「丘の上、ねむのき産婦人科」
演劇学校で知り合った友人から教えてもらった舞台。
ジェンダーやハラスメントの話をしていて、この舞台はいいと思うと教えてもらった。
産婦人科の待合室にいる6組のカップルの話。
私が観たのはA公演で、B公演もある。違いはA公演はカップルの女性役は女性の俳優が、男性役は男性の俳優が演じている。B公演はそれが逆。
当初、両方観ようと思っていたのだけど、観たら観たでおもしろいだろうけど、最初にA公演を観て、いいかな。と。
6組のカップルが演じる内容に正直、目新しいものはなかった。私自身が似たようなことを経験したこともあれば、新聞などで見聞きしたものがあり、私の想像力の範囲のものだった。その後、どうなったのか、どうするかはこれもまた、観客ひとりひとりの想像力のなかにある、ということか。
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2021081900001.html
朝日新聞のweb論座に作家自身が書いているように、女性のしんどさが詰まった舞台だった。見方を変えれば男性のしんどさももちろんあるのだろう。しかし、それはこの舞台では表現されていない。
女性のしんどさに限ると、この劇中で示されていることは想像の範囲で、ということは女性だったらきっと、多分、ほとんど想像の範囲。
それを演劇の形で見せることに意味がないとは思わない。だけど、これがどれだけの人に届くのだろう。少なくとも観た人、観ようとした人は意識をするだろう。しかし、多くの男性は、自分がそうだと思うことはとても少ないことをこれまで経験してきた。
後半、私が産まれる少し前に舞台が遡る。そこで繰り広げられることはきっとその当時当たり前のことで、私も親が話しているのを聞いたことのある内容があった。それは今では考えられない内容で、でもそういう時代だったのだ。少なくとも私の親の世代は。
そして私の世代にもそれは形を変えて続いている。
最後に未来のシーンがある。
そこでは様々な形が普通にある可能性が示されているのだが、子どもを持たない可能性は示されているのだろうか。
カップルでない、シングルの可能性は示されている。
持ちたいのに持てない人へのサポートがあり、
持ちたくないのに持った人へのものも一定のものがあり、どちらも十分ではないにせよ。
持ちたくなくて持たない人は蚊帳の外なのだろうか。