたのに、信じられないくらい幸せを感じてしまった自分がいて、今まで全く微動だにしない扉がここにきて開く音を聞いてしまった。

まるで何もなかった間、私は20代にさよならをして、30代になっていた。去年の誕生日、当時の彼に「tea(私の名前)さん、1年どうでしたか」みたいな事を聞かれたと思う。その時、何と返事をしたのかもうすっかり忘れてしまったけれど、今でもはっきり覚えているのは「この1年間、何もなかった、この先1年もまた何もないまま終わるのかな、それだけは嫌だな」と絶望に近しい感覚だった。

今思えば、セックスの話がタブーだった。お互いにそういう話について全然話すことができなかったし、私がなんとかしたくてレスの話題を出すたびに険悪なムードになった。一度ギクシャクすると、数日もの間会話がなくなるというパターン。毎回、別れる別れないの話。

彼は私を異性として見れなくなっていたようだったし、私も本当は同じだったのかもしれない。そんな状況で、レスを解消しようなんて無理だったんだなと思う。

そう考えると、"何でも気兼ねなく話せる"というのは絶対的な価値であって、それが出来ているのであればほぼ必然的に上手くいくんじゃないかと思った。

確かに、当時、"彼とは何でも話せる"と思っている私もいたけれど、それは「ナイトライフ以外の話題については」という但し書き付きだった。そこを見て見ぬフリをしていた。情けないけれど、その現実を直視できるほどの強さと正直さはなかった。

「性癖含め、何を話しても否定されない」

心理的安全性という言葉が知られるようになってからそれなりの時間が経つけれど、結局セックスってコミュニケーションの究極的なものであって、そこにはやっぱり"否定されない"、"受容されている"という感覚が絶対的に必要なんだと思う。

今までの私であれば「こんな事を言ったら嫌われる」「こんな事が好きだと言ったら変人扱いされる」という恐れから自分の気持ちを抑えたり、言葉として伝えることを諦めたりしてしまっていた。だけど、それを言ったら否定されるどころか喜ばれるという状況であれば、どんどん自分を解放して、素直に行動できるようになる。もはや昔の私には戻れなくなってしまった私がここにいる。

世の中のカップルはどこまで話ができているんだろう。かつての私のような人だらけなんじゃないか。嫌われること、疎まれることを恐れて本音をそのまま言えない人はいっぱいいるんじゃないか。本当は積極的になりたいけれど、それはダメだと無意識的に抑えている人もいっぱいいるんじゃないか。

私自身、今も自分の女性性を疑いたくなる瞬間に襲われる。私なんかがこんな事を言って大丈夫なんだろうか、もっと可愛くなければ、もっと綺麗でなければ言う資格なんてないんじゃないか、そう思う時もある。

でも、それは自分が自分を苦しめているだけのことで、現実はそうではないということをもっと受け取りたい。幸いにも、私のことを好きでいてくれているという確信を持てているから。

扉が開いてしまったから、もう、元には戻れない。真面目に、そして、純粋にセックスが好きだと私は言いたい。まだ大々的に言えないけれど、せめても、ここでひっそりと叫びたい。今日は獅子座新月だから、それに乗っかりたい。そして、大真面目に"もっと楽しくて幸せなものだ"という認識へ変えていきたい。

私はもっと、セックスがしたい。

愛される実感を求めることよりも、愛していることを与えたい、与えきりたい、喜んでもらいたい、受け取ってもらいたいと思っている自分がいる。喜んでくれるのなら、自分ができる範囲で何でもしたい。

私がレスでずっと苦しかったのは、愛されているという実感を得られなかったからではなく、自分が与えたいと思っていることが相手に受け入れてもらえないこと、私の思いが届かないことだったのだと、痛いほど思い知らされた。

私はもっと、与えたい人だった。

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