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Onegin 1

今年の2月に観に行ったロイヤルバレエのオネーギンのパンフレットを読み始めました。

あらすじとCreating a Modern Masterpieceというどうやってオネーギンが作られたか。

オネーギンは1930年生まれのRay Barraというダンサーのために作られた役で、初演後ケガをしてBarraは踊れなくなってしまう。

ジョン・クランコは1952年にチャイコフスキーのオペラ「Lyric Scenes」(サドラーズウェルズオペラ)を観たときにチャイコフスキーのオペラをバレエにしたいと思った。

クランコは1960年にシュトゥットガルトバレエ団に招かれる。Barraは1959年に移籍。ロメオとジュリエットとオネーギンを振り付ける。クランコの振り付けはきっちりと固まっておらず、どう見せたいかを説明したら表現方法はダンサーに自由がある。

クランコがシュトゥットガルトに来た年にシュトゥットガルトオペラはEugene Oneginを上演していて、オペラの有名な曲をバレエに振付ようとした。しかし、理事会がオペラの曲をそのままバレエに使うことに反対し、チャイコフスキーのいろいろな曲をアレンジして使うことになった。

クランコはRoman Tikhomirovのオペラを観て、プーシキンの原作を読むようにキャストに求めた。Barraは原作を十分に読んでおらず、総合リハーサルの後にクランコから家に帰って原作を読むよう言われている。ロメオでもそうだった。

1965年4月13日に幕開けしたオネーギンはおおむね好評だったが、2つのシーンが評判がよくなかった。一つは幕開け直後のオネーギンの叔父の葬式のシーン。ここでオネーギンが叔父の遺産を相続し裕福であることと彼の性格を示すが、バレエに向いておらず、後のシーンに続かないと評された。もうひとつは最後のタチアナとオネーギンのデュエット前にグレーミンが子どもをタチアナの元に連れてくるシーン。子どもが入ってきて出ていく時間が無駄と評された。

もうひとつ、2幕でオネーギンがパーティを無視してテーブルで一人遊びするシーンも初演から変えられて、1967年10月27日に再演されたバージョンが現在も上演されている。

Barraは初演のシーズン中オネーギンを踊ったがその後アキレス腱を痛めて引退した。当時22歳のRicky Cragunがオネーギンを踊れるとはクランコは考えず、しばらくの間オネーギンは上演されなかった。30代のHeinz Claussが入団して上演されるようになったが、Rickyはその後もしばらくオネーギンを踊れなかったのは、この役にはある程度の成熟が必要であるということだ。

1974年8月にシュトゥットガルトバレエ団が初めてのロンドン公演でオネーギンを踊ったときには、クランコがどれだけ素晴らしく、どれだけ愛されていたかを示した。クランコはクラシックバレエにわかりやすい発明を残した。踊りで物語を語ることに長けていて、劇場の使い方のセンスがあると評された。

クランコはロンドン公演の1年前、1973年6月26日にフィラデルフィアからシュトゥットガルトへの飛行中に亡くなった。