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2冊の演劇入門

『演劇入門』というタイトルの本を2冊読んだ

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000146883

https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-721172-6

演劇をやりたいと思ったのは、演劇をやれば他の人になることができて、そうしたら自分の立ち位置が違う視点で見ることができ、生きづらさが軽減するのではないかと思ったから。
そう思うきっかけとなったのは平田オリザさんの著作(『わかりあえないことから』など)やブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で演劇は相手の気持ちを感じ取り、理解しようとし、自分の気持ちを表現するトレーニングと感じたから。

演劇学校で『?』と感じることがいくつかあり、これらの2冊を読んだ。
どちらも文字通り、演劇の作り方が書かれてあり、私が望む概念的なものはほとんどなかったのだが、
オリザさんの『演劇入門』でショックを受けたのが以下の部分。(pp.176-177)

 当時、私がもっとも不思議に感じたのは、「舞台は俳優のものだ」という類の言葉を吐く演出家ほど、逆に稽古場では俳優を抑圧し管理しようとしているという現状だった。また、そういった劇団ほど、劇団内に劇然としたヒエラルキーや年功序列が存在し、そのヒエラルキーが劇団員間の自由な相互批評を不可能にし、集団を硬直させているのだった。
(略)
 現代演劇において、多くの場合、演出家は絶対的な権力を持っている。(略)この絶対的権力がある限り、一般社会で言うような集団の民主化は不可能である。
(略)
 たいていの演出家は、俳優に自分のコンテクスト、イメージを何らかの形で押しつけようとする。(略)最終的には、作品に責任を負う者として、演出家は俳優に自己のイメージを強制するし、自己のイメージに合わない者を排除する。(略)
 およそ、ほとんどの劇団にはこの権力構造が存在するし、俳優は、集団を離脱することでしか、この権力構造から抜け出すことはできない。

演劇はブラックだとよく聞く。最近も劇団でのパワハラモラハラが報道された。
演劇学校の体験と試験での、他の受講生の直角のお辞儀と明瞭なあいさつに少し引いた。
授業でのあいさつ、当番、ゼッケンにも引いた。
私は同調圧力、権力構造に絡み取られること、その強要が嫌いだ。
その匂いを感じ取ったが、気にしなければいい、逃げられるだろう、と授業に参加した。
しかし、有名演出家の特別講義でその違和感が大きく膨らんだ。そして、上記のオリザさんの言葉で確信した。

スタッフに私が特別講義で感じたことを伝えると、共感はしてもらえた。
過去にも同様のことがあり、2日目の欠席者が多かったそうだ。
そのスタッフは演劇業界の状況にも触れ、私が感じたことが正しく、変えていかなければならないとも言った。
しかし、変わっていない。
オリザさんのこの本は1998年発行で20年以上経っている。オリザさんや鴻上さんは演劇界で極めて少数なのだとも。
だから、こうして(きっと)戦略的に発言しているのだとも。

さて、鴻上さんの本。このようなことが書いてありました。

演じるには心を動かさなくてはいけない。心を動かすにはその役を感じる必要がある。その役が自分にはありえなくても、演じるにはその役の背景を理解しようとしなくてはいけない。この過程で人の幅が広がる。
人と深くかかわることが少なくなって、人とのコミュニケーションを円滑にできなくなってきた。演劇は人とのかかわりがないと作りあげられない。演劇教育の中で人とのかかわり方を身に着けることができる。
そのために、演劇の場は安心して自分をさらけ出すことのできる場でないといけない。

そのとおり、と思います。
が、私はそう感じられていない、少なくとも今のところ。
一部の経験者が力を持ち、講師の上意下達によって授業が進んでいると感じている。それに異議を唱える場もなく、方法はあるのかもしれないが。

参加者を十分に知る時間と機会がないままに創作活動に入っている。
それぞれのバックグラウンドはそれぞれが開示し、理解を求めなくてはいけないのか。それらを知るための場づくりがあってもよいのではないか。
気力と体力に余裕を感じられなくなっている。