適度にチャラい人が受かる,大事にされる


学生時に,やたら現場の教師に牙をむく講師や教授というのが一定数いた。教師も暇じゃないので,そういう研究者に対しては概ね,話を合わせて流してるだけだと思うのだが,

この手の研究者は「やりこめてやったで武勇伝」を嬉々として話すことが多かった。そして半期の講義を真面目に聴いてみると,そのタイプはどうやら若かりし頃に教員採用試験に何度も落ちていたことがわかってくる。

本人にはそんなつもりはないのだろうけど,何かの拍子に現職教員をいじめることでリベンジしてるんだろうなあと感じる。

さて,この手の大学教員には割合に「特徴的な癖」があるように思う。悪い意味でだ。要するに不快な仕草である。例えばA国はすごい,B国はダメだという,Aのブランドはすごいけど,Bのブランドはダメだ,のように。思い込みが強いのかもしれない。話し方,考え方も服装も,仕草も不快である。当然ながら本人はそれを「不快である」とは気付いてないようだ。というか自身の興味以外の優先順位は低いし,それを誇りにしてるように思う。

若手教員でおしゃれな人は見たことがない。

おしゃれでなくてもいいが,周囲の感じる不快さに自分でも気づかず,周囲が指摘しても恐らく直すことができないのは問題である。

もちろん本人の中にはちゃんとした理由づけがされるのであろうけど,そんな内心はこちらは推測できないし,する気もない。となると当然ながら何度でも採用試験に落ちるわけだ。講師をしてても学内評価は本人の思うほどは高いものではなかったはずだ。この手のタイプは研究者としては時として優秀になるのかもしれない。その一種の粘着性は,有利になることもある。

しかしながら,教員は学区も選べない。あらゆる子供とあらゆる社会属性に合わせて毎年進化していくしかない。相手がこちらに合わせてくれることは稀である。

つまり柔軟性がいる。ベテラン教師と話すと,若手では「クソ真面目」なタイプが不快である,と言われることが多い。つまり気のきかない人である。おそらく,大学教員になるような人はクソがつくほど真面目であり,それを誇りにしている。けれど現場では,自分で仕事は見つけていかねばならないし,状況に応じて対応は変えなければならない。それを「柔軟性」と呼ぶのだが,そう言う人にとっては「チャラい」と感じるのかもしれないなと思った。

あまりにサボってれば良くないと思うが,チャラいタイプの若手を不快に思うベテランは少ないようだ。

教員採用試験に受かりたいとか,ベテランに大事にされたいと考えている学生や若手は多いと思う。

それならば「適度にチャラい」方がいい。真面目さを取り柄にして喜んでるのは本人だけかもしれない。周囲からしたらストレスになってることもある。これが変わることは努力だとしたら「変わらないことは努力不足である」と思う。

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